隣に居ればいつだって



 

 ついてない日。心のなかで吐き捨てて、伝線したストッキングを隠すように立つ。風でぐしゃぐしゃになった前髪を整える。なるべく目立たないように端に立っていたのに、昼ごはんを食べ損ねたまま来たせいでお腹がなった。周りの人がいっせいにこちらを向く。ついさっきまでは皆それぞれ憶測だとか下らない推理だとかを繰り広げていて、わたしの存在なんか見えていないみたいだったのに。

 本来なら乱歩と一緒に探偵社を出てここまで来るはずが、行き違いでバラバラになってしまった。今日の不運はそこからかもしれない。不運といっても、恋人同士だからといって四六時中行動を共にしたい、だとかそういうことではなくて、問題は彼が彼を好いているらしい女性と連れ立って現れたこと。普段ならそんなこと気にしないけれど、最近知り合ったにしてはやけに親しげに話している(ように見える)し、警察署の皆様はなぜだかそんなふたりを歓迎ムードだしで、わたしの機嫌は悪くなる一方だった。とはいえわたしだって、自分の機嫌を自分で取れないほど子どもでは無い。だからお昼ご飯は好きなものを食べようと思ったのに、そう決めた途端に乱歩と馴染みの警察官の話が弾み始めて、抜けるに抜け出せなくなった。もう一度お腹がなったけれど、今度は周りのざわめきに紛れて、事なきを得る。ふう、と一息ついて携帯を付けようとしたら充電が切れていて、また気分が沈む。

 ようやく乱歩から離れた新人の女性警官はさっきまでの控えめで清純な雰囲気が嘘のように、口角を下げてわたしのほうへ向かってくる。なんだ、さっきのは演技だったのか、とほっとした。だってそんなこと、乱歩が見抜けないわけないから。

 わたしって単純だ。相変わらずお腹は空いているけれど、ちょっとだけ機嫌が治ってしまった。おかげで余裕を持って挨拶出来る。こんにちは、今日は乱歩のこと任せてしまってごめんなさい。ちょっと露骨だったかしら、と思いつつも、乱歩のおもりは実際大変なのだから、と開き直る。彼女はいえいえ、とあからさまに不満げな笑みを浮かべて、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。それから、ぐっと距離をつめて、一言。
 あなたみたいなひとには負けたくないです。

 確かに、ストッキングは破れているし、髪は決まっていないし、口紅の塗り直しだって出来ていないけれど。ここに来るまでの、時間の伝達ミスだとか朝から片付けた面倒な仕事だとかを思い出して、それらをすべて口に出して並べたくなる。それでも結局わたしから発せられたのは、そうですか、というなんとも無難な言葉だけだった。何個も年下の、しかも取引先(警察を取引先、というのは何だか不思議な感じだけれど)の新人に怒りなんてわかなくて、代わりにわたしを占めているのはどうしようもなく沈んだ気持ちと疲れ、ただそれだけ。
 
「もう帰っていいよね? 僕もう疲れたし。ああ、帰りは送ってくれなくて大丈夫」
 話に飽きたのか、乱歩がこちらへ向かってくる。
「もういいの?」
「いい。今日はこのまま帰るから、連絡しといて」

 腕を掴まれて、会議室を出る。わたしと話している間、隣にいる彼女のほうへは見向きもしなかった。そのことに内心喜んでしまっている自分に気がついて、余裕の無さに辟易する。付き合いたてという訳でもないのに。恋をすると、大人らしくいることが突然難しくなってしまって、嫌になる。

「さっき携帯の充電切れちゃって」
「じゃあ僕がかける」

 そういった乱歩は珍しく自分の携帯で探偵社に連絡を──一方的に要件を言って切るだけの電話を連絡と呼んでいいのかはわからないけれど──してくれて、わたしも彼も直帰ということになった。
 急な展開についていけず、タクシーに乗ってから、
「そんなに疲れた?」
 と、聞いてみる。
「別に。そういう気分だったから」

 多分本心では無いのだろうな、と思いつつも、そっか、と答える。乱歩は普段から意味の無い嘘をついたりはしないから、きっと何か理由があるのだろう。そしてそれはもしかすると、わたしのせいなのかもしれない。
 
 ▽▽▽
 
 夜。乱歩がお風呂に入っている間に洗い物をしようと思い立つ。料理で使った分と、お皿数枚。やりはじめたらすぐ終わってしまうのになぜだか気分が上がらなくて、台所で立ったまま動けなくなる。意を決して──洗い物に対して意を決するのは仰々しい感じがするけれど、それくらい億劫だったのだ──スポンジに洗剤をつけて、小さなものから洗っていく。途中で鼻が詰まって何度か啜っていると、だんだん目の周りがあつくなりはじめた。何も無いのに泣くわけにはいかない、と思えば思うほど涙が溢れそうになって、ついに一粒、こぼれ落ちる。それがシンクの水に混ざって流れていくのをじっと見ていたら無性に悲しくなって、声を上げて泣いてしまいたくなった。乱歩に聞こえたらまずいから、そんなこと絶対にできないけれど。そういえば、少し前からシャワーの音が聞こえない。もう上がったのかしら、と焦って残りの皿を片付け始める。

 戸の開く音がして、布巾で拭いていた最後の一枚を持ったまま振り返る。ちゃんと髪乾かしてね、と言うために。

 けれど、それは発されることなく喉元にとどまることとなった。乱歩が何も言わずにわたしを抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。せっかく着替えた部屋着にどんどんわたしの涙がしみていく。申し訳ない気持ちになって離れようとしても、逆に強い力でぎゅっと抱きしめられてしまう。諦めて、布巾と皿を置いた。そっと背中に手を回す。

「たまには、」頭のすぐ上から声が降ってくる。お風呂上がりの温かい身体からは、ボディソープのいい香りがした。「……甘えてくれてもいいんじゃない」
「わ、わたしが?」

 乱歩を甘やかすことはあっても(というか甘やかしてばかりいる)、わたしが甘えよう、と考えたことはなかったかもしれない。たしかに友達にも、彼氏に甘えるのが好き、という子は居たし、話を聞いて「いいなあ」と思うことはあった。でも、いざ実践となるとなかなか難しい。そもそも乱歩と居るときに、そんな考えに至ることがなかったのだ。

「他に誰がいるっていうの」
「うーん、わたししか居ないかあ」
「居ない。僕が甘やかしたい、なんて思うのは、後にも先にもナマエしか居ないよ」

 足の爪先から頭の先まで、電流みたいにキラキラしたものが走っていく。それから、じんわり胸があたたかくなって、しあわせの溶けたなみだがまた、乱歩の服を濡らす。

「……ありがとう」数秒間を置いて、大好き、と付け加えた。また強く、けれど優しく、だきしめられる。
 この名探偵はついていない日さえも、素敵な一日に変えてしまうのだ。乱歩の手が頬になぞる。キスの合図に、ゆっくりと目を瞑った。こんなにしあわせな日はない、と笑いながら。







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