夕暮れと夏



 

 誰かに会いたいと思うなんていつぶりだろうか。
 元恋人と一緒だった職場を辞めて一ヶ月。私はその間必要最低限しか外に出ず、携帯もほとんど見ていなかった。どこかへ出かけて忘れてしまった方がいいとわかってはいるけれど、気晴らしに付き合ってくれるような友達なんて居ない。でもそれで良かった。友達が居なくたって、本を読めば孤独が紛れるのだから。登場人物たちは現実の世界に関係なく笑って、泣いて、事件を起こしたり解決したりしてくれる。自分の関与しないところで進む世界が、いつもよりずっとありがたく感じられた。

 本ばっかり読んで何が楽しいの? 唐突に、乱歩──同郷の幼なじみ──の声が蘇る。まだ彼が幸せだった頃──両親が健在で、彼を脅かす全てのものから守られていた頃──私たちの家は隣同士で、仲が良かった。よく遊んだし、色んなことを話したし、私の幼少期の思い出は乱歩で埋め尽くされている。彼の両親が亡くなったあとはしばらく疎遠になって、就職先の横浜でばったり再会。今は探偵をしているという彼は昔の面影を残したまま、というか中身はほとんど変わらないまま、大人になっていた。その再会からも五年が経って、私たちの関係は再び友達に戻っている。
 昼寝から起きたら唐突に、その彼、江戸川乱歩に会いたくなった。なぜかは分からない。けれど断じて、三年付き合っていた恋人に振られたから、とかではないのだ。事情を話したところで慰めてくれるなんて露ほども思わないし、一緒にお酒を飲んでくれるとも思わない。きっと彼の最近解決した事件だとか、ハマっている駄菓子だとかそういうたわいもない会話をして、ご飯を食べて、終わり。けれどその時間が、今の私のなにより求めているものだった。
 
 ベッドに背中を預けて、通話ボタンを押した。ワンコールで繋がる。出来るだけ明るく、もしもし、と切り出す。
「……あのね」
 そこで、携帯を持つ手に力が入っているのに気がついた。人と話すのさえひさしぶりなのだから、仕方がない。
「今から行くから」
 え、とかなんで、とか、そういうのが彼に届く前に電話が切られる。およそ十秒にも満たない、もしかすると人生でいちばん短い通話となった。
「……どういうこと?」

 ひとりごとが部屋に落ちて、しばらく意味もなく天井を見つめた。どういうこと? もう一度心のなかで反芻する。わからない。今から行く、ということは、ここへ来るということだ。それはまずい。散らかりきったこの部屋を見られたら、いくら二十六年来──記憶のない期間を数えていいかは分からないが、物心ついた時から隣に乱歩がいたのだ──の友達とはいえ幻滅されるのは目に見えている。急いで身支度をして、玄関で待機することにする。
 
 ▽▽▽
 
「部屋が汚いくらいで僕は幻滅しないけど」
 ドアの前で待ち構えていた私を見るなり、乱歩が言った。
「相変わらずなんでも分かるのね」
 当たり前じゃん、とそっけない返事がくる。くるりと背を向けた乱歩はさっさと廊下をすすんでしまって、慌てて後に続く。
 アパートを抜ければ、夕焼けに染まった世界が広がっていた。ブルーとオレンジのコントラストがうつくしくて、なんだか涙が出そうになる。部屋ではずっとカーテンを締め切っていたから、夜がこんなに遠くなっていたことに気が付かなかった。

 海沿いの道は、意外にも人が少ない。そういえば今日は、街なかで大きなイベントがあるのだった。カップルも学生も少ないのはそのせいだ。失われかけた日付感覚のなかで、過去の私と彼が楽しみにしていたことだけを覚えている。虚しい、と思った。港には大きな船が舫われていて、風で帆が揺れている。
「なんで僕にすぐ言わないわけ」
「な、何の話」
「あの男と別れたこと」
 元恋人と乱歩には面識があった。付き合ってすぐのデート中、偶然会ったからだ。あのときの乱歩の失礼さといったら、ない。彼の歳とか昔の職場とか過去の女の経歴とかを暴露──いちおうは推理だけれど、全て当たっている場合は暴露というのが正しい──した挙句、別れた方がいいんじゃない、なんて不機嫌そうに言い放った。いくら幼なじみとはいえ、付き合いたてのカップルにしていい仕打ちではない。
「あとそれで落ち込んでること!」
 色々思い出していたら、急に距離を詰められて肩が跳ねた。驚かさないでよ、と私も柵へもたれて、隣に並ぶ。

「もう落ち込んでない」
「嘘」
「うん、嘘。でも乱歩に慰めてもらおうなんて思ってないし、慰めてくれるとも思ってないよ」
 海風が吹き抜けて、つよい潮の香りがする。
「へえ。確かに僕は、慰めに来たんじゃない」
「じゃあどうして?」
「会いたいと思ったから。だから来た」
 え、と声が洩れる。会いたいと思ったから。私と、同じ。
「私も会いたかった」
「なんでそんな嬉しそうなの。僕は全然嬉しくないんだけど」
「どうしてよ。同じこと考えてたなんて素敵でしょ」
 さすが二十六年の仲、と誇らしく言う私とは裏腹に、乱歩の表情はどんどん不興げなものになっていく。
「全然同じじゃない」
 間近で見るグリーンのひとみの強さにおののいて、はっと息を呑む。どういうこと、と声を絞り出した。
「僕がナマエを好きだからだ」 

 今回は声も出なかった。頭がきちんと理解してくれなくて、くちびるをなぞったり、目をしばたたいたりしてみる。僕がナマエを好きだからだ。私のことが好き。乱歩が。ありえない、と思う。
 まっすぐ走るオレンジに照らされる彼は、普段の飄々とした態度からは考えられないくらい真剣な表情で、私を見つめている。胸がきゅっと詰まって、上手く息が吸えない。

 別れた方がいいんじゃない──あのときの彼は、どんな気持ちでこれを言ったんだろう。明らかに不機嫌になった恋人と子どもみたく笑う乱歩に焦った反面、もしかしたら、なんて期待したあのとき。結局三年もたってしまって、その思いはとうに死んでしまっていたけれど。だから結局は、付き合いたての恋人と居るタイミングで乱歩に会えたのは、ラッキーだとさえ思っていた。私に彼氏が出来たら、もう構われなくなると思ったから。そうして乱歩のことを、諦められると思ったから。

「私も──」
 恋人と別れた夏の、はてしなく澄んだ夕暮れ。閉じた世界から連れ出してくれたひとは、うつくしく微笑んでいる。本当に嬉しいとき、言葉よりも涙が出るのだと知った。






- ナノ -