六話 | ナノ


Episode.6 
まるで想いが叶った乙女のように、ひどく幸せそうに微笑んだ。




「うそだっ……嘘だ嘘だッ」


嵐の前の静けさ。

そんな言葉が頭の中に浮かんで、レイは色を失くした唇で幾度もつぶやいた。


両手の中にある剣の柄を強く強く握り締めて、ばしゃん、と、大きな音をたてて再び水の中へと飛び込む。
波に踊らされるように揺れる身体を無理やりに前へ掻き出すようにしながら、レイは必死に泳いだ。

だめだ。
だめだ、だめだ、
絶対にだめだ。

自分を救ってくれた人たちを、掟に逆らって自分を受け入れてくれた人たちを、
失うようなことは、絶対にあってはならないんだ。
彼らを、彼女らを守るために、自分という存在は今ここに生きているのだから。

もしこの身が、力が、世界の災厄そのものならば―――




この命など、惜しくはない。


それは、彼女が幼い頃から抱き続けた、強い想いだった。





静かだった波は徐々に荒れ始め、麗らかな春の日差しをさえぎる様に雲が天を覆い始めた。

それは、これから来る嵐を示していた。








レイがその悲鳴を聞いたのは、雨の降り始めた中ようやく陸へと上がり、獲物の入った網を置いて驚異的な俊足で街の入り口へと辿り着いたときだった。


高い、少女の声。
今日の朝も自分を起こして、明るく笑ってみせた少女の――――



「ッマーサ!!」

レイが叫ぶ。
片手剣をその場に投げ捨てると、白い二振りのそれは水溜りの中へ軌跡を画いて落ちていった。

声の聞こえたほうへ走ると、大きさも形もばらばらな青い石を不規則に敷き詰めてできた美しい街の広場の中心、赤毛の少女――マーサが倒れているのが見えた。
その傍、数歩離れたところに、黒い外套を頭からかぶった背の高い影が立っている。



「マーサッ、マーサ!!」

影の存在も気にせず、がむしゃらに走り出す。
マーサのむき出しにされた肩がぴくりと動いて、ゆっくりと、ほんのわずかに顔をレイのほうへ傾けた。
傍に跪き、頬をそっと撫でる。


「……レ、イ…だめ、にげ……て…!」
「っ何いってんだよ、誰が逃げるもんか!マーサ、マーサ!しっかりしろ!!」


マーサの状態は酷いものだった。
エルハイドと人間の間に生まれたハーフエルフである彼女は、その種族柄肌の色が濃い。
しかし今のマーサはそれでも血の気がないことがはっきりとわかり、ふっくらとした唇は色が失せて、紅い血が口端から垂れひどく浮いている。
ほっそりとした身体は右上から袈裟斬りに深く傷つけられ、裂けた民族服の隙間から、鮮血が雨に混じって肌の上を止め処なく流れていくのが見えた。

くつくつと頭上で笑い声がし、ゆっくりと見上げる。
濡れて顔に張り付く前髪の隙間、暗いフードの奥で、薄い唇がいやらしく歪んだ。



「やっぱこの女を襲って正解だったか。竜自ら飛び込んできやがった、しかも手ぶらで!」


低い声が響く。男だ。
両側へ吊り上げるように引き伸ばされた口から赤い舌が覗き、ピアスのついたその先で唇を舐め辿る。
男の骨ばった手に握られた細身の剣の刀身が、赤く血塗れているのが見えた。
両手に力が籠もる。


「これで手柄は俺のもんだな。さあお嬢ちゃん、おとなしく着いて来て貰おうか?」


指先がレイに伸ばされる。
その手で、マーサを殺したのだろうか。
逃げる彼女の腕をつかんで、無理やりに振り向かせ、剣を振りかぶり――――――

誰かを殺して手に入れたのだろう、派手な指輪のいくつも嵌まった手を、レイの手がつかんだ。







「許さない」









ボキッ。




「―――ッ、ぎゃああぁぁぁああ!!!」


「耳障りだよ」



レイが男の手をとった刹那、その腕は肘から下がありえない方向に捻じ曲がり、骨の折れる鈍い音が鳴った。
剣を取り落とし醜い声を上げ、だらりと力の入らない腕をかばうように後ずさった男を追い、ゆらりと立ち上がる。
男を睨み付けるそのアイスブルーはひどく美しく、されど凍えるように冷たく―――怒りに研ぎ澄まされた鋭利な刃のごとく。


「……っ、こ、このくらいで!ナメてんじゃねェぞクソガキィイイ!!」

レイが立ち上がりこちらへ向かおうとしているのに気づいたのだろうか、はっとしたように男は顔を上げて、あわてて剣を拾い上げると無事なほうの腕で構えた。
震える切っ先をレイに向けて、自らを奮い立たせるように声を上げる。
刃を一閃、横にすばやく凪ぐと、振りかぶって切りかかってきた。

