Episode.2 異端の狩人 しかし、それとは違う――生きた、瑠璃。 狩りとは芸術だ。 といったのは、確かこの島――自治区・ピーズフルートに古くから住む、年老いた狩人だったように思う。 その言葉が今はすでに出来もしない狩りに魅入られた老いぼれの戯言でないことは、この島の者なら誰もが知っている。 そしてそれは、この少女――レイの狩りを見れば、真実であることは一瞬で知れるだろう。 深い翡翠色に輝くグリューネ海が一望できる高い崖の先端に立つ年若き狩人、レイ。 少女の手には白と青に輝く二振りの片手剣が握られている。 容赦なく吹き付ける潮風にレイの瑠璃色の髪が乱され、短い全体と対象に伸ばされたサイドの髪の房が視界を隠す。 それすら気にもかけずまっすぐに水平線を見つめていたレイの澄んだアイスブルーの瞳が、ふと伏せられて…―― 彼女の身体は、宙に踊った。 ひゅう、と、風を切る音が耳元で鳴る。 水面をめがけて落ちていくレイの表情は真剣そのもので、ただひたすらに海底を見据えていた。 ざぶん、と大きな波飛沫が立ち、レイの姿は海に消えていった。 いくつもの空気の泡をまとって深くへともぐっていくレイは、息を止めていない。 長い四肢はまるで歩くかのようにいとも簡単に水中を進み、まだ水上の光が届く底までくると、 その身体はくるりと回転して岩場に足を付けた。 その眼はしっかと見開かれ、グリューネの潮に色彩を晒している。 レイは人間ではなかった。 人間でないとはいっても、この世界「ヴェルニカ」には、人間以外の種族なら多数存在する。 エルフ、妖精、獣人、鳥人、妖魔、ドワーフ――… その数は細かいものを含めて200あまりにも達し、すでに失われたものも多い。 レイの種族、「竜人」も、そのうちのひとつだ。 竜、半竜、人間の姿を持つ伝説上の種族。別名をリヴァイアサンという。 空と海を自由に移動し、海獣たちと意思疎通をし、海神(わだつみ)の恩恵を受けた最強の狩人。 かつて彼らが棲家にしていたという渓谷は現在の世界のどこにも存在せず、遥か創世から綴られてきたという名のある歴史書には、約2000年前に竜人は巨大隕石の墜落によって滅亡した、としか記述されていない。 ゆえに現代ではその竜人が実在したのかさえ知る者は少なく、御伽噺でのヒーローにしか過ぎなかったのである。 しかし、今ここに、海を駆ける「竜」は存在する。 何の因果か、今この現代に蘇った伝説が。 レイの双眸が、ふと、何かを捉えた。 とん、と軽く岩場を蹴れば、しなやかな筋肉により形作られる滑らかなラインはゆらゆらと舞いながら速さを増して、海水を切り裂くように下降していく。 片手に握った片手剣をひらめかせて構えると、海底へ向けて一気に放った。 ザン、と鋭い音が海中に響き、なにかの巨大な影が、白い片手剣で砂浜に縫い付けられる。 少し遅れて海底に立ったレイは、剣を引き抜くと、痛みを感じる暇もなかったであろう即死の影を抱え上げた。 銀の硬い鱗、赤くギョロリとした目、翼のような大きな鰭。体長はレイの胴ほどある。 ヴィガロ、と呼ばれる肉食の魚類だった。このグリューネ海に多く生息し、食用として広く知られている白身の魚である。 レイは、しばらくすれば嵐が来るという話を聞き、ピーズフルートで最も狩のうまい人材として嵐の間の食料を確保しにやってきていたのであった。 大海にぽっかりと浮かぶ極小の島国であるピーズフルートにとって、海は生活の糧である。 その海を荒らす嵐となれば用意は周到になり、嵐が来るたびに何人かが単独で食料を調達し、残りは島の環境を整えて嵐に備えるのが恒例であった。 その役目は狩の腕を認められたも同然であり、住人の信頼が寄せられている証拠である。 幼い頃のレイにとっては、考えもつかないほどの進歩だ。 何故ならレイは、 ピーズフルートにおいての「異点」であるからだ。 レイは記憶を失っていた。 10年前の話である。赤毛を束ねた翡翠の瞳の少女――当時7歳のマーサは、ひとりで狩の練習をするため、弓矢を抱えて島の端にある小さな崖の上の森に来ていた。 森、といっても木々が生い茂ったジャングルのようなもので、主に鳥類を中心とした様々な獣が生息している。 島長の娘であるマーサは、暇を見つけてはこうして森へ訪れ、狩の練習に獣を何匹か捕らえて帰るのだった。 エルフの血を継いだマーサの視力は獣の姿をよく捉えるが、この日はまた別のものを見つけた。 木々の向こう、真っ白な砂浜から遥か遠くへ続くグリューネの海。 日差しを反射して煌く瑠璃色。 しかし、それとは違う――生きた、瑠璃。 「!!」 そう、それはヒトの姿だった。 マーサは弓矢を放り投げ一目散に走り出した。 彼女にとって、5mほどの崖など大した問題にはならない。 運動能力に長けた特殊な種族の持つ脚力は、強く地を蹴り段差を飛び降りて、砂浜へと見事に着地した。 しかし休む間もない。倒れる人影へ向けて、素早く駆け寄る。 そっと抱き上げたとき、マーサは驚きに目を見張った。 「――ッ、……おんな…の、子?」 マーサよりいくつか年下だろうか。 かつては長かったのであろう瑠璃色の美しい髪は首元で刈り取られたように短く切られ、 今ではサイドの髪がさらりと伸びるのみである。 今は閉じられている瞳を縁取る長い睫毛が血の気の失せた白い頬に影を落とす。 ほっそりとした華奢な身体を包むのは瑠璃色のシンプルなドレスだが、 ところどころひっかかれたように裂けて、白い肌がむき出しになっていた。 しかし、マーサが驚いたのはそこではない。 彼女の"耳"は魚のヒレのような形を成し、その上部からは、小さな真っ白い角が生えていたのだ。 マーサはこの島から出たことがない。 それでも幼い頭でもこれは異質なのだと理解でき、刹那、動きを止めて戸惑う。 しかし少女を抱き上げる手が、彼女の背から流れる血に染まっていくのに気付いた瞬間。 生まれたときから散々言いつけられてきた「掟」など忘れて、少女を背負い、町へ向けて一心不乱に走りだしていたのだった。 |