ハッピーバレンタイン!2021
※探偵社員夢主
※乱歩さんと同い年です
まだまだ寒さの続く、二月上旬。鼻先に落ちた水滴に空を見上げれば、ひらひらと大粒の雪が舞っていた。珍しい。電車は大丈夫なのかしら。顔も知らぬひとたちへの心配を胸に、早足でコンクリートを蹴った。コートで着膨れした腕に大きな紙袋を下げて、職場へと向かう。
「おはようございます」
紙袋を自分のデスクに置いて、周りの社員へと挨拶をする。なにか言いたそうな同僚たちを見て、あれこれ聞かれる前に、用意していた友チョコ(中身はクッキーだけれど)を配り歩くことにした。
バレンタインなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、もともと人になにかプレゼントするのが好きなわたしは気付けば毎年職場の全員に渡すようになっていた。いつもお世話になっているのだし、こんな時でもないと差し入れできない。それでも、お返しを迫るような高級なものはかえって困らせてしまうだろうし、などと色々考え、大抵は近所のお菓子屋さんで買えるようなささやかな贈り物にとどまっていた。
事務員の皆にはすぐに配り終わってしまって、残すは探偵社員の人たちのみ。随分軽くなった袋を持って廊下へ出ると、こちらへ向かってくる青年がひとり。手にはファイルや書類、本などが大量に乗っていて、今にも崩れそうだ。思わず駆け寄る。「敦くん、朝から大変だね。手伝おうか?」
「あっいえ、大丈夫です! もうすぐなので」
荷物の山から少しだけ見える瞳は人懐っこく、いつみても可愛らしい。
「そっか。敦くんにもこれ、渡したかったんだけど、……机に置いておくね」
紙袋からひとつ小さな箱を取り出して見せれば、ありがとうございます! と元気の良い返事が返ってくる。前ならここで手に持った書類たちが床へ散らばっていたものだけれど、今回はそうはならない。軽く会釈をして、ゆっくりと歩いていった。なるほど、この子もこうやってどんどん落ち着いて、大人になっていくんだな。突如として湧いた母親のような姉のような気持ちに照れながら、廊下の奥へと進んでいく。後ろで「あ!」と大きな声がして、やっぱり手伝おうかと振り返る。
「乱歩さん、今日はもう来てますよ」
少しだけ大人びた、少年の声。そこに揶揄うようなニュアンスはひとつも感じられなくて、けれど表情はいたずらっぽい。
「ありがとう」何に対してか分からない礼を述べると、首だけ振り返った敦くんはそれじゃ、と短く挨拶をして、足早に階段を降りていった。
次に会ったのはなにやら言い合いをしている太宰くんと国木田くんだった。ちょっとだけ聞いたら、太宰くん宛のチョコがものすごいことになっているらしい。過去の依頼で知り合ったおば様方から近所の女子高生まで、差出人は多岐にわたる。その処理やお返しについて話しているとのことだった。
「大変だね、太宰くんも。一応わたしからもあるんだけれど、……今年は遠慮しようかしら」
箱をひとつ国木田くんへと手渡して、太宰くんの方を窺う。艶やかな黒髪に、優しげで、けれどはっきりとした目元。誰が見ても美しい太宰くんは女性からよくモテる。街で見かけても知らないひとと腕を組んでいたり口説いていたり、声をかけられないことが多い。
対して国木田くんは、迷っているひとを案内していたりおばあちゃんの荷物を持っていたり、出くわすのは誠実と正義を絵に書いたような場面ばかりだ。一見厳しく見える言動も鋭い眼差しも、彼の信念によるものだと知っている。だからこそ、より素敵に思える。
正反対だけれど、良いコンビ。大好きなふたりである。
「ありがとうございます」国木田くんの眼鏡の奥がふっと柔らかくなって、目線がわたしへと向けられる。澄んだ瞳がゆるく輝く様は美しく、吸い込まれそうな心地だった。普段笑わない人の笑顔って、すごく貴重な気がして嬉しくなってしまう。つられて微笑む。
「ちょっと待ってくれ給え。ナマエさんが折角私の分も用意してくれたのに、受け取らないなんてことあるわけないじゃないか」
少々大袈裟な太宰くんの声が響いて、目を瞬いているうちに手を取られる。いけない、このままだと彼のペースに飲まれてしまう。
「じゃあ、はいこれ」
一緒に心中を、と提案される前に彼の外套のポケットへクッキーを押し込んだ。それから掴まれた手をゆっくり離して、ふふ、と笑う。「さすが、モテる人は違うね。街の女の子たちがこんな風に手を握られたら、きっと付いて行きたくなってしまうもの」
