1.不可視の隙間

─翠の底まで



「留守の間、乱歩を頼む」

 威厳ある社長の声が、わたしに向かって飛んでくる。理解が追いつかず、返事もできなかった。留守の間、は分かる。社長が数日社を空けることは前々から聞かされていたし、珍しいことでもない。問題はその後だ。

 乱歩を頼む。頼めないか、ではなく、頼む。断定。まるで決まったことみたいだ。

「ああ、現場について行ったりとか」
「そうではない」

 予想通り、乱歩を家に泊めるかわたしが社長の家で過ごすかの二択らしい。

「任せるのは気が引けるが、他の者に頼む訳には」

 わたしには、乱歩と社長と暮らしていた時期があった。それ故の人選だったのだろうけれど、過去を踏まえたって話が急すぎると思う。何とかならないだろうかと、とりあえず後輩の名前をあげてみる。

「太宰とか」
「ムリ」ソファに座って駄菓子の型抜きをしていた乱歩が、横から口を挟んでくる。
「晶子ちゃん……は、駄目か」
 年頃の女の子の家に泊まるなんて、いくら乱歩とはいえ許されない。
「国木田くんは」彼の心労を想像して、提案を取り下げる。「可哀想よね」

 そもそも、乱歩はわたしと過ごすことをどう思っているのだろうか。楽しげに見えるのはきっと型抜きが面白いからだし、彼がいちばん好きなのは社長なのだから、出張にもついて行きたかったに決まっている。

「乱歩はそれでいいの」
「別にいいけど?」
「……そっか」

 乱歩の気持ちを確認してしまえば、わたしに断る理由なんてなかった。どういう過程で、ふたりが何を話して決定されたのかは知らない。けれど、これはたしかに社長命令だ。従うしかない。

「わかりました」

 誰かと三日も過ごすなんて、本当に久しぶりのことだ。社長の家を出てから数年は経っているし、旅行もしばらく行っていない。たまに晶子ちゃんや春野さんが泊まりに来ることはあるけれど、男の人を家に入れたことはほとんどないはずだ。それも、ずいぶん前に乱歩が一度来たっきりで、つまりわたしはもうずっと恋びともいない。頻繁に飲みに行くのは後輩の太宰や国木田くんで、ふたりとも異性だけれど恋愛に発展しそうな空気は一ミリも存在しなかった。きっとそこが良くて、正反対の後輩ふたりはわたしに付き合ってくれているんだと思う。


 ──昔、乱歩といちばん仲がいいのはきっとわたしだった。探偵社で、とかじゃなくて、世界で。

 自分のデスクに戻る途中、ほんの少しだけ、懐かしいような寂しいような気持ちが湧いてくる。
 乱歩がどう思っていたのか今となっては知る由もないけれど、わたしたちはあの頃確かにふたごで、親友で、それから恋びとだった。付き合っていたとか、交際の約束をしていたとか、そういうのではない。なんでも言葉にする彼との、あやふやでぼんやりした関係。それでいて、信頼も友情も親愛もすべてが目に見えるような、まぶしい日々だった。

「なにか悩みでも?」
 急に後ろから声がして、驚く。太宰だ。
「びっくりした。……大したことないよ。悩んでもない」
 彼はとなりの席に腰掛け、大げさにため息をついた。
「それは残念。今日こそ心中に誘おうと思ったのに」
 出会ってからほぼ毎日同じことを言われているような気がする。そして、それに対するわたしの返答も変わらない。
「しばらくは無理だなあ」

 しばらく、というか一生無理なのだけれど、今日に限ってはしばらく、なんて言葉が出てしまった。社長が帰ってきて、乱歩が安全な環境で暮らせるように戻るまでは、わたしも無事に生きていなくてはならないのだ。

「しばらく」太宰が一瞬不思議そうにまばたきをする。それから目を細めて、ああ、と何かに納得したように頷いた。
「深い意味はないから」

 社長は太宰にも今回のことを伝えていたのだろうか。今の瞬間、彼には何もかも知られているような気がした。もしかすると推理したのかもしれない。わたしの声色とか、態度とかで。

