青に煌めく



 冬の朝は寒くて辛いけれど、外に出た瞬間の清らかさは好きだ。ほかの季節より空気がずっと澄んで、なにもかもがあたらしいような感じがする。くっきりと聞こえる街の音。鋭くてけれどあたたかな陽射し。白く塗られたみたいに、雪の積もった道。何かが始まるのは春、という固定観念なのか偏見なのかわからないものがわたしのなかにもあったけれど、最近は違うと思っている。毎日を新たな気持ちではじめられる冬こそが、きっとなにかのはじまりになる。

 ……といっても、今日もわたしの日常は、何も変わらない。
 インターフォンがなる時間の少し前に玄関に出て、こちらへ歩いてくる彼におはようを言う。彼がよく通る声で挨拶を返してくれる間に、わたしは今日も来てくれた、と安心する。

「今日マジさみーよな」

 彼は腕を抱えるようにしてわたしの隣へ並んだ。彼の感情を表すように、触角もしょんぼりと垂れ下がっている。

「うん。起きたら雪も積もってて、びっくりした」

 雪を踏む足音と共に慣れない感触がして、歩く度に愉快な気持ちになる。誰も踏んでいない箇所を見つけては、ハッチンとふたりで競うように足跡をつけていく。

「あそことかスケート出来そうじゃね!?」

 少し進んだところにあるゆるやかな坂道は凍りついていて、ハッチンは楽しげに靴を滑らせる。一瞬でも気を抜けば転んでしまいそうだった。わたしは不安になって、一歩ずつゆっくり進んでいく。

「ファ〜〜〜!!すっげー滑る!」
「そう」笑顔を作るのも精一杯、といったところだ。「それは、良かった」
「なあ、一緒にやろーぜ!」

 え、と口に出した時には腕を掴まれていた。それもわたしが転ばないようにしっかり支えてくれるものだから、腕も肩もおなかも、すべて彼に触れている。
「うわあ」数メートルの坂道を滑りおりて、後ろを振り返る。まだ時間も早いから、辺りには誰もいなかった。「ちょっと楽しかったかも」

 腕を組んだまま、ハッチンを見上げる。思いのほか距離が近くて、直ぐに目を逸らした。だけど彼はわたしの方を向いたまま、
「もっかいやらね!?」なんてはしゃいでいる。

 キラキラしたひとみに気圧されそうになって、ギリギリのところで踏みとどまった。こんなことをしていては、彼がヤスくんと対決する時間が無くなってしまう(そもそも、ヤスくんは乗り気じゃないみたいだけれど)。

「一回で充分。ハッチン遅刻しちゃうよ」
「ファ!?もうこんな時間かよ!」

 ハッチンが携帯を確認して、しまう。カバーはわたしのと色違いで、去年の誕生日にあげたものだった。
 話している間もずっと、距離は近いままだ。わたしだけ意識しているのが悔しいような寂しいような気持ちになって、わざと手に力をこめた。ほんの僅かに身体を寄せて、もう一度ハッチンを見る。「……また凍ってたら怖いから、このまま行こ」
「オマエ、運動神経わりーもんなー」

 相槌を打つ声がわかりやすく沈んで、けれど彼は特にそれに気がつくことなく、わたしを引っ張って進んでいく。ときおり本当に転びそうになって、その度ハッチンが支えてくれる。

「今日も練習?」
 フォルテッシモ公園を通り過ぎると、わたしの通う学校が見えてくる。ハッチンが送ってくれるのは校舎の少し前までだから──彼曰く、校門まで行くと「女子ばっかで居心地わりー」らしい──わかれるまでもう五分もない。
「今日はやらねー。明日はスタジオ練するけどな!」
「そっか」

 ハッチンはこうして、毎朝迎えに来てくれる。前にハッチンの友達だというだけで絡まれて、あやうく喧嘩に巻き込まれそうになったのを気にしているらしい。学校の違うわたしたちが一緒に登校するには早起きするしかなく、さらに彼はギターの朝練だとかヤスくんとの対決だとかこなさなきゃいけないことが沢山あった。おかげでわたしはいつも教室一番のりだ。
 朝練はたまに見学させてもらっているけれど、最近は寒くて行けていない。放課後もお互いバイトをしたりハッチンはさらにバンド練習があったりと、遊ぶ時間も減っていた。寂しく思う気持ちはあるけれど、ステージ上での彼が何より輝いていて、世界中のどんなミューモンより素敵なのを知っているから、彼に伝えることはかなわない。