紙袋を持ちかえて、ふたりの方へ向き直す。またね、と手をひらひらさせて踵を返せば、「乱歩さんならデスクに居ましたよ」先程も聞いた台詞が背中へ飛んできた。
みんなして乱歩さん乱歩さんって、まるでわたしのバレンタインが乱歩のためにあるみたいじゃない。長く一緒に居るから、お互いのことも知っているし仲もいい。友達、よりは近くて、恋人、は全然違う。言うならば、兄妹みたいな感じだ。それなのに、皆は決まってわたしをからかってくるし、言ってもやめない。でもこれはわたしのせいじゃなくて、乱歩がちゃんと否定しないせいでもある。
「失礼します」静かにドアを開けて、辺りを見渡す。窓の外には雪がちらついて、薄紫色の空は朝とは思えないほどの気怠さを背負っていた。
奥に、茶色の帽子と外套がみえる。長めの黒髪がエアコンの風で微かに揺れていた。周りには、他の社員から貰ったと思われるお菓子やまだ開けられていない色とりどりの箱。
すぐに彼のもとへ駆けるのも、ここに来るまでに会った同僚たちの思惑通りな気がして、まずは敦くんの机へラッピングされたクッキーを置く。まだ来ていない谷崎くんや賢治くんのところへも同じものを置いて、ほとんど空になってしまった紙袋を畳む。最後に中から取り出したのは、手作りのチョコレート。料理はそんなに得意ではないけれど、お菓子は分量がきっちり決まっているぶん理解がしやすいというか、(簡単なものであれば)失敗は少ないような気がするというか。いつもは皆より少し大きなもの、とか少し豪華なものを買って渡していたのだけれど、今年は手作りがいい! とリクエストされてしまい、なんだかんだ言いつつ皆と同じく乱歩に甘いわたしは従う他なかった。おかげでここ数日、朝ごはんも夜ご飯もチョコレートづくし。しばらくは香りも嗅ぎたくない。
「乱歩」小さく名前を呼んで、隣に腰かける。ゆったりとした広めのソファはふたり並んで座っても十分余裕があって、わたしたちの間には半人分くらいの隙間が空いていた。「おはよ。はい、これ」
資料でも渡すみたいに、片手で持って乱歩へ差し出す。できるだけ気軽な風を装わないと、変に意識してしまいそうだった。
「他の皆の所へはもう行ったの」
包装をぺりぺりと剥がしながら、彼が訊ねてくる。
「うん。まだ来てない人のところにも、ちゃんと置いたし」
いつもは包装なんて適当に剥がしてしまう彼が思いのほか大事そうに解いていくものだから、妙な気持ちになってしまって、心地が悪い。髪の毛を一束摘んで指に巻き付けたり、ぼうっと天井を見つめたり。何をしていても、ふたりぶんの音しか立たないこの部屋では気分は晴れなかった。わたしは、何を緊張しているのだろう。
「みんな口を揃えて、乱歩さん来てますよ、とか乱歩さんあそこにいましたよ、とか言ってきてさ」
「ふぅん」箱を見つめたまま、エメラルドの瞳は動かない。
「なんか、変に意識しちゃうからやめて欲しいよね」
箱を開けた彼が、チョコレートをひとつ摘んで口へ放る。無意識に目で追ってしまって、慌てて視線を逸らした。
「ど、どう? わたしはもう、食べすぎてわからなくなっちゃって」
「まあまあだね」
はなから手放しの褒め言葉なんて、期待していない。わたしはお菓子作りのプロではないのだし、まあまあ、が妥当なのかもしれないけれど。「……正直だなあ」
来年こそリベンジ、とレシピ本に載っていた他のお菓子たちを思い浮かべる。それから、来年も乱歩に渡すことが当たり前になっているのに気がついた。わたしのバレンタインはやはり、乱歩のためのイベントなのか。
「来年はもっと、頑張る」
でも今年だって結構大変だったんだよ。ひとりごちて、散らばった包装紙を畳む。太宰くんのモテようはすごいけれど、乱歩だってなかなかの数を貰っている。渡してきた人達は、乱歩のことが恋愛的に好き、というより近所の子供にあげるみたいな感覚なのだと思うけれど、それにしたって、二月一四日の朝のうちに数十個も集まるのはすごいことだ。「わたしにはいいけど、他の人にはちゃんとお返ししなきゃダメだからね」
沈黙。いまだかつて、電線に止まった雀のさえずりがこんなにクリアに聞こえたことは無い。
「ナマエは要らないの」
「だって、わたしは友達っていうか、……家族みたいなものでしょ。気使うことないよ」
「へえ」わかりやすく声のトーンが下がって、はっと息を飲む。長く一緒に居すぎて、乱歩の機嫌にずいぶん敏感になってしまった。
「……なに、怒ってるの?」
「別に」ふとテーブルの上を見ると、箱のなかは空になっていた。全部食べてくれるのは嬉しいけれど、理由がわからないまま怒られるのは腑に落ちない。リクエストにお答えして慣れないお菓子作りをしたのだから、少しくらい褒めてくれてもいいじゃないか。
