いだくにも、力加減は難しい

「行くか」
「え?」


唐突に放たれる言葉に、視線を横に移した。今し方わたしも一緒に見ていたテレビからゆっくり振り向いて、轟さんは「行こう」と零して微笑んだ。


「え?行くって、行くんですか?」
「ああ」
「今から?」
「遅くはねぇだろ」
「・・・本当に?」
「本当」


その言葉にもう一度視線を前に戻す。テレビの中、ここから程遠くないらしい水族館。大きな水槽の中で魚が優雅に泳いでいる。いつか行ってみたい。確かにそう思っていて、そうしてそれを、轟さんは気づいてくれて。
ただの気まぐれかもしれない。轟さんが実は水族館が好きで行きたくて誘ってくれたのかもしれない。


「準備しておいで」
「・・・はい」


それでも、わたしの心を踊らせるには十分だった。








退院して2週間ほど。体の方は徐々に調子を取り戻してきてはいるけど、まだ仕事の復帰まではもう少しと言うところ。定期的な病院の受診でGOサインが出た暁には、めでたく働いていたとされる喫茶店に戻れるはずだ。例えばだけれども、コーヒーメーカーの扱い方を覚えているように、喫茶店での業務内容は忘れていないかもしれない。それも復帰してみてからでしか確かめることはできないのだけど。

家事の方は少しだけ料理と掃除などをさせてもらえている。過保護な轟さんは朝は必ず用意してくれるし、下手したら昼も簡単なものかデリバリーのチラシや冊子をテーブルに置いてここから頼むようにと笑顔で告げるも、「絶対ここから頼めよ休んでろよ」という無言の圧力の前に頼まない選択肢はない。

一緒に買い物に行きたいと、思い切って告げたあの日以降。時間が合えば轟さんとスーパーに行ったり、近所のコンビニまで歩くようになった。自分で言った割に部屋の外に出るのは何だか緊張したけど、轟さんを見上げると優しく笑ってくれるから。きっと大丈夫なんだと。何度も踏みしめた地面に、初めて足を踏み出した。

車の中や、静かな住宅街で何気なく話す内容は、轟さんのお仕事の話だったり、わたしがお昼に見たバラエティ番組やニュースの話。ヒーローは常に危険と隣り合わせだと思っているけど、迷い猫を探したりテレビに出演したりと、轟さんのお仕事の話は朗らかなものも多い。もちろん、怪我をして帰ってくることもあるからその時は心臓が耳元にあるみたいにうるさくなって。わたし自身が大怪我を負ったから、それがどんなに小さな傷でも痛みを伴うのは当たり前と知っている。綺麗に手当された傷を見たわたしを、轟さんはいつも大丈夫だと笑った。

繰り返される毎日の中で、記憶の端を掴めないかと時折雑貨や写真を眺めては、何も感じ取れないことに落胆する日々も、最初よりは落ち込まなくなった気がする。それでも絶望しない訳では無い。

もし、いつか悲しくなくなるときがきたら。それは思い出したときか、すべてを諦めたとき。
後者が来ないことを、願わずにはいられない。






「よかった」
「え?」
「嬉しそうだから」
「そりゃ、行きたいと思ってたから・・・」
「そう顔が言ってたもんな。平日だからンな混んでねぇだろきっと。ゆっくり回ろう」
「はい」


手早く準備を整えて、轟さんの車に乗り込み水族館へ向かう。車で30分ほどで着くらしい。平日のバイパスは休日のそれより車の流れも滞りない。水族館もきっと人で溢れてはいないだろう。ただ今日テレビでやっていたから、今週末は賑やかになっているかもしれない。
轟さんは職業柄休日が不定期だから、平日に家にいることも多い。むしろ土日休みの方が珍しいくらいだ。わたしも仕事に復帰したら、喫茶店はシフト制になるだろうから平日休みもあるだろう。


ぼんやりと窓の外、景色の流れを見ていたら轟さんから声をかけられて、そっちを見る。前を向いて運転している姿が様になっていて少し顔が火照る気がした。
轟さん、やっぱりわたしが行きたいって思ってるのわかって誘ってくれたんだ。自然と口元が緩んでしまう。やっぱり嬉しくないわけがない。


「き、記憶もなにか思い出すといいのですが」
「・・・」
「今まで何にも思い出せなくて、本当にわたしの頭ぽんこつですね」


なんだか気恥ずかしくなって足元を見ながらべらべらと話す。何も思い出さないのも、既に笑い話にしてしまえるくらいには気持ちが落ち着いて、いると思いたい。轟さんも、ほんとにぽんこつだなって笑ってくれていいのだ。むしろ思い出さないことを罵ったって、


