「・・・物間」
「君には名前すら呼ばれたくないな。手も掴んで婦女暴行でもしようとしていたのか?」
「んだと、」
空気がピリついている。お互いの声に実際に棘が生えているみたいにも思える。自分に向けられていないのに、体が縮こまってしまう。思わず目の前の物間のシャツをそっと掴んだ。
一分が何十分にも何時間にも感じられる。無言のまま、空気だけが重くのしかかってくる。
「・・・行くよ苗字」
「え、あ・・」
そう言いながら物間が振り返ったので、シャツを掴んでいた手を咄嗟に離せずにいると、それを見た物間がそっと固まったわたしの手をシャツから離してくれた。そうしてそのまま手を引かれ、焦凍くんのいる方とは反対の方へ進んでいこうと歩み始める。
「名前、いくな」
背中にかかったその声に、一瞬足が止まった。その声色は、小さい時にかけっこをしていて背中にかけられた声とそっくりだった。
ー名前ちゃん、まって、おいていかないでよう
あの時の小さいわたしが走るのをやめて、後ろの焦凍くんに駆け寄っていく。
ー焦凍くん、なかないで!手つないでいこお!
今のわたしは、もうあの小さな時の、ただただ一緒にいたいという感情だけだはいられない。焦凍くんの手を引くのは、もうわたしじゃなくてもいい。たくさんの仲間がいる。
幼馴染に戻れず、友達にもなりきれず、どろどろとした感情を抱えたまま。
うしろにいる焦凍くんを振り返らないで、違う人に手を引かれた。
物間はどんどん歩いていって、合宿所の裏手についたところで潔く足を止めた。振り返った物間は変な顔をしている。
「・・・あんなやつのせいで不細工な顔だね。」
「不細工って・・・」
片手は繋いだまま、もう片方の手をわたしの目元に寄せた。その手はひんやりしていて、熱くなった目元には気持ちがいい。わたしの個性を、コピーしたのだろう。
「こういう時にすぐアイシングできるなんて結構使える個性だね」
「今までは使えない個性だと思われてたみたいに聞こえる・・・」
「そんなことないよ」
ひんやりした手が目元全体を覆う。少しの沈黙の後、物間は言葉を紡いでいく。
「君の泣き顔は初めて見た。こんなに不細工になるならもう見なくてもいいかな」
「・・・すごいディスりが」
「黙って聞いて」
少し強めのその声に、大人しく口を閉じた。視覚が遮断された世界で、他の感覚が研ぎ澄まされるように物間の声が届いてくる。
「・・・僕なら君を泣かせたりしない。辛い顔もさせない。・・・好きな子にちょっかいをかけるような、子供っぽいこともやめるさ」
そっと目元の手が離れていく。繋いでいる手は熱く、逆に強く握られていた。
「・・・名前、君が好きだよ。君には笑顔が1番似合う。」
放たれた言葉を理解するのに時間がかかる。
目の前の物間は、初めて見るような真剣な顔をしている。・・・でもその眼差しは、どこかで見たことがあるような気がした。
「え、と・・・」
「傷心中の君にすぐ返事は求めないさ。・・・まあ、ちょっとは僕のことでも悩んでみてよ。君があいつを好きでも、振り向かせる自信はあるからね」
握られたてて手に一瞬力が入って、離される。熱くなってた手は、夜風に当たって少しひんやりした。
湯冷めしないようにね、と告げて物間は宿舎へ戻っていく。見えなくなってからも、なんとなく目で追いかけていた。
「・・・スマホ、落としたままだ」
▼ 振り向いて、
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