もう下に戻ろうかしら、と立ち上がる。時計を見ると、就業時間の十分前になっていた。
「誰も戻ってこないね、……わたしも戻ろうかな」
「待ちなよ。何も無いのに誰も来ない、なんてあるわけないじゃないか」
考えればわかるだろ、と続けた彼は、やっぱり怒っているように見える。
なにか事件? ……それにしては、乱歩は落ち着いているし、いや事件があったところで乱歩はいつも飄々としているのだけれど、すれ違った三人だって普通だった。考えたってわからない。
「わかんない。理由も、なんで怒ってるのかも」
「僕は」手を掴まれて、ソファへと引き戻される。
「僕はナマエのこと、友達だと思ったことなんてない」
顔が近い。いつも緩やかに細められている瞳はつよく輝いて、わたしだけをまっすぐ見つめている。頬が熱くなって、目線を下ろす。
「そ、そんな、……」顎のところに指が添えられて、鋭い視線に捕えられる。言葉が上手く出てこない。唾を飲み込む音も心臓の音も、ぜんぶぜんぶ彼に聞こえているんじゃないかってくらいの近さ。
「わ、わたしはその、乱歩のこと」
何度瞬きをしても、目の前の彼の真剣な顔は変わらない。足先まで力が入って、うまく話せなかった。
どうしてこんなことになったんだろう。今までこんなこと、一度も無かったのに。なんとも思われてないって、意識もされていないからって、ずっとずっと諦めていたはずだったのに。
「ナマエ」さっきとは打って変わって、優しい声だった。すっと視界が暗くなる。反射的に目を瞑っていた。
ふっと嗅ぎなれた香りが漂って、唇が重なる。一秒あったかわからないくらいの、短いキス。
「また作ってよ」
目を開けると同時に、彼の体温のすべてが遠ざかっていく。わたしたちの間には、来た時と同じ距離が空いていた。今起きたこと全部、夢だったみたい。
「……うん」
今のなんだったの、とか、わたしのこと好きなの、とか。聞きたいことはひとつも声にならない。
「じゃあわたし、今度こそ行くね」
彼の居るソファから離れて、ゆっくりと進んでいく。みんなの元へ戻ったらきっと、またからかわれるだろう。けれどそんなの、チョコを渡しにこの部屋に入った時から覚悟の上だった。
ドアの前まで来たところで、後ろに気配を感じて振り返る。
「ちょっと、なんでついてくるの。わたしもう緊張の限界なんだけど」
正直な心の声が出て、しまった、と思う。けれどすぐ、キスしてきた相手に遠慮するのも違うか、と考え直して、口を噤む。
「僕もそっちに用事があるから」別に付いてきたわけじゃないんだけど。言動とは裏腹に手を取られて、いよいよ頭が混乱してくる。
「……来年は、僕だけにしてよ」
繋がった手が熱い。乱歩のペースに振り回されっぱなしなのがちょっとだけ悔しくなって、言い返してみる。
「でもわたし、お世話になってる人には配りたい、から。それに、彼氏でもないのにそんな権利、ない」
突き放すみたいな言い方になってしまったけれど、事実は事実。お互い、キスしたから恋人同士、なんて歳ではないのだから。
「じゃあ僕のものになって」
じゃあって何よ、とまた言い返しかけて、遅れて頭が理解する。僕のもの……と、いうことは。「付き合うってこと?」
「そうだけど」
ことも無げにこちらを見つめる彼はどこまでも普段通り、対してわたしはといえば、後ずさろうとして自分の足に躓いていた。転びそうになったところをぐいと引っ張られる。
怒られるかな、と構えたけれど、何も言われない。恐る恐る表情を窺って、そのあとで手を握り返す。
「よ、よろしくお願い、します……」
満足気に微笑んだ彼が、勢いよくドアを開ける。
「もう入っていいよ! 僕達は出てくから」
廊下には探偵社員のみんな、そしてここには用が無いはずの、仲良しの事務員たちがズラっと並んでいた。
「えっみんな、もしかして聞いてた?」
聞いても誰も答えてくれなくって、それはもう答えみたいなものだと俯く。恥ずかしくて死ぬ、とはまさにこのことだ。同僚からのお祝いや冷やかしの声を背中に受けながら、手を引かれて廊下を進む。少し早足で駆け寄れば、端正な横顔が近付いた。ちら、とうかがうだけのつもりだったのに、わたしは目が離せなくなる。
「何」彼が聞いてくる。目線はまっすぐ、前を向いたまま。
「乱歩、顔赤い」
「僕だって照れることくらいある」
「……そっか」
見慣れない様子にわたしまで照れてしまって、全身が熱くなるのを感じる。
きっと一生忘れられない、バレンタインの朝。
窓の外の雪は、いつのまにか止んでいる。