溺れようにもわたしは浅すぎる

「じゃあ行ってくるから」
「はい」
「昼飯は何でも頼んでくれ。夜は夕方には帰る」
「ゆうがた、」
「ああ、慣れるまでは不安だろ。それに体のこともあるから」
「そんな、悪いです。そんなご迷惑を」
「いいんだ。俺がやりたくてやってんだから。」


申し訳なさが拭えなくて気にするなと伝えたいのに、轟さんは優しく困ったように笑った。困らせたくなくて放つ言葉が結局は轟さんを困らせている気がしてならない。もどかしさを手のひらの中に転がして握り込めば、少しはいいのだろうか。


「じゃあ行って、・・・行ってくる」
「・・・行ってらっしゃい」


言葉と共に頬に手が伸びてこようとして、触れる直前で止まる。少しの間所在なさげに揺れた小さな傷跡の残る手が、彼の志す姿を物語っていた。ゆっくり彼の元に戻る手のひらを追いかけた後掛け直された言葉に返した返事は、はたしてそれで正解だったのだろうか。

閉じられていく扉をぼんやりと見つめる。隙間から入り込む風が頬を撫でて、その温度に残冬を知る。差し込む陽光に目覚めようとする蕾は、ちぐはぐとしたこの温度のなかで何を思うのだろう。

触れかけた指先が瞳の奥に残る。その綺麗とは言えない無骨な手が、頬に触れようとしたその瞬間。思うことは何も無かった。まるでそれが当たり前のように、そこにある事が正しいように。
全てを失う前の2人のあるべき姿を、轟さんのふとした所作のなかで、部屋のそこかしこに転がる知らない思い出のなかで憶える。
そうして小さく肩を落として。
わたしのいた痕跡を、2人の過ごした軌跡をなぞっても。それがわたしのなかで、土から覗く芽のように春を告げることはない。








退院したその日、轟さんは買い物からすぐ帰ってきて出来合いの昼食を2人で向かい合わせに座って食べた。スプーンで掬った食物が震えているのは、初めて2人で食べる食事に何だか緊張してなのか、まだ手の動かしづらさがあるせいなのかはわからない。轟さんのいない間にトイレに行ったりしたけれど、わたしの体は思ったより重症だったらしく、なかなかに色々痛んでひとつひとつの動作が煩わしい。病院にいた頃は至れり尽くせりだったからわからなかった。やはり在宅に移行するということはそう簡単では無いのだ。なんて、長期入院して自宅に帰る他人のことに思いを馳せた。


「作るつもりだったって言ったけどよ、」
「・・・?」
「俺、本当はあんま料理出来ねぇんだ。名前に頼ってばっかだったから」

蕎麦を茹でるのは得意なんだが。
何か話した方がいいのか手元のスプーンを見ながら考えあぐねていると、向かい側から発せられる声が耳に響いた。そっと視線をあげると、同じように手元の箸を見ている轟さんがいる。零された言葉は、多分独り言ではない。


「そうなんです、ね」
「お前にいいとこ見せてぇって気持ち、あったのかもな」


そう、箸を見たまま何かを思い返すように切なく口元を緩めた轟さんの髪を、少し開けた窓から入ってきた春先の風がふわりとさらった。








「おはよう」
「おはよう、ございます。轟さん、今日お仕事は・・・」
「ああ、今日も休みを取ってる。退院したばっかで何があるかわかんねぇしな。」


明日からは流石に休めねぇ。悪ぃなと零しながら、轟さんは目の前のコーヒーメーカーに視線を落として、ふたつ並んだマグカップに挽きたての香りのするコーヒーを注ぎ込んだ。



「いえ、むしろ申し訳ないです。忙しいのに」
「んなことねぇよ。むしろ有給消化出来ていい。それにヒーローは俺だけじゃねぇ。仲間がいんだ。こういう時に背中を預けられるような奴ら」


