駆け引きに向かない




 くだらない昔話。かろうじて名前を憶えているような級友たちの近況報告。仲の良かった友達からの連絡で急遽出席をきめた同窓会は、一言でいうと最悪だった。つまらないし、男のひとはみな馴れ馴れしい。
 適当に相槌を打ちながら、テーブルの下で携帯を確認する。お昼ごろに彼に送ったメールは返ってきていなかった。忙しいのかもしれない。

「彼氏とかいないの」

 わたしが聞いていないと思ったのか、テーブルの向こうから身を乗り出して言われる。急に顔が近づいたことに驚いて、肩が跳ねる。その様子が面白かったのかまわりの人達は笑い出して、わたしもなんとなく笑ってみせた。

「それで?いないの?」

 まださっきの質問は続いていたらしく、ため息をつきそうになるのを我慢する。聞いて何になるというのだろう。馬鹿馬鹿しい。同窓会で再会して、なんてよく聞くけれど、こんなところからはじまる恋愛など、わたしにはきっと向いていない。

「……いないよ」

 へえ、とか、ええ、とか、想像していた通りの大げさな声が上がる。居心地がわるくなって、お酒をひと口飲む。味はよくわからなかった。それより、虫太郎さんがこれを飲んだらきっと顔をしかめて、わかりやすく不味さを伝えてくるんだろうなとか、そもそもこういううるさい店は足を踏み入れるのすらいやがるだろうなとか、気がつけば頭の中が彼でいっぱいになっていた。いけないと思って必死に場に馴染もうとしても、サイズのあっていないジャケットや似合わない色のシャツ、軽々しい喋り方──そういう人の悪いところばかりが目に入ってきて、自分が嫌になる。結局わたしはどこへいっても、虫太郎さんと誰かを比べているのだ。

「俺立候補しようかな」

 ふふ、と笑ってごまかすと、おしぼりをいじっていた右手をつかまれた。
「あの、」辺りが茶化すような雰囲気になるのを感じて離れようとする。けれどわたしの手を掴む力が強まって、相手はこちらを見つめてくるばかりだった。
「本気だよ」

 誰かがヒュウ、と口笛を吹く。心の底から不快感が押し寄せて、なかば振り払うように男の手を抜け出す。ごめん。小さく言って、席を立つ。空気の悪さを背中で感じながら、それでもわたしは虫太郎さんのことを思い出していた。出会ったばかりのころ何度もはぐれそうになって、仕方なさそうに差し出された手のひら。お互いに照れてしまって、顔を見られなかったこと。

 トイレの前で彼に電話をかけようとして、やめる。連絡はいつもメールだった。寝る前に声が聞きたいと思っても、今みたいにふと寂しくなって、迎えに来て欲しいと思っても、わたしは彼の恋人ではないから。電話の嫌いな彼の特別、になりたいと思ってからもう随分経った。今日は久しぶりに会えるから、前日から美容室とネイルサロンに行って、服も新調した。できる限り、いちばん可愛くありたかったから。それなのに朝起きたら、仕事に行かなくてはいけなくなった、なんて。仕方ないことなのだけれど、わたしはどうしようもなく悲しくなって、すこし泣いた。それで気がつけば今日の同窓会に参加することをきめていたのだった。

 もしわたしが彼の恋人だったら、また次の予定を決めればいいだけのことで、そんなに落ち込むこともなかっただろう。でもわたしは恋人ではないのだ。いままでは定期的にご飯に行くのがぼんやりと決まりみたくなっていて、けれど虫太郎さんの仕事が忙しくなってからは、お互い暇な時に少しだけ会う、とか、たまに状況を知らせるメールのやり取りをする、とか、その程度の関係に落ち着いていた。だから今日誘われたときは、本当に嬉しかったのだ。虫太郎さんはあんまり交友関係が広いタイプではない──友達はヨコミゾさんひとりだ、と言っていたけれど、話を聞くにあとふたりくらいは居る気がする。それでも少ない──し、自分が会いたくない人にわざわざ会いにいく性格だとも考えられないから、おそらくわたしは嫌われてはいないのだろう。けれど今日の約束が無くなったいま、あらためて自分から誘う勇気はない。ずっと変わらない関係に安心して、されどどこかでずっと寂しく、虚しい気持ちになっていたのも事実だった。大人の男女が関係を変えるような時間は、もうとっくに過ぎ去っていた。彼に執着していても、わたしは一生恋人ができない。

