「焦凍はさ、不満とかないの」
「何だ急に。不満?何に対してだ?」
「わたし」
BGM代わりに流していたテレビを何となく見ていたらしい焦凍は、わたしの声にこちらを振り返った、気配がした。焦凍の方を見ていないから、察するしかない。察しなくても、いいのかもしれないけど。
仕事帰りに寄った近所の閉店間際のスーパーで、半額シールの貼られたお惣菜をカゴに詰め込んだ。駆け足も出来ずに、寧ろ痙攣しそうになってる足をもたもたと動かしてなんとか、2人で生活しているマンションのエントランスに転がり込む。ちょうど来ていたエレベーターに乗り込んで、1人なのをいいことに背中をがっつりと壁にもたれさせて、ゆっくり進む数字を眺めた。
今日も残業だった。むしろ残業ない日なんてあるの?と問いただしたい。サビ残じゃないだけいいかもしれない。いや残業が夜遅くまで毎日あるのはおかしいって。お金もらえてるからOKみたいな言い方、完璧に毒されてる。まあ貰えるもん貰えないなら、とっくのとうに辞めているけれど。
新卒から働いているから、もうかれこれ7年目になるのだろうか。大学生の頃のわたしは、今の社畜で残業でQOL爆下がりな生活を想像出来ていた?否、ワクワクしていたに違いない。輝かしい社会人ライフを。今ならまだ間に合うから考え直せと、最後の力を振り絞ってでも揺さぶりたい。誰かタイムトラベルの個性をお持ちの方はいらっしゃいませんか。・・・いたらその人人生大変だろうな。
ポーンと少しだけ優雅な音がして目的の階に着いたことを知らせる。空いたドアの先をこれまたもつれそうになる足を叱咤して、自分の部屋の番号の前まで来た。カバンのポケットに入れている鍵を、スーパーの袋を避けながら取り出して目の前の鍵穴に差し込む。回した時の手応えに、ほっとした様な、ちょっとだけ切ないような気持ちが湧いた。
ドアノブを下げてドアを開けてから、人感センサーで明るくなった玄関に必要のないただいまを零す。受け取ってくれる人がいない日の方が、少ないだろうか。どうだろう。
廊下を進んだ先のリビングの電気をつけて、テーブルにお惣菜の入ったビニール袋を、慎重だか大雑把だかわからない速度で置く。人の気配のないがらんとした部屋は、残業で疲れた体や心を、さらに疲れさせる気持ちにさせた。
焦凍はまだ、帰ってきていない。
そもそも世間を色めき立たせるヒーローショートと、残業三昧社畜一般人のわたしがどうやって出会ったのか、わたしでも未だに謎だった。ロマンチックな乙女なら奇跡とか運命とか言うのかもしれないけれど、そういうのに心を割く余裕が無い。 もっと女らしくした方が焦凍も喜ぶと思うけれど、それを頑張るなら眠りたい。
紆余曲折を経てなんか出会って恋に落ちて、一緒に暮らし始めるまで結構早かった気がする。既に社畜だったわたしは色んなことを焦凍に任せていたので、同棲もあっという間にマンションの内見を済ませた焦凍が「手続きは全部俺がやるから、ここで一緒に暮らそう」と寝落ちしつつあるわたしに囁いて、頭が船を漕いでいたせいで即頷いたみたいになった。
多分その時、わたしは焦凍の話を3割くらいしか聞いてない。いや3割も怪しい。なんかめちゃくちゃ喋ってたけど、夢の世界にほぼ全身浸かっていた。例に漏れず残業して死にかけのわたしの部屋に、その頃には焦凍は当たり前のように入り浸っていたっけ。
わたしを寝かしつけた後一緒に眠って、奇跡の一日休みに死んだように眠るわたしのそばで宣言通り、手続きを全部した。そう、わたしのアパートの解約だとかライフラインの解約だとか引越し業者の手配とか。
起きたら夕方で、ぼんやりした頭で部屋を見渡すと、テーブルの上の書き置きが目に入る。緊急の仕事が入ったこと、わたしの引越しの日のこと、etc。
引越し・・・?と昨夜のことをすっかり忘れていたわたしは、回らない頭でその文字を何回も読んだ。そして最後に何もしなくて大丈夫だと書いてある文字を読んで、それならいいかなんてまたベッドに倒れ込み翌日から社畜を再開したのであった。息切れを起こしながら日々を過ごし、気がついたら引越しが終わっていて、同棲がスタートしていたと。住所変更に伴う手続きが色々あったけど、焦凍が車を出してくれたから一日で終わったしわたしは移動中爆睡かましてて、今思えばだいぶ失礼だと思う。もうあとの祭りだけど。
