Episode.12 虚勢の鳥のセレナーデ 「今はいっぱい泣いて、明日は笑おう?」 その後舞台に取り残された三人は、まずはゼノの怪我を治すため一旦宿へ戻った。 混乱して立ち去ったのか、客を戻しに向かったのか。 馬車や天幕の周辺には劇団員のひとりも居らず、ゼノを連れ出そうとするレイたちを咎める声はひとつとしてなかった。 『――闇満ちる刻を 明く照らす光よ――』 ベッドに腰掛けたゼノの前に、ロッドを抱いたミューが目を瞑って膝をついている。 彼女の足元には白い魔方陣が光を放っていた。 少女の桜色の唇は、囁くような、しかししっかりと芯を持った美しい歌声を奏で、旋律を紡ぐ。 『――その身に刻まれし棘を どうか癒し給う――』 ミューの詠唱が終わると同時。 彼女の握るロッドの中心の宝玉が淡く光り、宙から白く輝く光の羽根が舞い降りた。 羽根はゼノのむき出しにされた患部へと触れ、すぅと溶けて消える。 すると生々しく肉の露出していた傷口が見る見るうちに縫合されたように消え、あとには赤黒くこびりついた血の跡のみが残った。 治癒を終えたミューがロッドを降ろし、ゼノを見上げる。 「……応急処置はしましたが、念のため、激しい動きは控えて下さい。まだ痛みはあるでしょうし」 「ああ……ミューちゃん、っていったっけ。ありがとね」 ミューの金色の視線を見返して、ゼノが礼と共に微笑んだ。 昼に街の広場で見せた軽やかな笑みとも、舞台の上で見せた艶やかな笑みとも違う。 ただ哀しみを孕んだ、淋しい笑顔だった。 感情を押し殺してそれでも笑うゼノに、ミューが言葉を失い、俯く。 目の前で起きた兄弟たちの衝撃的な別れに、同じく弟を持つ彼女も、また同じように傷を負っていた。 彼に比べれば些細なものだろうけれど。 ミューの治癒術をもってしても、それは癒せない。 「いえ、いいんです」 静かに返す少女の声音が深く沈んでいたことに、ゼノだけが気づかなかった。 「じゃあ、私はこれで」 ミューの手にあったロッドが光の粒子となって飛散し消えると、彼女は仕事は終えたとばかりに立ち上がった。しかし、ベッドの淵に腰掛けたゼノは視線を合わせようともしない。 その態度に少しだけ心配が勝ったが、今の状況では慰めなど鬱陶しいだけだ。それをミューはいたいほどに知っている。 ベッドサイドに備え付けられた椅子に座ってことを眺めていたレイに視線を向けると、彼女はミューとともに部屋から立ち去ろうと椅子から立ち上がる気配もなく、ただまっすぐに、ミューの目を見つめてきた。 これは、決意したときの目だ。 「私はここにいるよ」 彼女が発した言葉は、案の定、はっきりとした意思を持ってミューに訴えかけてきた。 僅かながら予想のついていたミューの表情はあまり変わることなく、ただほんの少し眉尻を下げた。 一方、レイたちの名前ですらつい先ほど聞いたばかりのゼノは、わけがわからないという顔できょとんとしていた。 口がだらしなく開きっぱなしになるほどに。 その反応に気付いたレイが首を傾げ、彼の灰色の瞳を覗き込む。 「迷惑か?眠れないか?」 「いや、迷惑じゃないし、眠れないこともないけど…でも君も疲れてるでしょ?もう夜も遅いし、寝たほうがいいよ」 「大丈夫、眠くないぞ。ここにいる。ゼノが寝付くまで、いる」 ゼノとしては九歳ほども離れた子供の言葉を無下に拒否することはなかなかできない。女性を尊重する彼の性格からしても当然だ。 しかし、先ほどあのような事件が起きたばかりで混乱しているうえに、相手は見知らぬ少女である。 いやではないが困惑する、といった困った顔を浮かべて対応するゼノに対し、レイの表情はいたって真剣だ。 彼女の声は誰の是も非もきこうとはしない、かたい意思の表れだった。 当然、ゼノに断れるはずもない。 「う、うん…」と曖昧に頷きミューのほうへ視線を向けると、彼女もまた、困ったように笑っていた。 「すみません、ゼノさん」 「いや、いいよ。そうしたいっていってんだし、聞いてやるのがイケてる男ってもんでしょ?」 