 メールが返ってきたら、もう連絡はとらないと伝える。深呼吸をして決心すると、思考が晴れやかになっていく感覚がした。大丈夫、と前を向く。不毛な恋の辞めどきが、早まっただけだ。

 席へ戻るともうさっきまでの気まずい雰囲気は消えていて、お金を集めているところだった。ずいぶん人も減っている。払い終わった人から外へ出ているようだった。皆にならって料金を支払い、店のドアを開ける。ひんやりした空気が身体を包む。街路樹のイルミネーションが、煌びやかに存在を主張してくる。

「好きな人でもいんの?」
 同じテーブルで飲んでいた、わたしの手を握ってきた男とは別の同級生が、話しかけてくる。すこし迷ってから、うん、と頷いた。よく冷えた夜風が、頬を冷やしていく。「もう、やめようと思うけれど」
「片思いなんだ?」
「そう。どうにもならないくらい、好き」

 足早に通りすぎるスーツのひと、覚束無い足取りですすむカップル、急いでいる自転車。みんな、店の前でたまるわたしたちを避けるように歩いていく。

「あ」

 知らない顔のなかに、急に見慣れた髪色とスーツがあらわれる。向こうも直ぐに気がついたようで、足を止めた。一本道を挟んだ向こう側で、虫太郎さんがわたしを見ている。

「好きな人?」
「うん」

 答えながら、口のなかを柔く噛んだ。そうしないと、どんな顔になるか分からない。泣きだしそうでも、笑いだしそうでもあるのが不思議だった。虫太郎さんと居るとき、わたしはいつも、自分で自分がわからなくなる。虫太郎さんがわたしのすべてみたいな感覚におちいって、離れられなくなる。

「やめられなさそうだね」
「……うん。やめられないみたい」
 車が過ぎ去るのを待って、彼のもとへ踏み出す。



「……飲んだのか」

 虫太郎さんのもとへ駆け寄るやいなや、訝しげな顔をされる。偶然会ったことへのおどろきは見受けられない。

「もっと他に言うことないの。ひさしぶり、とか、髪切ったな、とか」
 虫太郎さんはわたしの頭からつま先までをゆっくりと眺めて、それから目線を合わせることなく、言った。
「……今日は、その、……すまなかった」
「メール見てないの」

 彼の蝶ネクタイがほんの僅かに傾いている。手を伸ばせば、虫太郎さんはすぐに意図を理解して、屈んでくれた。こういうことは今までにも何度かある。虫太郎さんに触れられるのがわたしだけならいいのに。そんなことが一瞬過って、すぐに振り払う。次に視線を戻した時には彼のネクタイはきっちり直っていて、わたしのくだらない独占欲も街の喧騒に消えていた。

「メール?ああ、昼に来ていたな」
「読んだなら返信をくれれば良かったのに。そしたらわたし、もうちょっと頑張れたかもしれない」

 虫太郎さんの表情が曇る。これは、何を言っているのか理解できない、という顔だ。けして短くはない付き合いの中で、彼は案外わかりやすいのだということを知っていた。焦った時や怒った時、それから楽しい時の──彼のどんな顔でも思い出すことが出来る。わたしはいつも、虫太郎さんばかり見ている。

「飲み会を頑張る?……君の考えていることは本当に理解出来ん」
 そもそも同窓会などというのは、と続いた言葉を遮るように、虫太郎さんに近づいて、そっと腕を絡める。
「な、なにを」
「虫太郎さん、ちょっと」

 すこし離れたところに固まっている同級生たちを見れば、わたしたちがこの場で多少なりとも目立っているのがわかった。皆それぞれ、話をしながらさりげなく視線をよこしてくる。少し考えてから、彼を引っ張るようにして顔を近づけた。そうして、しずかに耳打ちする。なるべく特別に見えるように。秘密めいた響きでもって。「抜け出したいの。……恋人のフリして。お願い」 



 繁華街を抜けると、人もまばらになってくる。さっきの騒がしさが嘘のように、辺りには冬の清澄な静けさが漂っていた。星のない夜。深い青の空に薄い雲がかかって、その奥にぼんやり月が浮かんでいる。こういう冬の空は、なぜだか雪国の海を思わせる。