「駅前ですっげーやっべーイルミネーションやってんだってよ」

 今日見に行かね?
 ハッチンはそれがなんでもないことのように──カラオケとか、駄菓子屋とか、そういう普段から行く場所へ誘うみたいに──言って、スマートフォンをわたしのほうへ向けた。画面には『アンダーノースザワのイルミネーションが話題!今年恋人と行きたい場所一位に』という見出しが大々的に載っている。

 標識の前に着く。ハッチンとの朝の、終わりの目印。どちらからともなく身体を離す。

「イルミネーション……え、今日?ふたりで?」
「なんか予定でもあんのか?」
「ないけど……」

 恋人でもない女の子とイルミネーション、なんて。それに、この記事にもちゃんと書いている。明らかにデートスポットだ。ハッチンは何にでも誘ってくれるけれど、今日のは訳が違う、と思う。

「じゃあ決まりな!一回帰ってオマエんち行くから」

 わたしの返事を聞く前に、ハッチンは背を向けて反対方向へ駆けていく。そのまま学校へ入る気になれなくて、どんどん小さくなっていく紫色の後ろ姿を目で追う。わたしは結局、彼の姿が見えなくなるまで眺めていた。「……何着ていこう」

▽▽▽

 いつもは長く感じる授業も、先生からのお説教──昨日の夜塗ったマニキュアと、明るくなった髪色に対する──も、すべてが早く感じられて、気がつけばあっという間に放課後だった。

 とはいえ、生徒指導室に呼び出されてまで注意を受けたのは初めてだったから、内容はちゃんと覚えている。途中で退屈して、今日はどんなアイシャドウを使うかだとかどの靴を履くかだとかそういうことばかり考えていたし、先生の意図した通りにわたしが矯正されることなどないのだけれど。

 ハッチンの通う区立DO根性北学園──通称どこ北は、この辺でも治安の悪い学校として有名だ。わたしが朝ハッチンと一緒に歩いているのが先生たちの間で共有されているらしく、髪色やマニキュアもその影響なのではないかと怒られたのだった。

 まったく関係ないといえば、確かに嘘になる。けれど、わたしだって必死なのだ。ハッチンの隣に並ぶのに、ふさわしい女の子に、……いや、恥ずかしくない程度には可愛らしく居たい。だから校則ギリギリを攻めて(注意されたとはいえど、うちの学校もそんなに厳しいわけではない)努力しているというのに、この仕打ちって何なのかしら、と思う。わたしは目立つグループにいるわけではないし、かといって友達が居ないというわけでもない。つまり決して、注意を引くような生徒ではないはずなのだ。ちょっと不良っぽい──ファッションヤンキー、といったほうが正しいのかもしれない──ひとと仲良くしているからといって、大人に何がわかるのだろう。

 鞄に教科書やお弁当箱をつめて、教室を後にする。嫌なことを思い出してしまった。ため息をついて、上履きを脱ぐ。


 家に着くと、ハッチンから連絡が入っていた。今から学校を出るところらしい。思ったより時間は無さそうだった。巻くのは前髪だけにして、手早く化粧を済ませる。最近買った紫のアイライナーを引いて、まつ毛を丁寧に上げていく。

 服は迷わなかった。今度ハッチンと出かけることがあったら着ようと決めていた、シルエットの綺麗なワンピース。友達と出かけた時にふと目に止まって、買ったのだった。お気に入りのコートと合わせて、鏡の前で一周まわってみる。

 インターフォンが鳴る。朝とは違って、玄関で待っているような余裕はなかった。放課後こうして彼が家に来るなんて、本当に久しぶりだ。階段を勢いよく駆け下りて、呼吸を整える。それからリップを取り出して、ひと塗り。メイクの最終工程だ。

「おまたせ。遅くなっちゃった」

 ドアを開けると、ハッチンはスマホから顔を上げた。そのままわたしのつま先から頭までをゆっくりと眺める。

「……なんか雰囲気違くね?」
「え、そうかな」

 あんまりにも熱心に見つめられたせいで、平静を装うのも一苦労だった。家の施錠をして──動揺して何回か鍵穴に入らなかった──、先を歩く。そうしないといつまでもこの状況が続くような気がした。

