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 自動ドアが開いた瞬間、吹き込んできた柔らかな春の風が鼻先をかすめていった。

 陽射しを浴びて輝く新緑の木々、軽やかな小鳥のさえずり。

 晴れやかな気分になるはずの新しい季節の訪れでさえも、求職中の男にとっては、今の沈んだ気分を浮上させてくれるようなモノではない。

「――今日も駄目か」

 暗い表情で職業安定所を出た男は、氏名欄に『陣内英一』と書かれた履歴書を封筒にしまい、深くため息をついた。

 求職活動が長引く覚悟はあったが、ここまで何の成果も得られないと、さすがに焦りが滲んでくる。

 38歳という微妙な年齢に加えて、大型一種免許以外に資格欄に記入できるような資格はなく、しかも今はその運転が出来ないという状況で、条件に合った職種に巡り会うのは難しい。
 難しいのは、分かっていても。

「クソッ。何が『ハローワーク』だ、ふざけやがって」

 『ハローワーク』という呑気な名前にすら殺意を覚えて看板を睨みつけるが、そのネーミングセンスに何の罪もないのだという事は、陣内自身もよくよく承知していた。


 陣内は元々、流通業界大手に名を連ねる会社の配送ドライバーだった。

 思わぬアクシデントや渋滞に巻き込まれた時も最短の迂回ルートを選び、遅れることなく正確に納品を済ませて回る冷静な判断力と、どんな貨物にも細心の注意を払って扱う几帳面さは、社内のみならず取引先からの評価も高く。
 その真面目な仕事ぶりもさることながら、角張った顎と太めの眉、奥二重の目が無骨な男臭さを感じさせる純日本男児風の顔立ちは「雄っぽくて格好イイ」と取引先の女性社員に絶大な人気があり、中にはお局様の特権で配送ドライバーに陣内を指定する会社もあった程だ。

 逞しい身体に青い作業服が似合う、男気溢れる配送ドライバーが実は筋金入りのゲイだと知れば、卒倒する女は多いだろう。


 その優秀な配送ドライバーが、連日ハローワークに通い詰める理由は一つ。
 20年近く勤めた会社を3ヶ月前に退職し、現在は絶賛職探し中なのだ。

 人員削減の整理対象になった訳ではなく、何か問題を起こして解雇された訳でもない。
 形としては『自己都合退職』という扱いになるのだろうか。

 こんな事になってしまったそもそもの原因は、恐ろしく間抜けで情けないものだった。

 買い物帰りに凍結した路面に気を取られてソロソロ歩いているうちに、後ろから近付いてきた女子高生の自転車に追突され転倒。
 その時は特に何の痛みもなく、ただ転んだだけだと思っていたのに、数日後には貨物の積み下ろしも出来ないほど腰痛がひどくなり、長時間の運転も難しくなってしまったのだ。

 女子高生の自転車に轢かれて腰痛持ちになるなんて、恥ずかし過ぎて泣けてくる。

 医者の話では、治療とリハビリを続ければいずれ元通りに治るらしいが。
 通院するには金がかかる。
 腰が治らなければ運転が出来ず、金が入らない。
 休職扱いで治療に専念することが出来れば一番理想的だが、この不況の折、いつ復帰出来るか分からない者を雇い続ける余裕が会社にない事はよく分かっていた。

 最悪の無限地獄に陥ってしまった陣内は、取り敢えず配送の仕事を辞めて他の稼ぎ口を探すことにしたものの……。

「このままじゃ、来月には住所不定無職確定だな」

 元々貯金の積み立てが出来るほど余裕のある暮らしを送っていた訳ではない男には、僅かな失業保険だけで今後の生活設計を立てていくのは至難の技。
 今月はともかく、来月分の家賃を支払えるかどうかはかなり怪しい。

「あーあ」

 今日何度目か分からない深いため息をついて駅へと歩き始めたその時。
 一台の黒い高級外車が流れるように優雅な動きで駐車場を横切り、陣内の前でピタリと停止した。

 ――どこの坊ちゃんだか知らねえが、こんな車で職安に来るくらいならまずは車を売り飛ばせってんだ。

 そんな事を考えながら心の中で舌打ちして、黒光りする外車を眺め、横を通り過ぎようと歩を進める。

「陣内さん」

 車のドアが開くと同時に名前を呼ばれたような気がして、陣内はふと足を停めた。

 どうやら、名前を呼ばれたというのは気のせいではなさそうだ。
 見るからに高そうなスーツに身を包み、緩くウェーブのかかった茶髪を綺麗にセットした長身の男が運転席から降りて笑顔で陣内の前に立った。

「陣内英一さんですね」



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