ふたりしか知らない朝




 朝起きると、となりに乱歩がいなかった。いつもは目が覚めるとすぐ、わたしに声をかけてくれる──彼は自分で朝ごはんを用意しないので、ほとんどごはんの為に起こされているといってもいい──のに。一体どうしたのだろう、と身体を起こす。いつもより早かったのだろうか、と時計を見ても、普段ならとっくに起きているような時間だった。今日は休みだからいくら寝ていたって構わないのだけれど、一度起き上がってしまった以上、戻るのはなんだかもったいないような気がする。

 寝室をぬけてリビングへ出ても、彼の姿はなかった。それでも部屋は明るく、朝刊もテーブルへ置かれている。ふと窓のほうへ視線をうつせば、レースカーテンが揺れていた。新鮮な空気が流れ出てくる。

「おはよ」

 ベランダ用のサンダルを引っ掛けて、乱歩の横へ並ぶ。銀色の柵にもたれて遠くを見つめる彼は、いつもと雰囲気が違うような気がした。

「遅い。いつまで寝てんの」
「仕方ないじゃない。乱歩がわたしのこと起こさなかったんだから」

 いつもはアラームかけてるもの、と続ける。乱歩が泊まりに来る日以外はきちんと前日に起きる時間を決め、アラームもかけているのだ。確かに朝は苦手だけれど、五分おきに大音量の聴きなれない音楽を設定しておけば──いつも聴いているものだと、夢に溶け込んできて起きられないことがある──滅多に寝坊することは無い。

「僕が居ないと起きられもしないなんて」

 乱歩が呆れたように言う。けれどそれにはどこか温かみがあるというか、本気で呆れている訳ではないというか。わたしにしか分からない親愛の色が含まれているのに気がついて、じっと彼を見る。朝から一人ベランダに出るなんてめずらしいし、なにか良くないことでもあったのかと思っていた。機嫌が良くないのか、とも。どちらも違う様子で、何か逡巡しているようだった。

「……乱歩、なんかあった?」
 近づいて、しずかに質問する。ここにはわたしたち以外誰もいないのに、無意識に声を潜めていた。
「別に」
 乱歩はわたしに隠しごとをするようなひとじゃない。それでも、あまりに素っ気ない返答だった。もう一度、聞いてしまいたくなる。もっとも、そんなことをしたところで彼の答えは変わらないのはわかっているから、わたしは口を噤むしかなかったのだけれど。

 うつくしい朝だった。乱歩の艶々とした黒髪は心地よい風になびいて、翠の双眸には流れる雲や朝日がきらめいている。
 恋はおそろしいものだ、と思った。こんな風に空や建物、見慣れた街の風景をぼんやり眺めているだけで、彼はこの世の誰より格好良く見えてしまう。もう何年も隣で彼を見てきているのに、一向に慣れたりなんてしない。

「あのさ」数秒、マンションの下を通る車の音だけの時間があって、そのあとで乱歩が続ける。「僕と結婚してくれない」
 あまりの衝撃に声も出なくて、それからこれが現実なのかも一瞬わからなくなってしまった。もう一回言ってもらっていい、とお願いすると、今度はほんとうに呆れた様子でため息をつかれた。

「だから、僕と結婚してよ」

 どうやら現実のようだった。この稀代の名探偵に、二回もプロポーズのことばを言わせてしまうなんて。あとで謝ろうと心のなかで決めて、ゆっくりと息を吸い込む。
「本当に、……本当にうれしい。でも、わたしでいいのかな」

 乱歩なら、もっといいひとが居るのかもしれない。付き合うときだって相当悩んだし、いざとなれば離れる覚悟だってしていた。わたしとじゃなくても誰か素敵なひとと幸せになってくれるなら、それでいいと思っていた。それくらい彼が好きだった。

「この僕が君を選んだんだ」乱歩が得意げに笑う。「間違ってるはずがない」

 自信に溢れた、どこまでも彼らしい言い方だった。真っ直ぐで誠実で、それから希望に満ちている。このひととずっと一緒に居られたら、他には何にも要らない。

「……うん」

 俯くと、自然と涙がこぼれた。なかなか顔をあげることが出来ないでいると、乱歩の手が頬へ伸びる。すっと涙を拭われて、そのまま彼のほうを向かされる。

「……何泣いてんの」
 口調とは裏腹に、彼はやわらかく微笑んでいる。普段の様子からは想像できないほど大人びた、恋びとの顔だった。
「だって、これからもずっと一緒にいられるんだって思ったら、」

 声が震えて、上手く話せない。最後まで言い切る前に、乱歩がわたしを引き寄せた。腕のなかで、すんと鼻がなる。彼は恋びとらしく背中を撫でて、ぎゅっと抱きしめてくれる。ことばも体温も、それからこの朝の光景も、わたしはこの先ずっと覚えているだろう、と思った。希望にあふれたうつくしい朝。彼もわたしも、きっと幸せになれる。






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