 どこまでも見透かされているような、何だってわかっているかのような。乱歩と居るときみたいな感覚が、時折するのだ。だからわたしは、それに安心してしまう。

「もう。早く仕事戻りなよ」

 国木田くん困らせたら怒るからね! と、わざと明るく声を上げる。そうしないとまた余計な考え事をして、それも伝わってしまうような気がしたから。

 午後の業務は何事もなく──顔を上げる度に乱歩と目が合って、気まずかったこと以外は──終わって、けれど外はまだ昼の余韻を残していた。夕方に明るい空を見る度、むわりとした空気に触れる度、夏が確かに近づいているのを感じる。夏。乱歩と出会って、何度目のものだろう。

 家に着いたらまず片付けをして、それから掃除。冷蔵庫の食材を確認。お菓子のストックをしておく。やることは次から次へと湧いてくる。早く帰って支度をしなくては、と一歩踏み出したとき、不意に呼び止められる。

「帰るの」

 チョコレートみたいな色の外套が風に揺れていた。聞かなくてもわかるくせに、と一瞬思ったけれど、こういうことは昔から結構あった。何もかも知っているはずなのに、乱歩はこうやって問いかけてくる。どんなことでも。

「うん。片付けとか、しなきゃいけないし」
「君の部屋、今そんなに散らかってないよね」

 翠のひとみはわたしを真っ直ぐに捉えている。何度かまばたきをして視線を逸らすと、乱歩はちいさくため息をついた。「いまさら僕に緊張してどうするのさ」

 緊張。言われてみれば確かに。気がついた途端に肩の力が抜けて、かばんの紐の片方がはらりと落ちる。かつてあんなに近しかったひとに、わたしはどうして緊張してしまうのだろう。


 ステンドグラスのついたドアを開ければ、カランカラン、と軽快な音が鳴った。ボックス席のソファに腰をおろして、着たばかりのカーディガンを脱ぐ。メニューは見なくても頭に入っていた。ここは探偵社御用達の喫茶店、うずまきだ。

 どうせ明日からも一緒に過ごすというのに、乱歩はなぜわたしを夕食に誘ったのか。考えてみても、全然分からない。

「君って何でそうなの」乱歩が窓の外を眺めながら、言う。
「それは」どういうこと。続きは聞いて貰えず、途中で乱歩が不満げにひとみを細めた。
「色々考えすぎ! 昔はもっと面白かったよ」
「……そうかな」

 そうだ。わたしは乱歩にとってつまらない人間になってしまった。皆と同じように彼を尊敬し、けれどたしかに距離を置いている。乱歩はもうわたしと居られるような立場にはない。頭では理解していても何度も近づきたくなり、その都度思いを飲み込んできた。彼は最早少年ではなく、探偵社の名探偵で、皆の乱歩さんだ。

「もう大人になったもの」水をひと口飲んで、しずかにグラスを置く。「乱歩だって、変わったところたくさんあるでしょう」

 周りのひとも、社長も、ひょっとしたら本人も気が付かないようなことだって、きっとわたしは気がつけるだろう。乱歩が大人になっていくのはわたしがいちばん恐れていたことで、それと同時にいちばん望んでいたことだから。

「まあね」
 給仕の女の子が来て、乱歩の前にオムライスが置かれる。彼曰く、わかりやすい食事。今も昔も、何だそれ、と思う。
「……褒められたがりなのとご飯の好みは、あんまり変わってない」

 スプーンを手にした乱歩は、端から綺麗に卵をすくって口に入れる。嫌いな物は食べない、とか、お汁粉の餅は甘くないから残す、とか、そういうわがままは未だに健在だけれど、ご飯の食べ方自体は凄く綺麗だ。出会ってから変わらないことの一つ。ご両親の教育の賜物だ。

「君も早く食べれば」
「うん」

 乱歩と同じくらいに食べ終わらないと、永遠に急かされることになる。最近ふたりで外食なんてしていなかったから、すっかり忘れていた。すごくせっかちというわけではないから、単に待っている時間が退屈なのだろう。