「・・・無理に思い出さなくても大丈夫だ」
「、」


車に流れる流行りの音楽のなかで、静かに響き渡る。確かに耳に届いて、その言葉を咀嚼してから少しだけ目を見開いた。


「大丈夫だよ」


まるで幼い子どもに、優しく言い聞かせるような声色。やさしく抱きしめて、全てを赦してくれるような、そんな、あたたかさ。

膝の上に置いていた手に力を入れる。握りこんだスカートが波をうって形を変える。シワになるかもしれない。でも、力を込めていないと、ダメだった。鼻の奥がツンと痛くて、目頭が熱い。

どうして、轟さんはこんなにもわたしのために言ってくれるのだろう。本当は思い出して欲しいはずなのに。無理をしなくていいって、思い出さなくてもいいって。
そんなこと、あるはずないのに。
わたしの前でこうやって笑ってる影で、もしかしたら、わたしみたいに部屋で枕に顔を埋めてるかもしれないのに。

もし本当に、このまま思い出さなかったら。その時はどうなるのだろう。
この先数ヶ月後、数年単位で、轟さんがそばに置いてくれる、わけがない。
だって当たり前だ。わたしは大事なこと全て失って、轟さんとの関係すら曖昧で。そんなのが長続きする訳がないのだ。
轟さんは絶対に思っている。前のわたしに戻って欲しいって。だって、きっと誰だって思うことだ。口に出さないだけで、轟さんだって思い続けている。

思い出さないその先に、明るい未来などない。どれだけ尽くしても思い出さないわたしを、轟さんはいつか愛想を尽かすだろう。自分を忘れた恋人に、ずうっと優しいままなんて、できっこないんだから。
恋人らしいことひとつどころか、触れることすらできないで。
思い出さなければ、いつか必ず終わりが来る。当たり前のことだ。

足先を飾るミュールが、やけに鮮やかに見えた。







「・・・きれい」
「ああ」

ほの暗い世界のなか、青い光がゆらゆらと揺蕩う。目の前の大水槽のなか、数千にも及ぶ魚が自由にその尾びれを揺らした。


たどり着いた水族館はそれなりに大きな施設で、テレビでやっていた通り県内でも有名らしく、平日にしては人がいる印象だ。それでも、ゆっくりみて回るには問題は無さそうだと肩の力を抜いた。
入口で当たり前のように2人分のチケット代を払おうとする轟さんに抗議するも、「俺が来たくて誘った」と言いきられてカバンから財布を出すことすらできない。
入院中から何もかもお世話になりっぱなしなので、ちゃんとまとまったお金をいつか返そうと固く心に誓った。

パンフレットを受け取って中に入ると、水族館独特の雰囲気に飲まれる。まるで海の中にいるような、そんなほの暗さ。


「名前、足下気をつけろよ」
「はい」
「こっちだ」


少し前を歩く轟さんが段差の度に振り向いては注意を促す。外を歩く時もいつもこうだ。おかげでわたしは退院してから1度も転んだことがない。大人になってまでそんなに頻繁に転んでいたらそれはそれでおかしいけれど、轟さんは何故かわたしが転ぶと確信しているらしい。怪我をして体力が落ちているということもあるけれど、もしかしたら、元々転びやすいようなおっちょこちょいだったのかもしれない。

薄暗い中を轟さんとゆっくり進むと、すぐ目の前にこの水族館の目玉の大水槽が顔を出した。視界一面に広がる硝子の中に透き通るような青。その中を様々な魚が自由に泳いでいる。ふらふらと前に進んで、硝子の目前で止まり見上げた。

息を飲むような美しさだ。青い光も、無数の魚も、大小様々な気泡も。
光に反射して輝いていたり、鮮やかな色を纏う魚がそれぞれ自由に泳いでいる。
警戒心などない。この水槽という海の中では、彼らを脅かす何かは存在しないのだ。危機感を忘れ、ぬるま湯に浸かり、この水槽が世界の全てだと信じこんで生きて逝く。ひどく、やさしい世界。


「・・・きれい」
「ああ」
「連れてきて下さってありがとうございます」
「気にすんな。俺が行きたくてついてきてもらっただけだ」


隣で同じように上を見上げる轟さんは、わたしのつぶやきに同意を返す。この水槽を綺麗だと思わない人は、きっと水族館には来ない。
こういう施設は、好む人がくる。だから安心だった。同じような感情を共有できる空間は、生きていく上で息を抜くために必要だ。

ぼんやりと水槽を眺めていて、ガラスに何かが写っているのに気づいた。反射しているのだ。隣に立つ轟さんが。
轟さんもぼんやりと水槽を見つめては、感嘆の息を吐く。それを、硝子越しに見つめた。

轟さんは綺麗だ。目立つ髪の色は帽子で隠れてしまっているが、鮮やかで毛先は絡まることを知らない。右目のグレーは温かく、左の碧眼は、どこか雪のような青さを秘めている。顔の左半分にある火傷後さえ、彼を引き立てる要素でしかない。なぜ火傷を負っているのかは、知らない。聞けないでいた。たぶん、忘れる前のわたしは知っているのだろうけど。
火傷がなかったら、彼はもっと完成された美しさだったのかもしれない。でも、それはなんだか、違う気がした。
火傷があってはじめて、轟さんは、轟さんだと。何故か、そう思った。