「……もういいだろう」

 歯切れの悪い様子で、虫太郎さんが言う。そのままわたしから離れようとしたので、あわてて身体を寄せた。
「寒いから、着くまでこのままいて」

 着くまで、なんて言ってしまったことを後悔する。まるで帰るみたいだ。行先なんてわからないのに。どこに行くかを決めなければ、永遠に一緒にいられる気がしていたのに。

「……君は、」

 虫太郎さんが立ち止まる。わたしは黙り込んだまま、恋人のフリを続けていた。彼の腕に頬をつけて、うつむく。

「君は私に恋人のフリをしろ、と言ったが」
「うん」
「抜けるだけなら、普通に帰ってくればよかったのではないか」
「まあ、そうなんだけれど」そんなに彼は嫌だったのか、と、自嘲の笑みがもれる。「……口説かれたの」

 ちいさく告げたことばは、子どもが拗ねたときのような響きを持っていた。ばかみたいだと思った。虫太郎さんから離れて、ひとりで歩き出す。コートのポケットに手を入れて、ため息をついた。虫太郎さんにはおおまかな位置しか伝えてないけれど、少し歩けば住んでいるマンションの前に出る。開催場所が家からそこそこ近かったのも、今日の飲み会に参加を決めてしまった理由の一つだった。

「誰にだ。さっきの男か」
 彼が追いかけてきて、早足で進むわたしの横へ並ぶ。彼はこころなしか、なにかに焦っているように見えた。
「隣にいた人は違うよ。でも、あのなかにいた」
「そうか」
「何か問題でもあるの?結局断ったんだから、いいじゃない」それに、と付け足す。「虫太郎さんには関係ないでしょ」
「関係ないことは無いだろう」
 すこしだけ期待してしまう。彼がわたしに恋愛感情を持っていないことなど、もう充分思い知ったというのに。
「抜け出すのに協力したのは私だ」
「まあ、……それも、そっか」

 想像通り、といえば想像通りの、虫太郎さんらしい返答だった。あのときあの場所に来たのが虫太郎さんじゃなかったら、わたし、ひとりで帰ってこられたのに。

「ありがとう、ございました」マンションはすぐそこだった。伝えることは全て伝えて、今日で終わりにする。彼に会って揺らいだ決意が、言いようのない寂しさになって揺蕩う。「一瞬だったけど、虫太郎さんの彼女になれたみたいで嬉しかった」

 鼻の奥がツンと痛くなって、顔に熱があつまる。ふっと笑ったら涙がこぼれて、あわてて瞬きをした。朝丁寧に塗ったマスカラも、目の下に乗せたラメも、きっと一緒に流れ落ちているのだろう。こんな顔を見せたいわけじゃなかった。最後になるのなら、なおさら。

「……な、なぜ泣く?」

 虫太郎さんが手を伸ばす。けれど、指の長くて形の綺麗な彼の手はふたりの間をさまようだけで、わたしに触れてはくれない。透明な雫がどんどん落ちて、首まで濡らしていく。

「あのマンションに住んでるの。だからもう帰る。それから、……それから、もう、虫太郎さんとは会えない」
 視線がかちあう。彼は目を縦に開き、ただ呆然とわたしをみていた。
「今日の予定をドタキャンされたから、とか、メール返ってこないから、とか、そういうのじゃないの」
「私は、……その、君の」
 彼がなにか言いかけたのを遮って、
「片想いにつかれちゃっただけ。ごめんなさい」
一方的に伝える。こうでもしないと、二度と言えない気がした。
「……片想い」

 虫太郎さんが、初めて聞いた単語みたいに繰り返す。
 片想い。わたしの彼が好きな気持ちはきちんと言葉になることも無く、こんな五文字で終わるのだ。もう一粒涙が落ちて、アスファルトがきらきらと輝く。

「いまから、君の家に行ってもいいか」
「……む、虫太郎さん?どういうことなの。わたしいま、もう会えないって言った」

 じりじりと後退りする。潔く散りたかったのに、まだ振り回されるなんて。考えられない。

「もう会えない、というのは、次からの話だろう。いまは既に会っている。なんの問題もない」

 開き直ったような態度に、今度はわたしが驚く番だった。虫太郎さんはわたしを理解できないと言ったけれど、未だかつて、こんなにひとのことを理解できないと思ったことは無い。今わたしは告白のようなことをして、その答えは当然ながら貰えなくて、それどころか家に押しかけられようとしている。

「話したいことがある」

 わたしが黙ったままでいると、虫太郎さんは「これで最後だ」とうすく笑った。哀しくてうつくしい笑み。
 逃げられない。

▽▽▽

 部屋に着くまで、わたしたちは終始無言だった。涙は乾いて、鏡を見ていないからなんとも言えないけれども化粧が崩れているのは感覚でわかった。彼の前ではいつまでも可愛らしくいたかったけれど、そんなのもういまさらだ。

