想う夕方




 窓から外をながめながら電話をかける。探偵社は街のおおきな通りに面しているから、人の流れがよく見えた。学校から、会社から、それぞれ帰宅途中の人。これからディナーに向かうのであろう、着飾ったカップルたち。ラフな格好で犬の散歩をする人。

 彼は三コール目で出た。わたしは彼が話し出すまで、鳴る度肩が跳ねるような、喧しくて個性的な着信音──とてもおおきいカラスの鳴き声──を想像する。あまり鳴らないからこのままでいい、と彼は言っていたけれど、多分変えた方がいいと思う。わたしが一緒にいる時だけでも二、三回くらいは鳴っているし、その度ふたりして飛び上がった。着信はどっちも乱歩くんからで、すぐに出たのに遅い!と怒られていた。

「ナマエ……?」
 今日もあの音に驚いて、そうしてわたしからの着信だということを確認して、……想像するうち、ちいさく名前を呼ばれる。語尾の少し上がった、優しくて柔らかな、でも不安げな声。こちらからかけたのだからわたしから話せばいいのだけれど、なぜだかいつも、彼のこの声を待ってしまう。

「ポオさん? 今仕事終わったから、向かうね」電話の向こうから、ガサガサと音がする。カールにおやつをあげている途中だったのかもしれない。「……鍵は閉めたままにしておいて」

 彼がちいさく笑う声がした。それから、カールのしっぽが電話口に触れたような、ざわざわした音。
『わかったのである。気をつけて、……あっカール、……』

 電話が切れる。おやつを待ちかねたカールが噛んだか携帯を落としたか、そんなところだろう。また彼のいる部屋を想像して、あたたかな気持ちになる。


 このごろ、暗くなるのが早い。
 ところどころ濃くなった、けれど遠くまで透ける青は、深い海の底みたいだ。浅瀬にいたと思っていたのに、急に足がつかなくなる。あの感じ。ぼうっと歩いていてふと空を見上げたとき、気がつけば夜になっている。空と海。交わらないものなのによく似ているのは、不思議。

 コートのポケットが、歩く度にちゃりちゃりと軽快な音をたてている。カバンに添えていた手をポケットへ移動させて、そっと中の鍵を掴んだ。合鍵。最近貰った。毎週仕事の終わったあとに彼の家に通う習慣ができて三ヶ月。非常時以外彼が家を空けることはあんまり無いけれど、それでも何かと便利だから、ということだった。ポオさんの、あの緊張したような、照れたような顔。この鍵に触れる度、すべて鮮明に思い出す。そうしてその度、わたしはこの世の誰より幸せだと思う。
 
 軽く買い物をして、彼の家へ向かう。予定よりもすこし時間がかかってしまったけれど、走ったりはしない。待たれている、とは思わないから。これはポオさんがわたしのことをそんなに好きじゃないからでも、会うのを楽しみにしていないからでもなくて、今は小説の執筆をしている頃だからだ。きっとカールも、夜ご飯前にひと眠りしている。

 わたしはわたしで、仕事を終えてポオさんの家に帰るこの時間がすきだ。彼に電話をかけて、会社を出る。空の色が移り変わるなか、夜ご飯の献立を考えながら街を歩く。そんな夕方と夜のあいだに、わたしは彼の恋人なのだ、と実感する。ゆっくり、身体中に染みるように。

 途中にある洋服屋の大きな窓で、全身を確認する。中の客と一瞬目があった。そっと逸らして、一歩下がる。彼の家は靴のまま入る仕様だから、足元までおしゃれを気にしなくてはならない。急いでいる時はつい適当に選んでしまいそうになるけれど、ポオさんに会う日は別。

 今日はもしかしたら雪が降るかもしれないという予報を見て履き替えた、おろしたての冬靴。ヒールのついたもので、長い時間歩いても大丈夫なのを長らく探した。本当は底の平らなほうが歩きやすいに決まっているのだけれど、ポオさんと付き合ってから、ヒールは靴選びの必須条件になった。ヒールを履かないと、彼が遠すぎるのだ。何をするにも。

 スカートの向きを微調整し、一本だけ跳ねた髪の毛を撫で付ける。なんでもない風を装って、また歩き出す。彼の家はもうすぐだ。

「ただいま」

 鍵の開く音に反応したのか、すぐにカールが出迎えてくれる。気の済むまで撫でたあと顔をあげればポオさんも来ていて、おおげさに驚いてしまった。彼が玄関まで来るのは珍しいことだった。

「ポオさん、ただいま」
「遅かったから、心配して、……」

 とたんに申し訳ない気持ちになる。待たれていない、なんて、勝手な思い違いだった。買い物袋を床へ置いて、彼のほうへ近づく。すぐに軽く抱きしめられる。この家の、ポオさんの匂いがする。

「ごめんなさい。買い物に夢中になってしまって」
「……次からは、我輩も一緒に」
「ポオさん、人混み嫌いじゃない。今日もすごく混んでた」
「それでも、君がひとりで行くのは、………」

 わたしだって探偵社の一員なんだよ。できるだけ柔らかく、彼が安心できるように、言う。このまま彼の腕のなかに居たい気持ちを押し込めて、ひと一人分の空白をつくる。 

「わたしね、ポオさんが待ってるところに帰るのが好き」目が合う。彼のグレーがかった、吸い込まれそうなひとみ。「あと、ふたりで食べる夜ご飯のこと考えるのも好き」
「それは、我輩もである……。君を待ちながら、小説を書くのは、……しかし、……」

 表情はすこし明るくなったものの、心配そうでどこか寂しげな雰囲気は、消えない。しずかに彼の手を取って、きゅっと握りしめる。

「たまに迎えに来てくれたりしたら、ちょっと嬉しいかも」カールを肩に乗せたポオさんと、手を繋いで歩くわたし。夕方の、うつくしい街なみ。「一緒に帰るのもきっと楽しい」
「では、今度迎えに、……」

 ポオさんがやわらかく微笑む。もし彼と同じ光景を想像していたのなら、こんなに幸せなことは無いと思う。
 ふたたび視線が交わって、絡んだ指先から熱がうつる。もう一度彼の腕の中へ戻ろうとしたとき、数回、膝のあたりをやわく引っかかれる。抱っこの合図だ。

「ふふ、ここに居ても寒いもんね。入ろ」

 カールを抱え、となりを歩く彼にそっと身を寄せた。ふと見上げた窓の外で、夜が満ちている。
 






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