「あるわけねぇだろ、不満なんて」
「何で?」
焦凍がお惣菜を箸で綺麗に掴んで口に運び、不満?なにそれおいしいの?と言わんばかりに首を傾げる。
そのお惣菜は美味しいと思うよ。あれば絶対買ってるから。
そんなこんなで同棲をスタートしてはや数年。残業三昧社畜は一人暮らしの時と変わらない生活をしていた。
朝眠れる限界まで寝て、起きてからインゲニウムも真っ青な速さで身支度をする。アスタリスク当社比。焦凍がいれば、寝ぼけて起きてきたと同時に、目を擦りながら食パンをトースターで焼いてくれて、ティファールで沸かしたお湯をコーヒーと、器に粉を入れて溶かすだけのコーンスープを作って置いてくれる。わたしは準備が出来たらサッと座ってげっ歯類もびっくりの速さで食パンをサクサクして、コーンスープとコーヒーを一気飲みして転がるように家を出る。焦凍がいない日は食パンを生でもりもり齧るだけ。
そうして仕事をして、残業して、申し訳ない気持ちと共にお惣菜を買って帰る。焦凍が先にいればお蕎麦が準備されてる時もあるし、いない時はわたしの買ってきたお惣菜をあっためて、冷凍してあるご飯を解凍して食べる。
こんな毎日を、永遠と繰り返している。
「ご飯だって作らないし」
「仕事が忙しいのはお互い様だろ。惣菜買ってきてくれるだけで助かる。それに作ってくれる時もあんだろ」
まともな生活を送れない。焦凍にも送らせてあげられない。食事は出来合いのものしか出せなくて、手料理のひとつすら出してあげられない。
たまにある休みの日は、大体寝てしまっているし、そもそも焦凍と休みが合わないことの方が多い。ごく稀に作る料理は、本当に家にあるものだけを使ったものなのに、焦凍はいつも美味しいと食べた。
「掃除だって、休みの日に少ししかしないし」
「あいつが掃除してくれてるから問題ねぇ。俺だってしてねぇし」
焦凍はインスタントのお味噌汁を飲んだあと、ちらりと視線を斜め下に下ろす。その先には、ルンバ二世が忙しなく動いていた。
体が疲れきっている。掃除をする余裕もない。ほぼ家にいないし、いる時は寝てるから下手に散らかすことはないけれど、ホコリはたまるのだからやらなければならない。だからたまに、何とかやる。でもほとんどルンバ。
ちなみに二世なのは、初代は寝ぼけた焦凍が間違えて踏み抜いたから。ルンバって踏み抜けるんだ。
「洗濯だって」
「乾燥機あるし、最近の服は形状記憶すげぇから俺も名前も困ってない」
「たしかに」
洗濯機に着ていた服を放り込んで、後に着替えた方が洗濯機のスイッチと洗剤を入れる。終わったことに気づいた方が乾燥機にぶち込んで終わり。その後はそれぞれ収穫のち着用。なお形状記憶かなり凄いしシワもつかない。これもきっと誰かの個性の応用か。生活に役に立ちすぎてて足を向けて眠れないけど、どの方向にいるか分からないのでもし向けていたらごめんなさい。
「ほら、何も不満なんてねぇだろ」
「どう考えても不出来すぎる彼女なんだけど」
「仕事が忙しいってちゃんとした理由がある」
「・・・恋人らしいことだってずっとしてない」
何も不満なんてないと、綺麗に食べ終えた焦凍はお箸を置いた。一方わたしは悶々としているせいか、目の前の美味しいお惣菜すら食べきっていない。
どう考えても不満しかない。不出来すぎる。同棲して家事もほとんどやらないし、いたとしても寝ているばかり。いくら仕事が大変だからって、もっと出来ることだってあると思う。でもかなしい哉、わたしの体力ではどうにも出来ないのであった。
焦凍はどうして嫌にならないのだろう。放り出さないのだろう。想像していた同棲と絶対に違うだろう。焦凍が想像する同棲生活がどんなものかは分からないけど、絶対に今の現状ではない。それだけはわかる。
「俺は名前の寝顔を見て、抱きしめて眠れるだけで十分だ」