「朝と全然ちげー」

 歩き出してもまだわたしの格好を物珍しそうにするハッチン自身も、朝とはまた雰囲気が異なっていた。蜂の羽の柄がついた黄色のジャンパーに、黒のパーカーを合わせている。どっちもよく似合っていて、オシャレな彼に相応しい。プライベートの彼を独占しているような気持ちになる。目に焼き付けておこうと思って、だからわたしもまたハッチンを見ていた。

「多分こーいうのを、シミラールックって言うんだよなー」
「え、」ハッチンと自分に交互に視線をやって、ようやく理解する。「……確かに、そうなってるかも」

 ワンピースは彼の上着とほとんど同じ色をしているし(だから目について、買ったのだ)、コートは黒でパーカーと揃っている。意図したわけではないけれど、傍目から見れば完全にカップルだ。

「き、着替えてこようか」
「ファ!?何でだよ」
「だって、恋びと同士だと思われる」足を止めて、俯く。「嫌じゃないの?」
「こ、こ、恋びと同士!?オレとオマエが?」

 ほとんど声にならない相槌を打つ。あまりに彼の動揺が大きいものだから、つられてわたしまでびっくりしてしまったのだ。ハッチンはなんども瞬きをして、考え込むような仕草をする。沈黙。彼はよく喋るから、こういう時間は珍しい。

「……べ、別に、いいんじゃね?」
「……そう」

 素っ気ない返事になってしまった、と思うけれど、これ以上この話題を続ける元気はなかった。

「この間のライブ、可愛い子沢山来てたね」
「ファ?あ〜……確かに、来てたかもな」

 なんとも歯切れの悪い返答に、思わず彼のほうを向いてしまう。いつものハッチンなら、「皆オレのブンブンギターソロに聴き入ってたぜ!」とか、自信満々な感じで言いそうなのに。

「来てたかも、って。ハッチン、可愛い子好きでしょ?」

 その可愛い子に実際話しかけられたとして、まともに話せるとも思えないけれど。彼が男子高校生らしく女子を意識──やけにうちの学校の衣替えの時期に詳しかったり、ナイトプールに興味津々だったり──していることは、バレバレだった。

「ファ!?べべ別に好きじゃねーし!」
「そっか」

 笑いだしそうになるのを堪える。この手のことで彼をからかうのは面白いけれど(こういうとき、わたしは双循くんの気持ちが少しだけわかってしまう)、あんまりわかりやすく茶化してしまうと、わたしに跳ね返ってきかねない。オマエはどうなんだよ、なんて言われたら、言葉に詰まってお終いだ。わたしはずっと、ハッチンしか見ていないのだから。

「……こないだはオマエ来てんの分かってたから」
「もしかして探してくれてた?」

 話しているうちに朝滑り降りたところまで辿り着いていた。あぶねーから、とこちらへ向けられた腕に自分の腕を絡めて、ゆっくり下っていく。

「目、合ったような気がしたんだけど。そのあと周りの女の子たちが絶対わたしだ、いやわたしよ!みたいなの始めてて」

 嬉しかった気持ちと、周囲のファンたちの騒ぎ様を同時に思い出す。あの日わたしはひとりで、出来るだけ目立たないところを陣取ってライブに参戦していた。そのはずなのに、確かに視線がぶつかって、わたしに気づいてくれたような気がしていたのだ。

「ッファファ!オレ、オマエのことしか見てねーのに」
「本当?だったらわたし、泣いちゃうくらい嬉しいけどな」
「ファ?オレとは毎朝会ってるだろ」
 たまに転びそうになるわたしを支えてくれながら、ハッチンは心底不思議そうな顔をする。
「そりゃあ、迎えに来てくれるのも本当に嬉しいけど、でも、……あの特別な場所で、わたしを見つけてくれたのが嬉しいの」 
「それなら、オレも嬉しかったぜ」
 街にでる。急に雪がなくなって、地面を蹴る固い足音がする。どちらからともなく、腕を離す。
「オマエ、オレのことしか見てなかったからなー」

 何か言わないと、と思うけれど、言葉がひとつも浮かばない。「バレた?」とか、逆に「そんなことない」とか、なんでもいいのに。けれどわたしは、彼の前で適当なことなんて言えないのだ。
 素直で純粋で、ちょっと怒りっぽくて、でもよく笑う。それからわたしに対しては、底抜けに優しい。そんな真っ直ぐで嘘のない、好きなひとの前では。