ミューが白髪をさらりと揺らし、頭を下げる。年齢はミューのほうがひとつ上だ。今の姿はまさしく姉である。 礼をされたゼノが慌てて手を振り頭を上げさせると、今日昼間みせたような、明るくキザな笑顔でバチンとウィンクと飛ばした。 幾分か調子が戻ってきたようである。 対するミューはしばしぽかんとしていたが、クスリと小さく微笑むと、レイをゆっくりと見た。 今この状況で、他人とのふれあいがゼノにとって酷であることはわかっている。 ゼノも表面上は明るく振舞っているが、彼も大人だ。感情を子供に対してぶつけられるはずがない。 たった姉弟ふたりきりで旅を続けてきたミューにとって、そういった心を読み取るのはそう難しいことではなかった。 しかし、レイは違う。 ハーフエルフであることを隠して生きてきたことには理由がある。 狭間の種族である彼らへの世間の風当たりはつらく、他人を信用することすら躊躇われた。 しかし、そんな彼女たちの凍りついた心を、レイはあっという間に解かしてしまった。 それは太陽のように暖かく、海のように広大で、空のように優しい―――心。 そんな彼女に、ミューは、願いを託したのだ。 自分の治癒術では癒せない傷を、どうか癒してほしいと。 「…そうです、ね……じゃ、おやすみなさい」 「ん、おやすみ」 「おやすみー」 小さく礼をしてからくるりと踵を返し扉から出て行くミューに向けて、二人分の声が返される。 レイは彼女の視線に託された祈りに気付いたのだろうか。 それは、扉を隔ててしまってからは、わからなかった。 個室を過ぎロビーへ行くと、黒髪の少年がひとり、ソファに沈み込んで腕を組んでいた。 真剣な顔で虚空を見つめ、傍から見れば考え事をしているような雰囲気だが、 彼自身は深く物事を考えるのがとても苦手なのだと、長い時をともに過ごしたミューは知っていた。 静かに歩み寄り、少年の隣にそっと腰掛ける。 気配に気付いていたギルは姉のほうへ視線を向けるでもなく、ただ音もなく横にずれ、彼女が広く座れるようにスペースを空けてやるのだった。 しばらくの間、二人を沈黙が支配した。 彼女らに沈黙は苦ではない。しかし、先に口火をきったのはギルだった。 「どうだ?あいつの様子…」 穏やかな声が静かなロビーに響く。 声音や台詞こそ興味の薄いそっけないものだが、ミューにはわかっている。 彼は心配なのだ。弟を唐突に失った男のことが。 心根が優しい少年なのだということを、ミューはいたいほど知っている。 問いかけられたミューは困ったように下がった眉尻をさらに下げて、それでもどうにか微笑んでみせた。 「表面上、普通に振舞ってたけど……なんていうんだろう。生気がないっていうか…ショックで、魂が抜け落ちちゃったみたいだった」 「……そうか」 ゼノの現在の状態は、まさしくミューが表現したとおりだった。 一見いつもどおりの軽薄な調子のいい男だ。しかしその低く甘いトーンの声には張りがなく、アッシュグレーの瞳には光が差さない。 まるで魂のないマネキンのような。 精巧に美しい器を魂を持たぬ人間味のないものにしてしまったのは、皮肉なことに、狂おしいまでに人間らしい感情だったのだ。 「今は、レイが看てるのか?」 「うん。ゼノさんももう寝ていいっていってたんだけど、いるって聞かなくて」 ギルが再び問う。 ミューはゆっくりと頷くと、己が先ほど出てきた部屋のある方向を見て小さく笑った。 ギルもつられて笑う。少し呆れを含んだ顔で。 「そりゃそうだ、目の前であんなことがあったんだし…レイの性格なら、気になって仕方がないはずだぜ」 「……そうだね…」 ミューの歯切れの悪い相槌に、ギルの笑顔がふっと消えた。 あのことを思い出したのだろう。 衝撃的だった。 二人にとってあの紫髪の兄弟は、舞台の上に立つ遠い存在だったのだ。 普通に生活していれば幾度も交わることなどないレールを通っていく、すれ違うだけの存在。 けれど今その兄弟の兄のほうは、己たちの手中にいる。 これからどうなっていくかもわからない、けれど確かにそのレールの上には、今、己たちがいる。 ―――否。もしかしたら、彼からこちらへ飛び込んできたのかもしれない。たった一度交わっただけのレールの上へ、助けを求めるように。 しばしの重い沈黙のあと。 静寂を破ったのはまたもやギルだった。 「……ところで、ミュー。気付いたか?」 「…彼…ゼノのつけてた、指輪のことだね?」 「ああ」 二人の金の瞳が真剣な色へと変わる。 姉弟は気づいていた。 ゼノ・フィルステインが舞台の上でも大事に左手の中指に嵌めていた、紫色の指輪の、存在を主張する僅かな光に。 それは二人のペンダント、そして、レイのバングルと同じ類のものだ。 ミューとギルはそう確信していた。 「ほんの少しだけど、俺の神器と共鳴してた。最初は微弱すぎてわからなかったけど、弟のゼナと戦ってたとき、ようやく気付いたよ」 「私も。きっとまだ未覚醒なんだね、向こうも何も感じていなかったみたいだし」 「こりゃ結構な偶然、いや必然か……あの弟と、あとから来た女が言ってたことも気になるし」 兄を舞台の上で襲った青年と、突如現れ謎の言葉を残して消えた少女。 ――――「うるさい黙れ!お前なんかに言われたくないんだよ、『表として生まれてきた』くせに!」 ――――「……―――エルフの少年を探すことだ」 脳内で二人分の台詞が反芻した。 頭痛がする。 何か大事なことを忘れている気がする。 ギルがキリキリと痛むこめかみを抑えると、傍らからすっと伸びてきた白くしなやかな手が、そっと優しくこめかみを撫ぜていった。 痛みが失せた代わりに、思い出そうとした何かも、同時に失った気がした。 「―――これは、私の勝手な想像なんだけど」 ミューの済んだ高い声が静かに響く。 ギルはふと目蓋を上げて金の瞳を転がすと、白くなめらかな頬の姉をじっと見つめた。 桜色の唇が動く。 「たぶん彼らは、私たち神器を持つ者たちを集めようとしてるんじゃないかな…って」 「俺たちを……?」 姉弟が『神器』と呼ぶものを所持しているのは、現時点では四人だ。 ミュー、ギル、レイ、そしてゼノ。 姉弟は惹かれるようにしてレイと出会い、そして今宵、ゼノは目の前でトラブルに巻き込まれ後を失った。 ミューはそれを誰かの意図的なものであると思えて仕方がないのだ、という。 確かに偶然と思うには聊か出来過ぎている感はある。 しかし誰が、何の目的で己たちを集めているのか。それがわからないことには断定の仕様がない。 ミューもそれは同じらしく、率直にぶつけられたギルの疑問に困ったような顔で首を振った。 「そこまでは分からないよ。でもあのゼナっていう人、『兄さんはもう戻れないから僕の手柄だ』、みたいなことを言っていたし……居場所を奪ってしまえば私たちのところに来るしかなくなるから、ってことだったのかなって思って」 「あの女も、受け渡すとかなんとか言ってたしな。つまりゼノに対して何か問題起こして、俺たちとくっつけようとしてたわけだ」 「そういうことだと思う」 相手も目的もわからないが、そう考えると辻褄が合う。 「……あとは、あの『エルフの少年を探せ』。これはやっぱり、同じ神器持ちってことでいいのかな?」 「新たな存在って言ってたしな。でもわかんねぇのは、俺たちの旅の目的について…」 「どうしてその人を探すとわかるんだろう?確かに、エルフは物知りだろうけど…」 考えれば考えるほど疑問は尽きない。 言葉を発するたびに解決しなければならない問題が起きて、それを解こうとして更に問題が起こる。 ループだった。 「……………あ゛ーーーーーーッ、わっかんねぇ!!」 誰もいないロビーで二人きり、額をつき合わせしばらく小さな声で相談を繰り返していたものの。 突如ギルが顔を勢いよく上げ、大声をあげた。 すぐ目の前にいたミューは唐突なその行動に思わず肩をびくりと震わせた。 当の本人は癖の強い黒髪をがしがしと乱暴に掻くと、くしゃりと顔をゆがめた。 面倒だ、と思っているときの表情だ。 少年は姉の自分と同じ瞳へ視線を合わせると、くっと口角を上げニヒルに微笑んでみせた。 