対するレイは恐ろしいまでに無表情で、冷静に剣の行く先を見つめる。
男が勝利を確信しニィと笑みを浮かべた瞬間―――目前に、白い光が軌跡を画いた。

キィン!と、
刃と刃のぶつかり合う音が辺りに響く。






「………え?」






フードの奥で男が目を丸くする。

男の振りかぶった剣を止めたのは、白い刀身の片刃の片手剣だった。
レイは確かに何も持っていなかったはずである。それは街の入り口で放ってきてしまったのだから。

見ると、レイの両手首で揺れる白いバングルに嵌められた深い青の宝玉が、ぼんやりと輝きを放っている。
剣の柄に嵌められた同じ宝玉も同様に輝いていた。


刃と刃の向こう、男の両手の剣の力を片腕で支えるレイの瞳が、色をにじませるように淡く光る。


ひっと情けない声が喉から漏れて、危険を感じ身を翻そうとする。
しかしなぜか身体はその状態からぴくりとも動かない。
見ると、男の腕、足、胴、首―――至る所にどこからともなく水が絡み付いて、動きを封じていた。





「っこの……化け物ォオオ!!」





男が叫ぶ。
それを最後に、彼が何かを発することはなかった。

まばゆい一閃が走り、喉が切り裂かれ、頭部が滑り落ちる。

飛び散った血がレイの頬を汚した。










「……マーサ、」

ずしゃり、と頭部から遅れて崩れ落ちた男の身体を呆然と見下ろした後、レイはぽつりとつぶやいた。
彼女の両手で剣が一度青い光をまとったかと思うとすうと消え、バングルの宝玉が一度さらに強く光って、次の瞬間には収まった。
ぱっと身体を反転させ、倒れこむ少女の傍へ駆け寄る。

細い身体をそっと抱え上げると、翡翠色の瞳がレイを映した。



「レイ……」

「ごめん、ごめんな…!私が、私がいたから」
「…ちがう、違うよ、レイ…」

マーサの手がゆっくりとあげられ、そっと、レイの頬を撫でる。
レイは先ほどまでの冷たい瞳がうそのように目を潤ませてぐしゃりと顔を歪めると、頬に触れる手に自分の手を重ねた。


「マーサ、マーサ…ッ!」
「…レイは、何も…わるく、ない、よ」
「そんな…っ」
「きいて、……最後かもしれない、から」
「そんなこと言うなッ!」



ごふ、とマーサが咳き込んで、大量の血が吐き出された。

飛び散ったそれはレイの顔を汚す。
マーサの命に、あまり時間が残されていないことを示していた。

それでもマーサは光を失くしていく瞳をやさしく細めて、ふっと微笑む。
レイの瞳から零れだした大粒の涙が、雨と一緒になってマーサの頬を伝っていった。


「すき、……だいすきよ、レイ」
「マーサっ、私も…好き、大好き……!だから死なないでぇッ」
「むちゃ、いわないで…よ。もう……わがまま、なんだ、から…」


「ああ、もう、レイの顔…よく見えないわ……レイの泣き顔な、んて、すっごい貴重…なのに……」



もう声もでなくなったレイは駄々を捏ねるようにぶんぶんと顔を横に振って、マーサの手を握り締め、ぎゅっと抱き寄せた。
それが傷に響いたマーサは一瞬つらそうな顔をするも、次の瞬間―――紋章が浮かび上がったレイの背中にそっと手を回し、


「……いたい、なあ……でも、」







ふわり、と。

まるで想いが叶った乙女のように、ひどく幸せそうに微笑んだ。















「――――レイの腕の中なら、どんな生よりも、しあわせね」

















「……マーサ?」


反応のなくなったマーサに気づき、レイが顔を上げた。
マーサの身体をそっと離す。
長いまつげの先に溜まった雫が、マーサの目尻に落ちて頬を滑り落ちた。
もう動かない。
小さく先が尖り赤いラインの入った耳元で、レイとそろいのピアスだけが、きらりと煌いた。



冷たい、身体。

翡翠の瞳はもう、自分を映さない。















「あ、あ…」





「うわああァぁぁぁアアあぁぁあアッ!!!!!」








竜の慟哭が、周囲に木霊した。















レイの背後。

街の奥から先ほどの叫びを聞いたのだろう、同じような風体の影がぞろぞろと出てきて、レイの姿を見てはそれぞれに何事かを口にした。
しかし今、レイの耳にその音は届かない。
そっと、マーサへ顔を寄せる。





涙の後の残る頬へ、やわらかく、触れるだけのキスをした。





そっと、彼女の身体を横たえる。
両手を胸の前で組ませて、口元の血をぬぐってやった。



すっと立ち上がる。



レイの背中、肩甲骨を覆おう皮膚がぐぐぐと盛り上がって、青く変色し、巨大な翼を形成し始めた。
同じように額の両脇でも皮膚が押し上げられ、白い角が伸び始める。
耳元は徐々に変形を始め、魚のヒレに似た姿へとなっていった。
脊髄のひとつひとつがうずき、棘の形を成して浮かび上がっていく。
血に濡れた頬を、透けた瑠璃色の鱗がうっすらと覆う。


伏せられた瞼がそっと持ち上がり、瞳が現れ―――





瞳孔が縦に裂けた竜の瞳が、影たちをにらみつけた。





















「生きて帰れると、思うなよ」






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