夜明け前に消えなくては

真っ暗な夜の中、街灯を頼りに歩みを進める。コンクリートの道に時折高くないヒールが引っかかって、何度もよろけるのはきっと歩き方が下手くそな所為。
体勢をゆっくり立て直そうとして自分の足が目に入って、下肢を流れる赤にそっとスカートを持ち上げると、先程転んで打ち付けた膝から少なくない量の血が滲んでいた。

スカートは汚れて、膝を怪我して。そう言えば手のひらもじくじくと痛む。転んだだけでこんな傷だらけになって、まるで子どもみたい。さっきからもよろけてばっかりだし、わたしは本当に転びやすいらしい。轟さんが気を使うわけだ。
そこまで考えてからふっと笑いが漏れた。また轟さんのことを考えていた。もう、轟さんのことは忘れないといけないのに。

スカートの汚れを軽く払って、持っていたボストンバッグの持ち手を握り直す。
進まなきゃ。少しでも遠くへ。下を向いていた顔をあげようとして、静かに耳に届く音に気づいた。聞き覚えのある音の方へ顔を向けると、わたしの左側、少しだけ遠くにぽっかりと空いた空間。住宅街を抜けて少し歩いた先に、こんなところがあったなんて。

街灯の灯りが届く範囲に見える、歩道から繋がる手すりもない石階段を慎重におりる。たった4段が怪我を抱えた足では覚束なくて、1段ずつ踏みしめていかないといけない。最後まで降りると靴の裏から伝わる質感が柔らかいものに変わる。体重をかければ少しだけ沈んで、引っ掛けただけのミュールは簡単に脱げてしまいそうだ。
その柔らかい砂に足を取られながらも1歩1歩進み、足を止めた先、静かな波が引いては満ちる。見渡す限りの海は、風が波を荒立てないからか月がその顔を覗かせていた。今日は満月だ。海のそばに街灯が無くても、こんなに明るい。
わたしの世界もこんな風に真っ暗なのに、月のような彼だけが、わたしの道標をしていた。

波が届かない所で腰を下ろし、バックも砂の上に置く。少し砂が着いたところで、払えばいい。柔らかく湿り気のない砂は、払えば簡単に落ちるはずだから。
膝を曲げて足を抱え、その上に顎を少し乗せて月を見上げる。潮の香りを感じながら、さあこれからどうしようかとぼんやりと目を瞑った。





水族館へ出かけたあとも、轟さんは何も変わりはしなかった。何も思い出せなかったわたしと同じように。その事でわたしが色々考えていることをおそらく轟さんは見抜いていて、それでも変わらずに過ごしてくれる。その優しさが嬉しいし痛かった。
わたしは何度轟さんに無理しなくていいと、思い出せなくても居てくれればいいと言われても、それに首を縦に振れる程良しと思える瞬間はない。轟さんがいいと言っても、わたしはいいと思えなかった。
だって、やっぱりあんまりだ。自分の恋人に何もかも忘れられて、思い出のひとつすら語り合えないなんて。共有した時間の一分一秒すら思い出せない、そんな罰が、轟さんにあっていいものか。
そう思うのに、わたしはあの柔らかな時間に浸って、それで、あろう事か轟さんを、苗字名前の恋人の轟さんに、甘えて挙句の果てには好意すら覚えていた。
そう、わたしに優しくしてくれる轟さんを、好きになりかけてるから。苗字名前の恋人の轟さんを、愛そうとしてしまっているから、このまま思い出さなくてもこの時間が続けばと、ほんの1ミリでも思ってしまったから、ちゃんとわたしにも、バチが当たったのだ。






いつものように轟さんを朝見送ったあとに、ゆっくりとリビングに戻り今日はまた掃除でもしようか、するならキッチンスペースをやろうかと、頭の中で思案する。時間は持て余すほどあるから、本当は色んなところの掃除とかもしたいのだけれど、まだ体調が万全じゃないと相変わらず轟さんはわたしの体を心配して、沢山やりすぎた日には帰ってきた彼に即座に寝室に押し込まれたりしてしまう。確かに疲れやすさは残っているけれど、もうだいぶいいのに。