コーヒーの注がれたマグカップを運ぼうとするとわたしより先に轟さんの手がマグカップをさらってしまう。一瞬の後に見上げると、ふらついて転んだら危ねぇからと口元を緩めた。少し過保護な気もするが、昨日の今日で体調がかなり好転しているとも思えないので大人しく昨日と同じ席に腰を下ろす他ない。転んでコーヒーをぶちまけるなどマグカップを運ばせるより迷惑極まりない事象だ。
テーブルの上にはサラダの器と、スクランブルエッグの横にウインナーが添えられたお皿が2人分。目の前には何も乗ってない平皿。たぶんこれは、トースターでいま焼かれている食パンのためのお皿だ。漂う香ばしい香りが空の胃をくすぐった。


「用意、何から何まですみません・・・」
「悪ぃことしてねぇんだから謝るな。怪我人なんだからもっと甘えたっていいくらいだ」
「申し訳ないです、」
「ほらまた」
「う、・・・あ、ありがとうございます・・・?」


共に席に着いた轟さんに全てをさせてしまっていることを申し訳ないと告げると謝るなと言われてしまった。でも謝る他言葉が見つからない。入院して、目を覚ましてから、いや目を覚ます前からずっと轟さんにはお世話になっているのだ。体の自由もきかなければ記憶すらも持ち合わせていない。そんなただのお荷物でしかないわたしには色々してもらって当たり前などという図太すぎる精神は備わっていない。備わってなくてよかった。以前のわたしも備わってないといいけど。
じゃあなんと言葉にしたら良いのだろうと逡巡して、頭の中にある謝罪に似た言葉を探す。そうしてやっとたどり着いた感謝の言葉をおそるおそる口にして轟さんを見ると、マグカップを持ちながら優しく笑った。


「どういたしまして」


パンが焼き上がる可愛らしい機械音がリビングに響く。
轟さんの優しい顔は、花が綻ぶ春のようだ。





「名前の職場には俺が代わりに診断書とか提出して休暇貰ってっから」


朝食を終えてソファーでテレビを見ながら満腹感で微睡んでいた時、洗濯物を干し終わったのか斜め向かいに座る轟さんはそういえばと続けた。洗濯物の手伝いを申し出ても座っていろと言われたのは記憶に新しい。でも下着の入ったランドリーバックは気になると思うからと手渡されて、ゆっくりやるようにと背中に釘を刺されながら自室で干した。気を利かせてくれている。恋人という関係がわたしの中で損なわれてしまっている今、やはりよく知らぬ男と過ごすのはストレスで、下着などセンシティブなことは尚更。轟さんはきっとそう思ってくれている。そうして思いの外、わたしがストレスを感じていないことは知らない。


「代わりに・・・、ほんと何から何まで・・・」
「気にすんな。あそこの喫茶店の店主とは顔見知りだから」


とりあえず1ヶ月休暇貰ったけど、体の調子を見ながら難しそうだったらもう少し伸ばそう。
そう提案してくれる轟さんに緩慢に頷いた。あそこの喫茶店とはきっとわたしが働いているところで間違いない。店主の顔も喫茶店の外装や内装も何一つわからない。けど体の調子が良くなって少しでも外に出られるようになったら、1度は挨拶に行きたい。その時、頼めば轟さんはついてきてくれるだろうか。
結局、昨日なしにしようと言われた敬語は抜けきらない。それが申し訳なさから来ているのか、2人の関係を、距離を測りかねているのか。わたし自身にすら、よくわからなかった。


「あの、」
「ん?」
「わたしたちの、こと、知りたいです」


だから、知りたい。わたしのこと、轟さんのこと、わたしたちのこと。眠ってるだけの記憶を呼び起こす布石になれたら。
それがもし、布石なれなくても。思い出せなくても、この数年間の生きていた証を聞きたいのだ。あなたと出会ってからのわたしを、教えて欲しい。あなたの横で、どんな顔で、どんな言葉を吐いて、どんな風に、笑ったのか。どんな風に、あなたを愛したのか。
今の空っぽなわたしの世界には、確かにあなたしかいないのだから。