「確かこっち、海月の水槽があったはずだ」
「くらげ、あ、本当だ」
「もっと奥に行くと深海コーナーだったか」


大水槽をしばらく見たあと、ほかの水槽も見るために2人で奥の方へと足を進める。最後は轟さんばかり見ていたのを知られたらもう顔を合わせられない。というか、ぼうっと硝子越しの轟さんを見てたら、気がついたら目が合っていた。
目が合っているということは、どういう事だ?としばらく考えてから、ハッとして顔を逸らす。それに隣から小さな笑い声が漏れて、顔が熱くなる。
「行こうか」の声になんとか返事をして、歩き出した轟さんを追いかけたけど。
目が合ったということは、みていたのだ。同じように、硝子越しに、わたしを。


恥ずかしさを霧散させるよう首を振りながら歩くと、轟さんは丁寧に水槽についてどこに何があるか話してくれる。それを2人で見て回って綺麗だと話し、時には見た目が不思議な魚に首を傾げた。
そうして時々硝子越しに目が合って、なんとも言えない気持ちになっていたたまれない。硝子越しに見つめ合う轟さんの顔は、いつも幸せそうに笑っていた。


「轟さん、ペンギンにも人気ですね・・・」
「よくわかんねぇけどそうなのか」


ペンギンの水槽に来て、その可愛さに惚けていると1羽、また1羽と轟さんの近くにペンギンが集まり始めた。どのペンギンもうっとりと轟さんを見つめている。彼の魅力は、動物にも有効だったと知った。


「名前のとこにもいる」
「来てくれましたね」
「雄か」
「いやわからないですよ・・・」


わたしの前にも2匹くらい来てくれて、近くで見れて嬉しいと思っていたら轟さんのよくわかない発言に首を傾げるしかない。わたしにペンギンの雌雄の見分けがつくはずないだろう。いや、もしかしたら喫茶店の前に水族館でもアルバイトしてたら・・・、まあ、そんなことはないだろうけど。



水族館もまわり続ければ終わりが来る。最後の方は水槽も減って、そのうちグッズやお土産のコーナーなどがその場を占めるのだろう。
小さな熱帯魚の水槽をひとつひとつ見ながらゆっくり歩く。時間も夕方になり、人も疎らだ。
前を向き直ると、同じように水槽を見つめながら進む轟さんが目に入る。わたしに付き合わせてないかと思ったけど、彼も水槽をよく見ていることから、ちゃんと好きだったと安心した。


「轟さん」
「ん?」
「綺麗でしたね」
「ああ。楽しかったか?」
「もちろんです。ありがとうございました」


どんなに小さな声で話しかけても、轟さんは必ずわたしの声を拾う。静かな場所でも、賑やかな所でも。そうしてわたしを見て、ふんわり笑うのだ。


「この水族館、来たことありましたか」
「ああ」
「・・・わたしと?」
「ああ、何回かな」


この水族館が初めてでは無いことは、入場してすぐに何となくわかった。歩みに迷いがないし、パンフレットは一回見たきり、開かずともどこに何が展示されているか大まかにわかっている。
そうして、水槽を見つめる横顔が。時折硝子越しに合う視線が。何を思っているかなど、想像するに容易い。


「それなのにわざわざ、何か、すみません」
「なんで謝るんだ」
「いえ、」
「俺が、名前と来たくて来た」
「・・・」


薄暗い海のような空間の中。水槽の青い光だけが、わたし達の顔を淡く照らし出す。
何回も来たところに、また連れてきてしまった。轟さんも楽しんでいたとは分かっていたけど、それでも。
苗字名前との思い出を、ひとつわたしが塗り替えてしまった気がして。それは、轟さんにとって望まないことでしかない。
わたしが思い出さない限り、轟さんの恋人の苗字名前は轟さんの思い出の中でしか生きれない。それなのに、わたしが。
わたしが、わたしって、一体、


「謝らなくていいんだ、何もかも」


俯いた視界のなかに、轟さんの靴が入り込む。それでも顔を上げられずにいると、轟さんの手が、力なくぶら下がっているわたしの手に触れた。


「、」
「お前が、ここにいてくれれば、それでいいから」


包み込まれるように握られる手に、降り注ぐような言葉に。弾かれるようにして顔をあげると、轟さんはわらっていた。
やさしく、そして愛おしそうに。

何も言えなかった。ただひたすらに、苦しかった。間違いなく彼を苦しめているのに。言わせちゃいけないことを、言わせているのに。
心のどこかで、視線に、言葉に。喜んでいるわたしがいるのが、酷く、苦しかった。


「帰ろう」
「は、い」


手が柔く握られたまま、轟さんはわたしを連れて歩き出す。酷くゆっくりな速度でさえ、わたしは足がもつれそうだった。

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