「……そうだよ。わたし、いつもハッチンしか見てない。カッコよくてギター上手くて最強の、ハッチンしか」
 彼の自称する、アピールポイントたち。全部その通りだと思う。少なくとも、わたしにとってはそうだ。
「……な、なんかそれ、オマエがオレのこと好きみたいじゃね?」
「うん」
「だよなー。まさかそんなこと……って、ファ!?オ、オマエ今」
「うん、だから好きだって」

 ここまできてしまうと、なんだかもうどうでもいいような気がしてくる。そもそも、わたしはこんなにわかりやすくハッチンのことを好いているのに、イルミネーションなんかに誘う方がいけないのだ。今更友達で居たいからそんなこと言うなよ、なんて言われても、願い下げだ。

「ファ〜〜……まさかオマエのほうから告られるなんて 」
「聞かれたから答えただけだもん」

 告ってないし、と心の中で反論して、ハッチンより先に歩く。冷たい風に、コートがバタバタとはためいた。はあ、と大げさにため息をつく。

「なあ」隣に並んだハッチンが、わたしの顔を覗き込む。「オレもオマエのこと好きだ」

 驚いて立ち止まったせいで、後ろを歩いていたミューモン達がわたしたちを迷惑そうに避けていく。

「……だから、その……オレと、付き合ってくんね?」

 遠い外国の海みたいなターコイズのひとみが、いっぱいにわたしを映している。気がつけばハッチンは、人混みからわたしを庇うように立っていた。

「本当に、……本当にわたしでいいの?ただ彼女が欲しい、とかなら、もっと可愛い子と、」
「ファ〜?いいに決まってんだろ!」ハッチンが遮るように言って、そのまま続ける。「……好きじゃねー奴とイルミネーションなんか来ねーし」

 身体がじわじわあつくなって、鼓動が早まる。彼に出会ってからずっと夢見ていた、隣にいる権利。

「わたし、ハッチンの彼女になりたい」
「じゃあ決まりな!」

 行き先を決めるみたいな軽やかさが、わたしには心地よかった。こんな特別な瞬間にも、ハッチンはハッチンだ、と思えたから。言葉の響きにひとつも嘘がなくて、清らかな感じがする。冬の朝みたいに澄みきって、きらきらしている。
 だからこそ、わたしが好きでいていいのか、わからなくなるときがあるのだけれど。

「な、なあ」歩きかけたところで、呼び止められる。「手、繋がね?」

 頷いて、片手を差し出す。ハッチンはそれをおそるおそる、というかおっかなびっくり、というか、とにかく壊れ物にでも触るようにしてゆっくりと握った。ハッチンの手の温度が指先から伝わる。

「朝もさっきも普通だったじゃん」
 腕を組むのは良くて手を繋ぐのは緊張するのか、と不思議に思って、聞いてみる。
「ファ?さっきのとこれは全然ちげえし!」
「そうかなあ」

 すこしだけ空いた隙間を詰めるように、ハッチンの手をぎゅっと握ってみる。ちょっと間があって、それからハッチンも控えめに返してくれた。嬉しくなって、ふふ、と笑う。

「なんだよ急に」
「なんか、嬉しくなっちゃっただけ」
「ファファ!オレも、すっげー嬉しいぜ」

 顔を合わせてもう一度笑って、前を向く。いつのまにか、駅の前まで来ていたらしい。
 わ、と自然に声が出た。視界がひらけて、うんと鮮やかなものになる。

「ファーーーー!!すっげー!なあ、これヤバくね?」
「うん!すごい綺麗」

 一面に広がるひかりは、点滅したり模様を描いたりしながら、街を彩っている。木やオブジェも色とりどりに飾られ、普段とは違う世界にいるみたいだった。

「ナマエ、写真撮ろうぜ!」
「うん」

 ハッチンが携帯を取り出す。画面を見ながら、すこしだけ彼のほうへ身体を傾けた。カメラの音が鳴って、イルミネーションはわたしたちごと切り取られる。ハッチンがわたしの手を引いて、次の場所へ連れていってくれる。

 煌めく視界のなか、彼のとなりへ踏み出す。この光景も彼の温度も、わたしはきっと一生忘れない。






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