廊下の冷えた空気がフローリングから足先を伝う。春先の早朝はまだ不安定な寒さを残していた。踵を返してリビングに戻ると、朝起きがけに彼がつけた暖房が部屋の温度を一定に保っている。この暖房も、あと数日もすれば長期休暇を言い渡すことが出来るだろう。そうしてその時に、わたしの記憶も戻っていたら。

ダイニングテーブルに置かれたマグカップをとって口をつける。朝食の時に淹れたコーヒーの温度は、飲みやす過ぎるくらいには下がっていた。
マグカップの中、水面にわたしの顔が映る。頬にある擦り傷は、瘡蓋を形成してその存在を主張する。時折、轟さんはわたしの顔を見てその眉尻を下げる時があった。その時の視線は、いつもわたしの目の下あたりだったので、きっとこの傷を見ていたのだろう。

もっと早く駆けつけられたら。病院で悲痛に漏らしたその声は、確かな後悔と怒りを含んでいた。膝の上、固く握りこまれた手をぼんやりと見つめていたのを思い出す。
あのときのわたしは、本当に何もわからなかった。ただ漠然と、そこにいることしかできない。しかし今のわたしが様々なことを知っているのかと聞かれたら、それは確実にノーなのだけれど。
それでも、いまのわたしなら。
あの時に握りこまれていた手を、解いてあげることくらい出来るのかもしれない。


轟さんとわたしは、3年前に出会ったらしい。短大に通う中で件の喫茶店でアルバイトをして、卒業後はそのまま就職し今に至る。アルバイト時代から、時折喫茶店に訪れる轟さんと顔見知りになり、紆余曲折経てお付き合いが始まったらしい。そうして驚くことに、轟さんの一目惚れから始まったと。てっきりわたしからアプローチしたのだと思っていた。轟さんはそれほどに、世間一般から見てもかっこいいと称される見た目をしているから。告白して了承が貰えた時は、天にも登る気持ちとはこの事だと思ったと少し照れながら話す姿に、わたしも照れないはずがなかった。

同棲が始まったのは2年前。轟さんが大きな怪我を負って、わたしが数日看病をするために泊まり込んだ。甲斐甲斐しく看病する姿が、共に生活するその後ろ姿が忘れられなくて、看病を終えて帰ったわたしに同棲を申し込んだとの事だった。恥ずかしげもなく語られる惚気にも似た思い出にわたしは顔があげられなかった。羞恥で顔が赤くなる。そして、そんな思い出の中に存在する苗字名前は、たしかにわたしの話なのに、いまのわたしではないと、心のどこかで思うことをやめられなかったから。


マグカップをシンクに置いて蛇口をひねる。たちまちコップの中に水が溜まって溢れていった。

轟さんは聞けばなんでも答えてくれた。楽しそうに、嬉しそうに、照れくさそうに。そして時折、困ったように。そうして轟さんから零される幸せの欠片を、ひとつひとつ拾って相槌を打って。

そういえばそんなこともあったねって、あ、思い出したって、応えられたら良かった。忘れてごめんねって、手を握ってあげられたらどれほど良かったか。


込み上げてくる吐き気にも似た何かに口元を抑えて蹲る。
わたしは、苗字名前であって、苗字名前じゃない。だってなにも思い出せない。語られる苗字名前が本物で、今ここにいる空っぽなわたしは偽物だとしか思えない。

辛かった。思い出せないこと、元のわたしに戻れないこと。そして、忘れられている轟さんに辛い思いをさせているとおもうのが、何より辛かった。

轟さんは優しくわらう。
悲しいはずなのに、辛いはずなのに、そんなことは微塵も感じさせないように。
そうしてその瞳にわたしを映して、愛おしさを滲ませて。

そこに映ってるわたしは、いったい誰なのだろう


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