「難しいことはあとにしようぜ。何が起ころうが負けやしねぇよ、俺らはさ。どうせ次の目的はなかったんだし、エルフの里に行ってみんのも手じゃねぇか」 「…ふふ。そうだね。ギルは苦手だもんね、考えるの」 「うっせ」 一方、ゼノが寝かされた寝室。 レイがいった「ゼノが寝付くまでいる」という言葉はまさしく本物で、 彼女はゼノの呼吸音に耳をすませながら、じっと目を閉じ椅子に座っているだけだった。 ゼノとしては正直、眠りづらい。 そうでないにしても、今夜はあまり眠る気になれないのだ。 何せあのようなことがあった直後である。 あの光景が、あの弟の顔が、夢の中に浮かび上がってきそうで――― じっ、と、少女の横顔を見つめてみる。 どちらかというと中性的だ。吊った細い眉と、少し薄い唇がそう思わせるのかもしれない。 子供らしい小ぶりな鼻。伏せた瞳の睫毛はまっすぐで長い。 今は閉じられているが、アーモンド型の二重まぶたの奥に鎮座する薄氷の瞳は、脳裏に鮮烈な光を焼き付けて離れない。 そう感じながら眺めていると、視線に気付いたレイがこちらを向いた。 澄んだアイスブルーの硝子球がゼノを映す。 「………」 「……?なんだ?」 純粋なその瞳を、なんだか困らせてみたくなった。 「……レイちゃん、って言ったっけ。なんであそこで、俺様のこと、助けたの?」 唐突な問いをぶつける。 案の定レイは驚いたように目をぱちくりとさせると、難しい顔で首を傾げてしまった。 「ん?……んー……むずかしい質問だなぁ」 しばしの考え込むような沈黙のあと、彼女は口を開いた。 「なんでかって言われたら、理由はないぞ。目の前で被害を受けてる人がいるなら、助けるのが普通なんだし」 これも想定内である。 少し関りあっただけだが、その短い期間でも彼女の正義感の強さをひしひしと感じたのだ。 リスクもメリットも関係ない。 自分が行ったことによって、誰かが救われることが重要なのだ。 そして、間違った道へ進もうとしている誰かを止めることも、大事なことのひとつなのだ。 そのためだったらどんな労力も惜しまない。 彼女はそんな人間なのだと思った。 ――――嗚呼、俺は、この少女が嫌いだ。 直感でそう思った。 「………本当に、そんなこと思ってんの?」 今度のゼノの発言には、レイはそう言われて当然とでもいうような顔で受け止めた。 そしてまたもさも当然のように、力強く頷いて、肯定してみせたのだ。 自分は誰かを助けることに何か理由はいらないと思っている、と。 偽善だ。 俺にはそんなこと、信じられない。 「………ゼノ」 それっきり黙り込んでしまったゼノに、困ったようにレイが声をかけた。 長い睫がゆったりと持ち上がり、明るいグレーの瞳がこちらを向く。 しばし見詰め合ったあと、ゼノは唐突に上体を起こした。 それからレイが何かを発しようと口を開いた瞬間、あふれ掛けた声を遮って、男は穏やかな口調で話し始めた。 「俺と、ゼナ…弟はね、生まれたときからずーっと、周りから虐げられてきた」 目の色が違うだけだ。たったそれだけ。それだけのたったひとつの小さな違いが、種族の中では禁忌に成り得た。 最初に生まれたゼノはまだ仕方ないといわれていたのだという。集落の中でも、異なった色素を持つ者は極稀に生まれていたらしい。 彼らはある程度まで集落で隔離されて育ち、自立できる歳になると集落を出て行くことが決まっていたのだという。 雷鳥族という名を捨てるため、その雷を行使する力を奪われて。 しかし、ゼノが生まれた三年後、母が生んだ子供はまたも同じグレーの瞳をしていた。 同じ女性から二人も続けて禁忌の瞳を持つ子供が生まれたのだ。集落は混乱に包まれた。 なぜそうも禁忌が生まれるのか、そういった疑問を抱いた者は極僅かで、ほとんどの者の意識は禁忌を生んだ張本人―――ゼノとゼナの母へ向けられたのである。 彼女は三度禁忌を生む可能性を恐れられ、二人の幼い子供と共に頑丈な牢屋に放り込まれた。 