恋と願いごと
一ヶ月ぶりのディナーを終えて店を出ると、めずらしく彼の方から少し歩かないかと誘われた。いつもはわたしのほうから提案していたから、何か重要な話でもあるのかと身構えてしまう。間髪入れずに返事をした自分の声が明るすぎたような気がして、頬が熱くなった。
市の中心から少し外れた街は、通行人も少なくしずかだ。虫太郎さんは人の多いところが好きではないし、なによりこだわりが強い。だからお互いの家以外のデートスポットは、ほとんど決まりきっていた。今日の店も、通って一年くらいになる。わたしの家までぎりぎり歩けないこともない、といった距離だ。帰りにこうして歩く口実が作りやすいので、わたしも気に入っていた。
夜のゆるやかな風が、夏の匂いを運んでくる。車や自転車が近くを通るたび、虫太郎さんはわたしをそっと引き寄せた。ずっとこのまま、誰が見ても虫太郎さんのものだとわかるようにしていてくれればいいのに。どんなに願っても、彼はすぐにわたしから手を離してしまう。いっそわたしから腕を絡めてしまおうかとも思うのだけれど、外で手を繋いだりする奴の気が知れん、と彼が言っていたのがちらついて、なかなか踏み切れないでいる。
「あの、虫太郎さん」
「……何だ」
歩幅は全然違うはずなのに、虫太郎さんはぜったいわたしを追い越していってしまうことはない。出会った頃はよく早歩きで彼を追いかけることになったり、話しているうちに彼がわたしを見失ったりしたのだけれど、今ではそんなこと絶対に起こらない。気づかないうちに、彼はどんどん素敵な恋びとになっていくのだ。
「やっぱり、なんでもない」
引き寄せる仕草だって、信じられないくらいぎこちなかったのにな。心の中でひとりごちる。思い出すうちちいさく笑みが洩れて、虫太郎さんが不審げにわたしを見た。
「虫太郎さんこそ、なにか言いたいことでもあるから誘ってくれたんじゃないの」
もともとこうして並んで歩くとき、会話は多い方ではない。ぽつりぽつりと話をしながら、同じ空気を共有して、足音を聞いて、そうしてすぐに、家に着いてしまう。
「いや、……特に理由はない」
そう、と頷いてもよかったけれど、なにしろ一ヶ月ぶりのちゃんとしたデートなのだ。まったく会っていなかったわけではないけれど、どれも仕事の帰りにすこしだけ家に寄るとか、お昼休憩に十分だけ会うとか、そんな感じだ。今日ばかりは、彼の下手な嘘には騙されてあげないことにする。
「そんなことないでしょう? 虫太郎さんから散歩に誘ってくれるなんて珍しいもの」
彼はわかりやすく目を逸らした。視線の先には紺色の空がある。つられてわたしも見上げる。ふたりぶんの足音が止んだ。
「……星、きれい」
散りばめられたひかりたちは、するどい輝きを放っていた。この辺りは灯りがすくないから、ひとつひとつが際立って見える。
「本当に、理由はない」彼はふっと表情を緩める。「君が言わなかったから、代わりに私が言っただけだ」
「どうして? 放っておいたらどうせ、誘ったのに」
嫌な感じの言い方になってしまった、と口に出した瞬間に反省する。せっかく会えたのに。
普段は確かに、ご飯を食べている最中だとかお店を出てすぐに言うことが多い。けれどそれは、話の流れでこの後どうするかを提案しているだけだ。今日はたまたま、タイミングがなかった。あのとき虫太郎さんが言わなかったらわたしから言って、そうしてまた、長く一緒に居たいと思っているのはわたしだけなのかもしれない、なんて家で落ち込んでいたはずだ。
「いまのやっぱり、撤回。答えなくていい」
虫太郎さんは何も言わず、わたしと同じ空を眺めている。世の中の彼女は可愛くわがままを言ったり些細なことで不機嫌になって彼氏を困らせたりする、なんていうのも聞くけれど、わたしには到底そんなこと、出来そうにない。何も考えず質問ばかりしてしまったことを後悔して、泣きだしそうなくらいだ。身体の芯からじんわりと湧くさびしさが、どんどんわたしを埋め尽くす。一方的に機嫌を悪くして今夜を終えるなんてことは、絶対にしたくない。ましてや、彼に嫌われるなんてことがあったらきっと、立ち直れない。
「わたしは、……わたしはね」視線を落とすと、今日のために新調したワンピースとパンプスが目に入った。「出来たらもっと会いたいし、本当は手だって繋ぎたい。デート終わりたくないから歩こうって言う」
でも、と続けようとしたとき、虫太郎さんが不意にわたしの腕をつかむ。力はほとんど入っておらず、触れているだけの状態だ。意図がわからず黙っていると、彼は一歩踏み込んで、わたしをそっと腕に閉じ込めた。
「と、突然どうしたの」
虫太郎さんらしくない。外でハグをするなんて、手を繋ぐよりずっと恥ずかしいことなのに。
「無理してこんなことしなくても大丈夫だから、……離して」
彼はわたしを抱きしめたまま動かない。
「……無理などしていない。だから困っている」
数十秒の沈黙の後、虫太郎さんがわたしにだけ聞こえる、ちいさな声で言う。こんなに自信なさげな声を聞くのは初めてかもしれない。
「困る?」
「私は今まで、こんな感情になったことなどない。どんなことにも冷静に、知識をもって対応してきた。ところがだ。君のことになると、……」
背中に腕を回して、ぎゅっと力を込める。さっき抱きしめてくれたときの表情はたしかに、出会った頃のぎこちない彼そのものだった。
「良かった」ぐっと額を押しつけて、ゆっくり息を吸い込む。慣れ親しんだ彼の香りがする。「虫太郎さんがちゃんと恋をしてて」
好きなのも一緒に居たいのもなにもかも、ずっとわたしだけだと思っていた。ちょっと考えてみれば、大切にされていたことなんて分かるのに。
「わたし、虫太郎さんが好き。ほんとうに」ゆっくりと手を離して、抱擁を解く。彼のひとみは夜に交じらず、まばたきの度きらきらと揺れていた。「……ずっと一緒に居たい」
顔が熱くなって、うつむく。虫太郎さんはわたしへの気持ちをあんまり言葉にしないけれど、それはわたしだって同じなのだ。
心のなかでひそかに願っていたことをすべて白状し、その上告白みたいなことまでしてしまった。ハグは嬉しかったけれど、冷静に考えると照れくささが勝ってしまう。
「ナマエ」目の前にふっと影ができて、虫太郎さんがわたしの名前を呼ぶ。なにもかも一瞬で、くちびるが触れてから離れるまで、わたしはまばたきもできなかった。「虫太郎さん、」
「いい今のは、その」彼はわたしの前に手のひらを差し出して、けれどすぐに引っ込める。ひとつため息をついて、眉をさげた。やさしい、恋びとの笑みだった。「……寒くなってきたし、早く帰ろう」
「……うん」
虫太郎さんが数センチだけ作った空白にしずかに手を通して、腕を絡める。
「ちょっと遠回りしてもいい?」
「……ああ」
わたしも彼も慣れていないから、ぎこちない歩き方になっていることだろう。後ろ姿を想像しながら、彼の腕に頭を寄せる。さっきよりもそろった、ふたりぶんの足音がする。
いつかまた彼の隣を歩くとき、わたしはきっと、今日のことを思い出す。