だから、毎日毎日、いつお別れを突きつけられるかをふとした時に考えていた。
目まぐるしく過ぎる時間の中で、本当に一瞬、いつも考える。帰ったら焦凍は荷物と共にいないかもしれない。わたしの荷物がまとめられていて、出ていってと言われるかもしれない。そんな不安が過ぎって、でもこんな生活なのだから仕方ないのだと飲み込むしかなくて。
そもそも、恋人らしいことをしたのすらいつだったか忘れた。倒れるように寝てしまうわたしに、焦凍は文句も言わずに寄り添う。キスだっていつしただろうか。手を繋いで出かけたのは何ヶ月前か。
そんなことすら、わたしはわからない。
もはや寄生虫だ。恋人ではない。焦凍がしてくれることに上げ膳据え膳で、わたしは焦凍に何もしてない。
「名前」
想像するのはいつも冷たい声。でもそんな声は、ついぞ聞いたことがない。今だって、酷く優しい声でわたしを呼ぶのだ。
下がりきっていた顔を緩慢にあげると、その声に違わぬ、優しい顔をした焦凍がいた。助ける人にも、こんな顔を見せるのだろうか。仕事でも人を救って、家でもわたしを救おうとするなんて、焦凍はどこまでいってもヒーローなのだろう。
「そんな顔するな。一緒に暮らしたいって言ったのは俺なの、忘れたのか」
「・・・」
「こういう生活になるって、わかってて言い出したに決まってんだろ。」
毎日顔が見たいから。少ない時間でも一緒にいたいから。出来てないかもしれないけど、少しだけでも名前の生活の手助けがしたかったから。
都合のいいこの耳は、まるで夢のような言葉を聞く。脚色されまくってるかもしれないけれど、でもどうしたって、私の良いようにしか聞こえない。
疲れで霞む目だって、ぼやけるはずの焦凍はくっきりと映っていて。
いい大人になってきたからか、焦凍はまた一段とかっこよくなっている。元々かっこいいのに、これ以上かっこよくなってほかの女が放っておくはずがない。
わたしよりいい女性なんてそれこそ星の数ほどいると言うのに。
それでも焦凍は、なんの取り柄もない、寧ろお荷物でしかないわたしを選んでくれる。
「なんで・・・?」
家事もできない、可愛くもない、美人でもない、普通で、社畜で、自分のことすら満足にできない時だってある。
なのにどうして、焦凍はわたしを選ぶの?
「名前が好きだから」
優しく、それでいて柔く。焦凍が言葉を紡ぐ。
目は雄弁に、同じかそれ以上に語る。
そのたった一言で、その感情だけで、焦凍は全てを許して、受け止めて、簡単にわたしを、抱きしめてしまうのだ。
「すき、」
「不満や、嫌いになる要素なんてひとつも無い。名前は俺が好きなままの、名前のままだ」
「、」
「名前は俺のこと、好き?」
目まぐるしく過ぎる日々の中で忘れかけてしまう。
そばにいることが、何もかもが当たり前になって。
「、すきだよ、すきにきまってる」
でも、この気持ちはいつだって原点にあって。普段は表すことなんて出来ないくらい、それこそないのと同じくらいに言わないけれど。
それでもちゃんと、ここを振り返れば、いつだってここにあるんだ。
本当は、捨てられることを仕方ないなんて思いたくない。もっと家事だってしたいし、もう少し余裕のある生活をして、もっと焦凍との時間を増やしたい。
でも現状出来ないから、どうしようもなくて。
溢れ出す色んな気持ちに、視界は悪くなって下にあるお惣菜に、塩気を付け足してしまう。調味料を足す必要なんてないくらい美味しいものなのに。
「ん、俺も好き」
「うう、わたしもっとがんばるから」
「もう十分頑張ってんだろ。無理すんな」
「でも、もっと、なんかしたいよ。できないけど、できる範囲で、」
ぼたぼたと流れる涙を、ひんやりとした手が少し大雑把にさらっていく。泣いてる顔がおかしいのか、焦凍は機嫌よく笑っている。
毎日料理したり掃除したりは今すぐには無理だけど、できる範囲で、何かしたい。2分早く起きてコーヒーを入れる係を代わってもいいかもしれない。
何ができるかと、少ししょっぱくなったお惣菜をべそべそと泣きながら口に運んでいると、焦凍はじゃあ、と嬉しそうに口を開いた。