 こういうときの食事は、普通なにか伝えたいことがあって誘うものだ。それなのにわたしたちの間にはすこしも会話が生まれなくて(お腹いっぱいなのもあるけれど)、なんとも気まずい雰囲気が漂っていた。空になった皿が二枚と、水の入ったグラスがふたつ。わたしたちの他にお客さんは居なくて、マスターが静かにカップを拭いているだけだ。

 外を歩く人の顔ぶれは、会社帰りのサラリーマンから夜の街へ繰り出す華やかな人々に移り変わっている。さっきまでは半紙に水を垂らしたような薄グレーの空だったのに、今ではすっかり紺に塗りつぶされていた。星はなく、綿あめをさいたみたいな雲がところどころに伸びている。

「そ、そろそろ帰ろっか」
「なんで聞かないの」
 わたしが伝票に手をかけたとき、不意に乱歩が口を開く。
「さっきからずっと、どうして誘われたのかわからない、って顔してるくせに」

 彼は頬杖をついて、不興気に口角を下げている。それでも、翠の双眸はじっとわたしを捉えていた。こうして見つめられると、昔を思い出してたじろいでしまう。あのころと何も変わらない、底まで澄んだエメラルド。

「……じゃあ、教えて」
 テーブルに触れた手のひらがつめたい。
「やだ」

 ふたたび腰を下ろしたわたしとは反対に、乱歩は勢いよく立ち上がった。どうやら帰るつもりらしい。
 きちんと折半でお会計をして──昔社長からお小遣いを貰って二人で出掛けたときはわたしがお財布担当だったな、などと思いながら──うずまきを出る。探偵社の窓の明かりは消えていた。気が付かなかっただけで皆、わたしと乱歩がご飯を食べているすぐそばを通って帰っていったのだ。

「じゃあ僕帰るから」
「ああ、うん。また明日ね」

 くるりと踵を返した乱歩は、少しも振り返らずにどんどん歩いていく。わたしは後ろ姿を目で追ったまま動けず、しばらくそこに佇んでいた。夜の横浜は人が多く、何度か通行人とぶつかりそうになる。



 家に着いて鍵を閉めた途端力が抜けて、そのまましゃがみこむ。自分が思いのほか緊張していたのがわかる。さっきまでの出来事は本当に現実だったのだろうか。

 部屋はしんとしていて、明日の今頃ここに乱歩が居ることなどとても想像できなかった。もちろん、その隣にいるわたしのことも。
 社長はなぜ、わたしを指名したのだろう。あのときの雰囲気から察するに、乱歩が言い出したのには違いない。けれど、わたしたちはもう大人になったのだ。立派な、とはいかないかもしれないけれど、それでもとにかく、間違いが起きないとも言いきれないような歳に。もっともそれは傍から見れば、というだけで、乱歩もわたしもそんな気はさらさらないのだけれど。

 社内の人に知られればそれなりに、話題にもなるだろう。乱歩が探偵社の中心である以上、表立って噂する人などいないとは思うけれど、どんな影響があるかはわからない。乱歩はどんな理由でわたしを選んで、社長に伝えたのか。

 色々考えてみても結局、楽だから、なんて理由しか思いつかない。でも、きっとそうだ。乱歩はいつだって周りなど関係なく行動してきたし、わたしと彼が大人になったことなど気にもとめていないのだろう。ひとしきり悩んでしまうと妙にスッキリとした気持ちになって、わたしは部屋の掃除を始める。

 ──君の部屋、今そんなに散らかってないよね。
 ついさっき彼に言われた言葉がよみがえる。いったいどうやって推理したのか、凡人のわたしには想像もつかない。

 おおまかな片付けと掃除が終わってひと息つこうかというところ、お菓子とラムネがひとつも無いのを思い出す。焦って財布をつかみ、部屋着のままサンダルを引っ掛ける。

 エレベーターは使わず、階段をゆっくり降りる。途中で、帰宅した父とそれを迎える子どもの話し声が聞こえた。固い音を立ててドアが閉まる。

 わたしの頭上には、ほんのり冷たく青い夜が広がっている。いつか社長と乱歩と見た空にそっくりだと思った。






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