月のもとへと連れ出して



 
 夢を見た。夢というのは起きた瞬間から朧気になっていくものだと思っていたけれど、今回は違う。忘れよう忘れようと念じる度に、景色や音が鮮明になっていく。目を瞑って、布団を手繰り寄せた。彼の香りが漂う。胸元へ頭を寄せて、ぐりぐりとやってみる。起こすつもりは無いけれど、とにかく彼がわたしの隣にいるのだという事実を体感したかった。 
 
 もう一度眠れば、すっかり忘れて目覚められるのだろうか。
───わたしの知らない女のひとへ微笑みかけるポオさん。エスコートする手。異国の地、遠い場所。届かない声。合わない目線。
 いくら思い出さないようにしていても、眠れない夜に考え事をしない、というのは無理があった。

 水でも飲みに行って、そうして読みかけの本を進めて、朝を迎える。明日は予定がないのだし、それでいいじゃないか。意を決して起きようと目を開ける。すぐさきに鈍く光る瞳があって、ハッと息を飲んだ。

「……ポオさん、ごめんなさい。起こしちゃったよね」

 焦って声をかけるけれど、何も返って来ない。かち合った視線を逸らすわけにも行かず、数回目を瞬いた。もしかして、寝ぼけているだけなのかしら。

「ポオさん?」もう一度だけ、小さく読んでみる。今度はこちらへ手が伸びてきて、そっと頭を撫でられた。そのまま頬へ降りてきた手に自分のそれを重ねて、瞼を下ろす。「……怖い夢を見たの」

「どんな夢か、聞いてもいいだろうか」落ち着いていて、いつもより低い声。わたしを想う気持ちが伝わる声色とことばは心の奥にじんわり染みて、話し出す前から泣きそうになる。

「うん」頬から手が離れる。それからゆっくり体勢を整えて、ポオさんもわたしも仰向けになった。
 夜に話をするときはこうして横並びになってお互いの声に耳を傾けるのが、なんとなく決まりみたいになっている。

「夢だし気にすることはないと思うんだけれど、……その、ポオさんが浮気、する夢だったの」
「わ、我輩が、浮気……」
 表情は見えないけれど、きっと驚いているのだろう。足元の布団が動いた感覚がして、それから肩が触れる。怖い夢、といったから、誰かの異能や怪物が登場したり、戦争したりなんかを想像していたのかもしれない。
「ものすごい美人と楽しそうに話してた」

 ついさっきまでは悲しくて仕方なかったはずなのに、彼の動揺っぷりが可笑しくて、揶揄う様な口調になる。
「それが、君にとっての怖い夢、……」
「怖い夢っていうよりは、かなしい夢かもしれない」
 でもポオさんがわたしから離れるのは怖いことだから、やっぱり怖い夢が正しいのかも。続けようとして、やめる。そんなの、離れたりしないって言って欲しいみたいだ。
 
 滲んだ天井の柄、それと月みたく浮かぶ常夜灯を目で追って、深呼吸をする。忙しいポオさんをこんな夜中に起こしてしまうなんて、恋人失格だ。大丈夫なことを伝えて、また眠らなくてはならない。

「うん。けどもう、大丈夫だから。起きてすぐ隣にポオさんが居て、安心した」
「でも、」
「もう寝よう。次はきっと、いい夢を見られると思うの」
「駄目である」
「え」意識する前に声が零れ落ちる。胸のすぐ下あたりに置いていた手は瞬く間に彼に攫われてしまって、繋がった指先から熱が流れ込む。今度は私が動揺する番だった。

「ポオさん、」
 辺りに布摺れの音が散る。わたしの顔のすぐ横に、もう片方の手が添えられた。布団のなかの足も囚われる。彼より一回り小さいわたしは彼にすっぽりと覆われてしまって、視界は彼でいっぱいになった。 

「恋人が泣いているのに、このまま寝るわけには」
「子どもじゃないんだから、寝られるよ」

 柔らかい微笑みを湛えた彼が、こわれものでも扱うかのように優しくわたしの目尻を撫でる。自然とまぶたが下りる。温度に涙が溶ける。せかいで誰より素敵な彼にこんな扱いをされてしまうと、まるで自分が高価な宝石にでもなった気分だった。わたしの想像する高価な宝石、なんて、彼にとってはありふれたものなのかもしれないけれど。

「ありがとう」自分が思っているより、弱々しい声が出た。涙を含んでいる。これでは本当に、子どもみたいだ。誤魔化すように続ける。「……だいすき」

 目を見て言うのは恥ずかしくて、俯き気味になる。久しぶりに告げた恋人らしい台詞、を徐々に頭が理解して、頬に熱が集まってきた。今すぐ訂正か撤回をと思いかけて、やめる。こんなときでも無ければ、伝えることは出来ない。暗闇は人の距離を縮めるとよくいうけれど、それは本当なのかも。

「……我輩も、である」彼が小さく笑う。小さな電球ひとつに照らされた室内では顔色まで窺い知ることは出来ないけれど、頬に心做しか赤みがさしているような気がする。
 
 今度は意図的に、目を瞑ってみる。
 眠りたいから、ではない。

 彼がわたしを呼ぶ声が、すぐ近くから聞こえる。ほどなくして、瞼の外が暗くなった。少しでも動けば触れる、という距離に彼がいる気配がして、ひとつ唾を飲み込む。

 ゆっくりとくちびるが触れる。またゆっくり離れて、もう一度。

 優しさでかたどられたキスは、この冷えきった夜といちばん遠いところにあるに違いなかった。
 わたし、今夜はきっと、しあわせな夢を見る。







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