キッチンの掃除をあらかた終わらせて、コーヒーを入れてから一息つく。ゆっくりやっていたので、ちょうどお昼の時間になった。お昼は何を食べようかとパントリーを見て、レトルトのパスタソースが目に入る。これなら麺だって電子レンジで茹でられる器もあるし、サッとできてちょうどいい。自分一人くらいなら納豆とご飯でもいいくらいだけど、生憎ご飯のあまりがない。朝炊いたけれど、轟さんのお昼のおにぎりと2人の朝ごはんできれいさっぱり食べ尽くしていた。轟さんはああ見えて結構沢山ご飯を食べる。朝もお茶碗2杯食べていった。そりゃヒーローは体が資本だから、エネルギーを蓄えないと上手く動けないのだろう。お昼は大きなおにぎりを2つ持って行っているけれど、それに付け足してなにか買って食べていそうだ。あれだけでおなかいっぱいになるとは思えない。
体調が万全になったら、お弁当を作ってもいいか聞いてみよう。今なら絶対却下されるけれど、元気になったら頷いてくれるかもしれない。
頭の中で、簡単な夕飯を食べて轟さんがふんわりと微笑む。美味しいと零すその声色が柔らかい。
作ったお弁当を食べる時も、わたしの見えないところで、そうやって微笑んだりするのだろうかと心が浮ついた。


パスタが茹で上がってお皿にあけ、レトルトのパスタソースを絡める。コップに水を注いでダイニングテーブルに並べてから、BGM代わりにリモコンでテレビを付けて自分の席に座る。1人小さくいただきますをして、脇に置いていたフォークを手に取った。
今日の夕飯は何にしようとくるくるとパスタを巻取りながら冷蔵庫の中身を思い出す。お野菜はそれなりにあるし、お肉もお魚も冷凍したものがあったはず。昨日はお肉だったから、今日はお魚でも焼こうかな。轟さんはお魚を食べるのが上手だから、育ちが良さそうなんて考えながらもそもそとパスタを食べていると、聞いたことがある名前がテレビから流れてきて、手を止めた。


『ヒーローショート、有名女優と密会』


テレビのテロップにはそう書かれていて、画面いっぱいに2人の姿が映し出される。少しくらい写真の中では、帽子で隠してはいるものの下から見える紅白色の頭髪が、それを彼だと裏付けてしまう。そしてその彼の隣に、ドラマや映画で引っ張りだこの女優が微笑んでいた。
ショート、轟さんのヒーロー名。あの帽子も見たことがある、というか今朝も被っていった。あの紅白頭も相まって、間違いなく彼だろうとどこか他人事のように思った。
隣にいる女優もテレビで何度も見たことがある。可愛らしくて、可憐で、守ってあげたいような、そんな人だ。
コメンテーターがあることない事話を繰り広げ、それにゲストたちは面白おかしく反応する。
もう何年も付き合ってるとか、既に一緒に住んでるのではないかとか、結婚まで秒読みかとか。
たぶん、おそらくその全ては本当に噂に過ぎない。だって轟さんはここに住んでるし、あの女優はここには来ない。

でも、確かにこの写真が撮られた日は、轟さんが少し遅くなると言って定時で帰ってこなかった日だ。仕事が忙しいんだなと思って、言われた通り作ったご飯を先に食べて、轟さんの分にラップをかけた。
そうか、あの時この人とあっていたのか。

漠然とした、言いようも出来ない気持ちが胸の内からじわじわと溢れ出す。
当たり前のことだ。少し考えればわかる。
轟さんは恋人だったとわたしを大切にしてくれているけれど、その恋人に全てを忘れられて、何も思わないわけが無い。
2人で過ごした時間も何もかも、わたしには思い出せなくて、轟さんしか持っていない。どこかへ連れ出しても思い出す気配もない。そんなわたしといて、辛くないわけが無い。

無意識に握りしめていた手の力が抜ける。
轟さんだって1人の人間で。いつまでも忘れられた恋人を思い続けられるはずがない。私なんかと比べるなんて烏滸がましいと思うほどに女優は素敵で、恋に落ちるのも頷ける。
もしかしたら少し前から付き合ってたかもしれないし、本当に結婚まで秒読みなのかもしれない。
ただ、わたしという存在が邪魔なだけで。
明らかにお荷物でしかないわたしに、轟さんはいつまでも優しく笑って、ここにいていいなんて言うから。
確かに轟さんにはわたしを守れなかったなんていう負い目があるのかもしれないけれど、それをずっと背負っていく必要はない。わたしももう体は良くなってきたし、もう少ししたら働けるだろう。記憶は戻らないけどきっと何とかなる。
だから、こんな邪魔者なわたしは、轟さんに甘えていないでさっさと消えた方がいい。
何も思い出せないからと甘えてしまっていたけど、思い出せないなら思い出せないなりに、ちゃんとした方が良かったのだ。
忘れてしまっているんだから、思い出す気配がないんだから、轟さんの過去になって、いつまでも足を引っ張ってないで。
甘えていた手を、離さないと。