「好きだからって、恋人でもない男の人を泊める気はないから」

 あたたかいお茶をふたりぶん、テーブルへ置く。口調には可愛げなんて一ミリもなかったけれど、内心は、もっと掃除をしておけばよかっただとか、お茶の葉を新しく買っておけばよかっただとか、ちいさな後悔に溢れていた。
 顔を見たら今まで言ったことを全て無しにして、ずっとここに居て、と言ってしまいそうだった。だから隣に腰かけて、クッションをぎゅっと抱きしめる。

「……学生時代、私は友人もいなければ、もちろん恋人もいなかった。女性を好きになったことなど一度もなかった」
 虫太郎さんの言い方が過去形なのが気になって、けれど話の腰を折るわけにもいかない。お茶をひとくち啜って、またテーブルへ戻す。
「前、君にも話した通り、……そのあとは監禁されている期間も長かった。……ヨコミゾのこともあった。君に出会ったのは、すべてが終わってからだ」

 出会った頃のことを思い出す。彼とは人づてに知り合った。ものすごく強力な異能を持っていて、けれどそれは戦闘用のものではないから、何度も攫われたり監禁されたりしているひと。神経質で物にこだわりがあって、本が好き。作家の友達がいた。わたしが仕事で護っていたひと。一緒に街を歩くうちに、一緒に本を読むうちに、いつしかわたしは彼のことが好きになっていた。分かりにくいけれども優しくて、頭が良くて聡明で、それからなにより格好良い。こんなひとの隣にずっと居られたら、と夢をみてしまうくらいに。

「もうずいぶん昔のことみたい。わたし、結構最初から虫太郎さんのこと好きだったよ」

 いまも好きだけれど、虚しいような心地がして、過去をいつくしむように言う。あの頃のわたしからすれば、この状況なんて夢そのものだ。彼がいる。わたしの部屋に。わたしの世界に。

「……私も君に、片想いをしていた」

 なにもかもが唐突だった。間を開けて座っていたはずの虫太郎さんがわたしの腕を引っ張って、そうしたらクッションが転げ落ちて、あっという間に、彼の腕に閉じ込められてしまう。ぎこちない動きで 抱きしめてきた彼は、けれどそこから何を言うでもなく、わたしの背中をゆるゆると撫でていた。

「虫太郎さん、片想いって」
「君の気持ちを聞いて、初めて分かった。私のこれも、片想いだったのだと」
「……遅い。わたしずっと、苦しかった」

 彼のシャツに涙がついて、じんわりと温かくなる。虫太郎さんが慣れない手つきで、わたしの髪を梳かした。しばらくふたりとも黙り込んでしまって、部屋に静寂が満ちる。

「虫太郎さん、」
「……なんだ」
 肩に額を押し付けたまま、ずっと疑問だったことをぶつけてみる。
「今日、なんであの場所にいたの?」

 偶然会えたわけじゃないことは、うすうす気がついていた。虫太郎さんの家も職場も、あの店は全然近くない。もしかしたらどこかへ出向かなきゃ行けない仕事だったのかもしれないけれど、それにしても、飲み屋街を避けて帰るほうが彼らしい。

「……同窓会に参加することになった、とメールに書いていただろう。君が行くなら家の近くしかないと思ったからだ」
「会えるとは限らなかったでしょ。虫太郎さんそういう無駄なこと好きじゃないのに」
「会えたのだからいいだろう。君は結局あの場所に居た」
「わたしのこと全部わかってるみたいに言うけど」彼の腕を解いて、元の位置へ戻る。虫太郎さんが動揺したのがわかった。「だったらもっと早く気付いて」

 虫太郎さんは「いや」とか「それは」とか、次々に口にしては止め、結局喋ること自体をやめてしまった。
 いつまで経っても返事は来ない。けれど、こういうときに適当なことを言ってごまかさない彼をやっぱり好きだと思った。顎に手をやって考え込み始めた虫太郎さんに、助け舟を出してみる。

「……キスしてくれたら、許しても」

 最後まで言い終わらないうち、彼のくちびるが触れる。一秒も経たず離れて、今度は目が合ってから、どちらからともなく長いキスをした。

「後は何だ。何をすれば、君のさっきの発言を取り消せる」

 もうとっくに効力を持たないはずのわたしの言葉を大切にしている彼が、愛おしくなる。彼ともう会わない、なんて、いまのわたしには考えられないことだった。

「出来なかったデート、したい」
「分かった」
「……今日、帰らないで」
「……ああ」
 







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