一話 | ナノ


Episode.1 
それを私は、愛とは呼ばない。






その少女、レイは、夢をみていた。


否、夢なのかどうかすら明瞭とはしない。
意識がふわふわとしてひどく心地よく、五感が伝えるすべての感覚はまるでこの世のものではないように、ただひたすらに美しくはかなげであったから、
レイは「夢」だと思っただけであった。


ごぽり、という水音が聞こえる。
海だ。
レイは海に沈んでいた。


されどそれは本当に海だろうか。


深い深い蒼、レイの髪色によく似たその美しい瑠璃色は確かに深海を思わせるが、これは夢なのだ。
レイの深層心理にある故郷への羨望が現れただけかもしれないし、もしかしたらここは空かもしれない。
とにかくすべてが明瞭としない。

けれど深淵みへ堕ちていく暖かな優しさだけははっきりとわかるのだから、不思議としか言いようがなかった。



ひたすらに蒼が続く深い世界に、唐突に鮮烈な紅が紛れ込んだ。

紅はレイの視界を弄ぶようにゆらゆらと漂って、一瞬目前を紅に埋め尽くす。
そして視界が晴れたとき、そこに広がるのは蒼の世界ではなかった。




ただ延々と紅が続く、死の世界。




恐らく初めは真っ白で大層美しかったのだろう建物や、道端に健気に咲いた草花には乾燥して黒ずんだ紅が付着し、
くねくねと遠くまで伸びる石畳には血塗れた死体がいくつも折り重なって、その地にはすでにかつての面影はなかった。



――しかしレイは、この場所を見たことはない。
なのに何故、"かつての面影"などといえるのだろう。


これは私の夢だから、私の意識が反映されていて、それを私が知らないはずはない。
そう、レイは誤魔化そうとする。
彼女の深い底にしまいこまれた記憶を無視し、目を逸らし続けるのだ。

そうして彼女は生きてきた。

醜いほどに人間らしいその感情は、恐怖。
虚実の日々を失い、真実を知ることへの恐怖だった。





レイは死体の山のなかに、ぽつんと立っていた。


蒼をまとうレイに、この紅に染められた世界は不釣合いだ。
しかし彼女の日に焼けた頬には返り血が付着し、その手に握られた白い片手剣の切っ先からは、まだ新しいと思われる鮮やかな血がとめどなく滴り落ちている。





『君が殺したのね?』





どこからか声が聞こえる。

凛、と澄んだ、美しい女性の声。

しかし、姿は見えない。





『よくやったわね』





彼女はレイを褒めている。

しかし、レイは嬉しくなかった。

ヒトを殺めて「よくやった」など、






『愛してるわ』








―――それを私は、愛とは呼ばない。









「っ!!」


ガバリ、と飛び起きる。
そこは見慣れた自分の部屋だった。

白と青を基調にしてバランスよく置かれた家具類。
大きな窓からは心地よい潮風が優しく吹き込んでいて、白いレースのカーテンを揺らす。
レイのいる大きな寝台にはそこから柔らかい日差しが射し込み、レイの髪と瞳と、枕もとの二振りの片手剣を光らせていた。


「……夢、か」


ぽそり、と呟く。
今は長手袋とアームウォーマーに包まれていない手で中心で分けられた前髪をくしゃりと掻き上げると、その手首で、白いバングルがきらりと煌き揺れた。


レイ・リウィッツ、15歳。
瑠璃色の髪に水色の瞳を持つ少女。
中性的な面立ちに日に焼けた肌、引き締まった手足は少年のようだが、年のわりに発育はいいらしく、身体のラインは女性そのものを成していた。

今彼女は大陸から離れた小さな小さな島国に住み、
義理の母と姉とともに暮らし、日々を国の安全に費やしているのだった。



「レイ!もう起きたの?ご飯よ!」


部屋のドアをノックしながらレイを呼ぶ少女。
聞きなれたその声に、レイは沈み始めていたその顔をはっと上げ、うれしそうに微笑んだ。

「うん、今行く!」

声や口調もまた少年のように響く。
ベッドから飛び降り、白と青を基調にした民族服を着て、そこだけ長く伸びたサイドの髪の片方を纏めて、ブーツを履き急いでドアを開ける一連の動作は恐ろしく速かった。


「珍しいわね、レイがお寝坊さんなんて。夢でもみた?」


ドアを開けたレイの顔を見てクスリ、と笑うこの少女――マーサ・リウィッツ、17歳。

サイドで結い上げた赤い巻き毛に大きな翡翠色の瞳、小麦色の肌、小さく尖った耳の先は赤いラインが入っている。
レイと対照的な黒と赤の民族服に身を包むその少女はレイの義理の姉であり、命の恩人でもあった。
今はこうして母のもとでともに暮らし、支えあって生きている。


「夢?…うん、みたよ」
「え、本当?どんな夢?」
「おしえなーい」
「えーっ」

ぶーぶーと不満を訴える義姉の姿に明るい笑い声をあげながら、ふたりは階段を降りていく。
その先に広がる広いダイニングに、彼女たちの母はいた。


「おはようレイ。今日は寝坊したからね、あんたが皿洗いだよ」


レイにそういって豪快に笑い、ふたりの頭をわしわしと撫でるその人。


マーズ・リウィッツ、44歳。
後ろでひとつに纏めたワインレッドの巻き毛、一重で切れ長の目は暗い橙色。肌は褐色で、長く尖った耳はエルフの象徴だ。
黒と赤の民族服を纏うすらりとした長身は年齢を感じさせず、引き締まった筋肉は弓引く者のそれである。
マーサの実の母であり、レイのもうひとりの恩人でもあった。

「へへ…ごめんなさいおばさん」
「なーに謝ってんだい、あんたも疲れてるんだろう?寝坊しても仕方ないさ。ってことでマーサ、皿洗い、代わってやんな」
「え、うっそぉ!」

同時に笑い出す三人。
穏やかな景色。
平凡で、困難で、ゆるやかに流れていく日々。



この日常がもう少しで壊れてしまうなどと、いったい誰が予想したことだろうか。









破滅の時まで
  あと何時間――……?





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