水色の昼下がり



 
※付き合ってる&同棲してる
※なんでも許せる方向け


 暑い。つまらないから外に出たい。なにか事件は無いものか。ラムネ飲みたい。面白いこと言って。かき氷食べたい。次から次へと飛んでくる要望にそうだね、だとかそうだなぁ、だとか曖昧な返事をしながら、洗い物を片付けていく。ちょっとは手伝ってくれたらいいのに、と思わなくもないけれど、乱歩にそんなこと期待しても無駄。だから最初から、頼んだりしない。

 何でも私がやっているのだと言うとたまに、時代錯誤な誤解をされるのだけれど、女だから家事をしているとか、そういうのではないのだ。例え私たちの性別が逆だったとして、乱歩は何もしないだろうし、私はなんでもやってしまうのだと思う。私は事件を解決できないけれど、乱歩はできる。乱歩は家のことができないけれど、私はできる。それ故の合理的な分担だった。
 食器をすべてしまって、冷蔵庫からラムネを取り出す。私はどこまで乱歩に甘いんだ、と少し笑いながら手渡して、自室へ向かう。

 着替えて戻ってくると、乱歩がテーブルの上に置いていた本を捲っているところだった。読んでいる、というよりは適当に眺めているが正しい。

「栞、取らないでね。今いい所なんだから」
「これ、なにが面白いの」
 読みかけの短編集の舞台は大抵密室ではないし、人も死なない。下手すれば何も起こらないものだった。
「うーん、推理小説みたいな惹き付けられる面白さはないかなあ。でもね、言葉選びがきれいなの。派手ではないけど、落ち着く」
「ふぅん」乱歩が本を戻して、ラムネをひと口飲む。
「まあ、それはいいとして」彼の向かいの椅子を引いて、スカートに気を配りながら座った。それとなく前髪を整える。「今日の服、どう?」
「……いいんじゃない」
「そう」

 自然と口角が上がる。意識する前に、ふふ、と笑い声も洩れてしまって、流石に恥ずかしくなる。誤魔化すように立ち上がって、スカートを揺らしながらくるりと一周してみた。前と後ろで裾の長さが違うスカートは、やっぱり素敵。買ってよかった。薄い水色も、涼しげで夏っぽい。気分が良くなって、質問を変えてみた。「かわいい?」
「うん」
 さっきは数秒間があったし、ちょっと雑さも滲んでいたのだけれど、今回は即答。顔を背けて、手の甲で口元を隠す。
「そんなに照れるなら聞かなきゃいいのに」ほんとナマエって変。硝子の瓶をカラカラと鳴らしながら、乱歩が笑う。

 なにも言えなくなって、後ろから抱きついてみた。座っている彼を抱きしめるのは新鮮で、いつもより距離が近い。付き合いたてという訳では無いのにドキドキしてしまう。

「暑いんだけど」
 顔はみえないけれど、表情は手に取るようにわかる。急に抱きつかれたところで乱歩は照れたりしないし、今だって多分、呆れているはずだ。
「すぐどけるから。かき氷食べに行こ」
 ん、ともうん、ともつかない短い返事がくる。彼から離れて鞄を取りに行こうと一歩踏み出した時、腕を掴まれて身体が傾いた。
「なに、」

 に、の形になったまま唇を塞がれて、慌てて目を瞑る。ついさっきまで暑いって不満げだったのに、気づけば腰に手が回っていた。さすが天性の気分屋、さすが座右の銘『僕が良ければすべてよし!』だ。

 キスはどんどん深くなって、半分彼に体重を預けるような形になる。さっきまで平然としていたのに、ずるい。何も考えられなくて、私の世界は乱歩だけになっていく。探偵社の皆の前では子どもみたいな顔をしてビー玉を覗いているくせに。鏡花ちゃん──探偵社のずっと年下の女の子と一緒に駄菓子に夢中になって、カレーだって甘口しか食べないくせに。あ、これはただの好みか。
 家にいる時の彼だってそんなに変わらないけれど、たまにこうして男のひと、の側面が顔を出すから油断はできない。

 ぼんやり考えごとをしつつすべてを預けていたら、ほとんど乱歩の上に座り込んでしまっていた。向かい合うようなかたちで、背中にはテーブルが当たっている。逃げられない。

「で、出掛けたいんじゃなかったの」キスの隙間を縫って、ダメ元で聞いてみる。視線を合わす勇気はない。白いシャツだけが目の前にひろがっていた。私と同じ柔軟剤の匂いがする。
「気が変わった。出かけるのは夕方からにする」
 抱きついたのはちょっと触れたくなっただけで、そういうこと、がしたかったわけじゃない。けれどこうして、私だけがみれる表情や声、熱、……好きなひと、の特別を目の当たりにしてしまっては、抵抗なんて無理に等しかった。「……そう」

 ゆるやかな沈黙がふたりの間を通り抜ける。窓から来た風が乱歩の前髪を揺らして、それを見ていたら不意に昔の彼を思い出した。 やや長めの前髪、まだ大人になる前の幼い表情。あの頃は今よりもっと自分勝手で、遠慮なんて一ミリも持ち合わせていなかった。けれど笑顔は天使みたいだったし、事件を解決したあとの得意げな彼は、なんでも聞いてあげたくなるくらい可愛かった。そう、可愛かったのだ。いつからこんなに格好良くなって───なんて回想しているうちに翠の瞳が近付いて、私を動けなくする。

「乱歩、」
「考えごとしてただろ」
「うん。昔の乱歩は天使みたいに可愛かったなあって」
「……なにそれ」彼の指が私の髪を一束すくって、落とす。「いまの僕じゃ不満だっていうの」
「そんなわけない。私は昔の乱歩も今の乱歩も、大好きよ」

 頬に手を伸ばして、そっと撫でる。数ミリだけ瞳が縦に開かれてまた元に戻るまで、瞬きをせずに彼を眺めた。その数秒は、どんな名画より、宝石より、きっとうつくしかった。私は心の底から、彼を好いている。
 満たされた気持ちのまま自分からキスをして、離れる。名残惜しくなって、もう一度。乱歩からも短いキスが返ってきて、それから思い切り抱き締められた。

「やっぱり、今から出かける」
「そう。よかった」余韻を打ち消すように、乱歩の上から飛び降りた。つま先が床に触れるときの、トンという音が心地よい。またスカートが揺れて、淡い青がカーテンみたいに広がった。「今日はブルーハワイにしようかな」
「単純」
「いいじゃない。推理する手間が省けて」
 かき氷の味を決めた理由を当てること、を推理と呼んでいいのかは分からないけれど。何も答えず玄関へあるいていってしまう背中を追って、続ける。「単純な女は嫌?」

 靴を履いている後ろ姿は無防備で、また抱きついてしまいたくなる。手を伸ばしかけて、すんでのところで留まった。次同じことになったらきっと、かき氷はずっと遠くへいってしまうのだ。

「嫌だったらこんなに長く居られないよ。こんなこと、言わなくてもわかるじゃないか」
「わかってても言われたいときがあるの」
「ふうん」やっぱ変わってる。可笑しそうに言う声が、頭上から落ちてくる。

 彼は私が靴を履くのをじっと見ている。といっても、見ているところを見られるわけではないから、本当に見ているかは定かではない。おでこ辺りに視線を感じて、いそいで足首のストラップを留めた。
 
 ドアがあく。髪も肌もスカートも、一瞬で夏の街に放り出される。エアコンに守られたあの部屋とは違うせかい。何をどう思っても、抱き合いたくなんてない。いまの私たちに考えられるのは、かき氷、それから帰りに飲むラムネのことだけだった。








- ナノ -