わたしの神さま
夜の雨の匂いはどんな季節でも懐かしくて、だからどうしようもなく、せつなくなるときがある。思い出すつもりなんてなかったひとたち、遠い時間、すべてわたしの意志とは関係なくふっと浮かんで、消えていく。
お気に入りの傘が使える。はじけるような音が良い。グレーに靄がかった街は素敵。雨の好きなところはたくさんあるのに、夜になってしまうとこうだ。傘の模様もぼんやりした景色も夜の暗さに沈んで、すんとつめたくなる。夕方まではなにもかも上手くいく気がしていたのに、急に世界から突き放されたような心地。
彼を呼び出そうと思って、携帯電話を取り出す。そのまま二、三歩あるいたところで足を止めた。畳んだ傘の先から、おおきな雫が落ちる。結局、発信ボタンに指をかけたところでやめた。方向転換をして、彼の家へ歩き出す。
ついさっき雨が上がったばかりなこともあって、すれ違う人はすくない。普段なら飲み会帰りのサラリーマンや学生が連れ立って歩いている頃だった。騒がしいのは好きではないけれど、かといってしずかすぎるのも落ち着かない。いつものペースで歩けば彼の家まであと十五分、といったところだった。一秒でも早く彼のもとへ帰りたくなって、早足で水たまりを避ける。
「もしすべてが嫌になってしまったら、わたし、ポオさんの本のなかに閉じ込めてもらおうかな」
ソファでくつろいでいるとき、わたしはふと思いついたことをそのまま言ってみた。「ほら、寂しくてどうしようもない雨の夜とか」
「君を、……そ、そんなことは出来ないのである」
「だってポオさんの世界では、ポオさんが神様でしょう」
何気なく発したはずの言葉はわたしのなかでどんどん真実味を帯びた。まるでそれが正しくて、そうでなくてはならないみたいに。
「我輩が、神様」すこし逡巡するような間があって、ポオさんが小声で呟く。
「だって、閉じ込めてしまったらどんなに強い異能力者でも出てこられないんでしょう?」
「犯人を見つけない限りは」
「それならずっと見つけないわ。殺されたって構わない」
「ナマエ」遮るように、ポオさんがわたしの名前を呼ぶ。手が重ねられて、ぎゅっと絡まる。
「別に今すぐってわけじゃないのよ」
わたしが言っても、彼は答えない。表情を窺うと、見るからにどうしていいかわからないという顔をしていた。
「わたしいま何も、嫌になってないし」
手を繋いだまま、彼の肩へ頭を預ける。
「一緒にいられなくなったら、閉じ込めてもらうっていうのは?」
「……嫌である」
「異能を使うのは、乱歩さんが絡んでないとだめとか」
「そういう問題では、」
だって、と、今度はわたしが彼を遮るように言う。
「恋びとが神様の世界なんて」
その先に続くふさわしい言葉は、何一つ見つからなかった。ポオさんが神様の世界。
日頃から、常に思っていたこと。いつでも彼と居られたらいいのに。ずっと彼にとらわれていたい。触れていたい。
彼の世界に入ってしまえば、彼はわたしだけの神様になる。
突然話すのをやめたわたしを、彼の膝で丸まるカールが不思議そうに眺めていた。
「君を閉じ込めてしまったら、……我輩が、君に会えなくなる」
すぐ近くに彼のひとみがあって、わたしはちいさく息を飲んだ。雨の夜空に浮かぶ雲みたいな色。「こうして触れることも、」
指の温度。感覚。つたわる熱。いま起きていることみたいに鮮明に、わたしのなかでよみがえる。すべて数日前のことだった。
彼の家が見えてきたところで、立ち止まる。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。雨と夜の匂いがする。星も月もなく、厚い雲だけが流れている。空との境目はわからない。
こういう天気──雨が止んで、けれどすっかり晴れてはいない、絶妙に湿った夜──のときの街灯はひときわ目立って見え、照らされるコンクリートも湖面のようなきらめきを放っていた。曖昧で寂しく、しずかだった世界が突然彩りを持ち始めて、戸惑う。理由はわかっていた。家の前に、彼がいる。
「びっくりした」
無意識に傘を持つ手に力が入っていた。そっと持ち直して、まっすぐ彼を眺める。
「我輩こそ、驚いたのである」
わたしとポオさんの間には、わずかに距離がある。わたしなら五歩くらい、彼なら三歩くらいの。彼の声はいつものことながらちいさく、けれどそれは他の音に交じることなくわたしへ届いた。
「会いに来てくれるところだった?」
「そ、そうなのであるが、家を出たら君が」
未だ動揺した様子の彼に、自然と笑みが洩れる。五歩分軽やかに乗り越えて、彼のもとへとたどり着いた。
「会いたかった」
「……我輩も」
ポオさんがゆっくりとわたしを抱きしめる。視界が暗くなって、彼の温度でいっぱいになった。まるで閉じ込められたみたいだ。
このままずっと居られますように。わたしだけの神様に、祈りを込める。