食後に飲もうと思っていたコーヒーのために、セットしていたコーヒーメーカーの稼働音が響く。テレビの中の笑い声も、窓の外から小さく届く喧騒も、何もかもが、色のない音をした。







浮かれていたんだと思う。あんなにかっこよくて、優しくてわたしを大切にしてくれるから。それはあくまで恋人の苗字名前に対してで、わたしなんかじゃ、なかったのに。
勘違いしていた。思い出さなくていいと、無理しなくていいと言う言葉を少しでも真に受けた。そんなこと、あるはずがないのに。
少しでも思い出して欲しいと思っているのに、一向に思い出さないから。気持ちは早々に離れていっていたのかもしれない。それでも中途半端にわたしを投げ出すことが出来ないでいた。轟さんは優しいから。



「あ、調味料、足りない」


お昼から何していたかは思い出せない。ボーッとしていた気がする。パスタもほとんど食べずに捨てて、ひたすらにぼんやりと過ごしていた。
そうしてお夕飯を作る時間になって、無心で作り始めたはいいものの、使おうと思っていた調味料がなかった。そう言えば昨日使い切ったかもしれない。たしか明日、轟さんと一緒に買いに出かける予定だった。それをすっかり忘れて、その調味料を使用する料理を作るなんて本当に頭が抜けている。

たしか、近所のコンビニにはあった気がする。轟さんはさっき少し遅くなるって連絡が入っていたし、1人でコンビニに行ってみよう。近くだし、ぱっぱと行動したら10分もかからずに帰って来れるはずだ。
エプロンを外して、ショルダーバッグに財布と携帯を入れて洗面所の鏡で身だしなみ整えてからふうと息を吐き出す。1人で出かけないようにと言われていたけど、そこのコンビニならきっと大丈夫。
帰ってきてご飯を食べた後に、ちょっとだけ行ってきたと謝ろう。そして、わたしたちのこれからのことについて、ゆっくり話をしないと。
轟さんの、これからのために。


マンションを出て早歩きでコンビニへ向かう。部屋を出る時から1人なのにドキドキして、いまも変わらず緊張しているけれどきっと大丈夫。道は簡潔だし、迷子にはならない。多分内緒で出てきてしまっているという罪悪感があるから落ち着かないのだ。
帰ってきてからちゃんと1人で行けたと話すから、落ち着いていこう。

ショルダーバッグの肩紐を握りしめながら無事にコンビニに到着して、安堵の息を吐き出した。後は帰るだけ。お目当ての調味料を掴み、ついでにコンビニスイーツのコーナーを見る。
いつか轟さんが、わたしが好きだったと買ってきたデザートがそこにふたつあって。
食後のデザートにいいかもしれない。これを食べながら、落ち着いて話をしよう。そう考えて隣にあるカゴを取り、デザートと調味料を放り込んだ。


無事に買い物を終えてコンビニから出ようと足を踏み出した時に、マンションと反対の方から見慣れた車種の車がこちらに向かってくる。もしかしたら轟さんかもしれないと緊張して、コンビニ袋を握りしめた。
1人で出かけた事を怒られるかもしれないし、轟さんが先に帰ってわたしがいなかったらビックリするかもしれない。どうしよう、そう右往左往しながらまた向かってくる車を見て、目を見張った後に直ぐにコンビニの中に引き返した。
いらっしゃいませと気のない挨拶を受けながら奥まで進み、行き止まりで足を止める。他の客から見たら明らかな不審者に少し笑えた。

車はやっぱり轟さんの車で、運転席には轟さんがいて、助手席にも、誰かいた。誰かなんて分かりきっている。昼に熱愛が流れた、あの女優だ。
テレビのスキャンダルも、あながち嘘じゃないんだなあとどこか遠くで考えながら、小さく息を吐き出して踵を返す。
あの様子だと家には帰ってない。だから、早く帰ろう。