はじめは一応でも乳飲み子を気遣ってだろうか、少なく粗末でも確実に与えられていた食事は、ゼナがものを話す頃には母にはほとんど回ってこなくなった。 そして夜になると母は、複数の男たちに牢屋から連れ出されていった。幼い頃はどこか少し離れた部屋から聞こえる母の悲鳴と男たちの卑下た笑い声にただ怯えるだけだったが、今思えばあれはただの暴行ではなかったのだろう。 集落は彼女の生む赤子の危険性を監禁という形で押さえ込んだのに、男たちは彼女の女としての性を弄んだのだ。 母がいない部屋で二人で眠り、朝起きると、そこには「おはよう」といって笑う彼女のやつれた顔があったという。 母はいつまでも母だった。 「でもそれも、長くは続かなくて……ある日、朝日が昇っても、母さんは起きなかった」 母は小さな鉄格子付きの窓から差す朝日に包まれて、静かに事切れていたという。 無理もない。食事は子供たちに食べさせる分以外まともに与えられず、夜毎何人もの男たちにいい様に扱われてたのだ。 冷たい体は痩せ細り、頬はこけて、白い顔はそれでも美しかったという。 そのとき。 牢獄の中に囚われて外に意識を向けることのできていなかったゼノの耳に、男たちの笑い声が聞こえてきた。 母をもてあそんだ男たち。そうだ。あの男たちの中には――― 父親が、いたのだ。 「気付いたら、俺たちを閉じ込めていた牢獄の壁は木っ端微塵に砕け散ってた。まるで、俺たちの周りだけ雷が落ちて、嵐が過ぎたあとみたいな……目に入ったのは、母さんの亡骸、怯えてうずくまって震えるゼナ、そして―――焼け焦げた肉片と、血の飛び散ったあとだった」 「…ゼナはそのとき、何かしたのか?」 「さあ。まったく覚えてないんだ。ただ、心の底から親父が憎かったってだけ。……そのときは夢中で、ゼナを連れて集落を出た。誰も追ってこなかったよ」 子供の足、それも弟のゼナはまだ三つになるかならないかくらいだ。遠くにいけるとは到底思わない。それに周辺には魔物も少なからずいる。 しかし兄弟は危険に遭遇する前に、あの例の豪奢な馬車に出会ったのだという。 幻想旅劇団、「ファンタジスタ」だ。 「団長はぼろぼろの俺らを拾って、根っから演技を叩き込んだ。練習はつらかったけど、死に物狂いでやった。だって俺らにはそれしかなかったんだ。雷の力を奪われて集落から追放された禁忌の子たちが、どうなるか知ってるか?……能力をなくしたら、雷鳥族なんてただのオモチャだよ。どっかの盗賊に捕まえられて物好きに売り飛ばされて終わりさ。だったら見世物になるほうがよっぽどいい。だから、だから俺は、ゼナを守るために……親父も母さんもいないからって、兄ちゃんだからって、あいつを守ろうとしたのに、なのに俺は……―――ッ!!」 「もういいッ!!」 深く沈んだゼノの言葉を遮って、レイの悲痛な声が響いた。 過去を語るごとに記憶にがんじがらめにされていくのが、決して鋭いわけではないレイにでもわかった。 明るい瞳は涙に濡れている。 レイは背を丸めてうなだれるゼノの顔を覗き込むようにベッドの縁に腰掛けると、彼の両肩に両手を置き、ふっと口元に笑みを浮かべてみせた。 しかし瞳は感情を抑えるように、ゆらゆらと揺れている。 「これ以上自分が傷付くことなんて口にしなくていい……大丈夫だぞ。ゼノはえらいぞ。ずっとずっと、弟を守るためにがんばってきたんだもんな。今回はちょっとうまく伝わらなかっただけだ。きっと仲直りできるから、今はいっぱい泣いて、明日は笑おう?な、ゼノ―――」 あたたかい手。 静かでおだやかな声。 兄だからと、大人だからと、虚勢を張り続けた己の弱音を、全力で受け止めてくれた彼女。 包み込むようなそれは、ずっと過去に永遠に失ってしまった――― あの、母のぬくもりのような。 兄だからと押さえ込んでいた涙が、堰を切ったように溢れ出した。 「……っう、く……ぅああ…!」 やさしい手に誘われるまま、彼女の肩口に額を埋めて、泣いた。 泣けなかった日々の感情をすべて吐き出すように。 哀しい兄の慟哭は、彼が泣き疲れて寝入るまで続いた。 |