帰宅して早々に作り上げた夕飯にラップをして、寝室に戻り入院の時に轟さんが荷物を入れてくれていたボストンバッグに、少しの荷物を詰める。
出ていくなら今すぐだ。轟さんはあの女優とあっていて、遅くなるんだから。わたしはすぐにでも、消えた方がいい。轟さんと話をしてからと思ったけど、優しい轟さんがすぐに頷かないのは目に見える。
絶対に引き止められて、たとえ出ていくことになっても轟さんが全部手配してしまいそうだ。そして心底優しい轟さんは、定期的に見に来るだろう。それじゃ意味が無い。わたしという足枷を外してあげないといけない。そのためには、知らないうちに消えなくては。
残った荷物は捨ててもらえばいい。捨てる手間が申し訳ないけど、持っていくには多すぎる。
わたしのお金だと渡されていたわたし名義のカードがあるから、少しの間はホテルやネカフェで過ごして、そこから家探しをしよう。出来れば遠いところ。
病院はどうしようかと一瞬頭をよぎったけど、後で考えればいい。どうせ通ったところで思い出すことも無いのだから。

淡々と準備する自分をどこか客観的に見ている気分だ。気持ちがついていかないのか、そうなるだろうなという考えがどこかにあったからか。
ショックを受けてないと言えば嘘になるかもしれないけれど、いまはそのショックすら置き去りにして体が動いた。
離れたかった。轟さんから、過去から、何もかもから。

簡潔にまとめた手紙をダイニングテーブルにおいて、携帯から轟さんの連絡先を消す。
ボストンバッグを肩にかけて玄関のドアを開けると、先程よりもあたりは暗くなっていた。
本日2回目の1人外出で、轟さんに怒られるなあと思ってから、もう会うこともないんだったと独り言る。部屋の鍵もダイニングテーブルに置いたし、出ていく時に鍵は必要ない。ボタンひとつでロックをかけられるし、エントランスはオートロックだ。
要するにここを出たら、わたし一人ではここには入って来れないということ。それでいい。もう戻ってこない方が、いいのだ。いっその事、あの事件の時に、中途半端に記憶を無くして生きるのではなくて、きれいさっぱり死ねたら良かったのかも。
そうしたら、轟さんもわたしという存在に、縛られることもなかった。


エントランスを出て、コンビニとは反対側の道を進んでいく。スーパーも何もかもコンビニ方面だったから、こっちの道はほとんど通ったことも無い。でもそれでいい気がした。とりあえず気の済むまで歩いて、疲れたらタクシーでも拾えばいい。携帯で呼んでもいい。
だから、いまは何も考えないで進もう。遠くへ。

轟さんから、苗字名前の残骸から。手の届かないくらいに、遠くへ。





月がだいぶ傾いた。どのくらいそうしていたかはわからない。少しの肌寒さに腕をさすって、そろそろ移動しようかとぼんやりと思う。時折通る車の音と、波の音だけがその場を支配していて。
轟さんから離れれば、わたしは本当の意味でひとりぼっちになる。右も左もわからないまま、やっていくしかない。

轟さんは自由になるべきだ。わたしなんかに囚われていい人じゃない。凄いヒーローで、わたしなんかより轟さんのそばに相応しい人なんて山ほどいる。わたしは1番、相応しくない。
だから、轟さんの優しさを食い潰さないように、わたしから離れなくては。わたしがいなくなれば、轟さんもきっとどこかで、安心するはずだから。


漏れだしそうになる感情を口の中で噛み締めて、目頭が痛くなる感覚に膝に顔を埋めた。こんな感情を私が持つなんてお門違いなんだから。
震えそうになる背中を堪えるように丸めると、波の音に混じって規則的な砂の音が聞こえる。
綺麗な海だから、夜に散歩に来る人もいるのだろう。わたしに気にかけずに通り過ぎてくれることを願う。いまは、愛想笑いも出来そうにない。



「名前」


少し遠くで止まった足音と共に、最近聞きなれた声と、わたしを示す文字列が耳に響く。
それに息が止まって、心臓が酷く煩く動きだした。
ありえない。ありえないのに。
きっと幻聴で、近くにある気配も幻想で、どうしようも無いわたしが見たいと思っている、まぼろしで。

ゆっくり膝から顔を上げて、耳元で鳴る心臓の音を聞きながら声のした方に顔を向ける。


「夜の1人散歩は、あまり感心できねぇな」


朝方見送ったままの姿の轟さんが、肩で息をしながらそう微笑んだ。

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