祝福の夜




 ベランダへ出ると、途端におおきなため息がでた。眠れない。明日も朝から出勤だというのに、何度眠ろうしても目が冴えてしまう。いっそ諦めて読みかけの本でもすすめようかしら、とベッドから抜けだしたものの、しんと静まりかえったリビングを見るとそんな気もなくなってしまった。テーブルの下にプレゼントを隠しているので、わたしが隣にいないことで起きてきた彼に見つかる可能性がある。もっとも、準備の段階ですべてバレてしまっているのかもしれないけれど。

 街を吹き抜ける風は、最早冬の気配をまとっている。乾いていてどこまでも澄んだ、ときどき家ごと揺らすような強い風。ついこのあいだ猛暑の夏が終わり、やっと秋になったところだったのに。底まで冷えた空気が部屋の外をすみずみまで覆いつくして、夜の純度を高めている。雲がすべて捌けてしまった紺色の空には、まるくて輪郭のはっきりした月と、遠くてけれど身近なひかりを放つ星たちがきらめいていた。

 この街の夜はいつも明るい。それに、人だってたくさん居る。誰かと連れ立って歩く人も、ひとり帰路を急ぐ人も、敢えて上を向いたりなんてしない。わたしもそうだ。だからこそ、こうしてベランダでしずかな空を眺めるのが好きだった。大抵、彼が寝たあとにこうしてひとりで見ているから、となりには誰も居ない。それが良かった。同じ家の同じベッドで乱歩が寝ている。窓ガラスを一枚隔てた外の世界に飽きたとき、もしくは彼の子どもみたいな熱が恋しくなったとき、わたしはいつでもそこへ戻ることが出来る。その事実がなにより大切で、苦しくなるほどのしあわせをもたらしてくれる。

 乱歩の誕生日は、なぜか緊張するのが常だった。出会ってからずっと、もう何年にもなる。わたしは当事者じゃないのに前日からこうして眠れなくなるし、当日はドキドキして仕事にも集中できない。彼が現場へ赴けば、いつも以上になにも起こらないといいな、どんなに小さな嫌なことにもあってほしくない、と願ってしまうし、社に居られれば頼まれてもいないのに甲斐甲斐しく世話をしてしまう。その世話をするために、前日からお菓子の残量やラムネの在庫を頭のなかで確認する。定時が近づくと、夜ふたりきりで祝う段取りをまた確認してなにも手につかなくなるし、要するにわたしは彼の誕生日、まったく使いものにならなくなる。わたしにはわたしの仕事があるのに、常に乱歩のことを考えてしまうのだ。公私混同もいいところ、とまたため息が出る。社の設立二年目からは前日までに大体の仕事を終わらせておくようにしていて、今回もそれに倣っていた。

 風で顔にはりついた髪の毛をどかそうとして、指先が悴んでいるのに気がつく。ベランダ専用のサンダルを脱いで、暖かな室内へと足を踏み入れた。時計を見れば、日付の変わる数分前になっている。悠長に考えごとなどしている場合ではない、と急いで窓ガラスを閉め、彼の眠るベッドへ向かう。




 物音を立てないようにして、布団とシーツの間に身体をすべり込ませる。ひとりでいる時は布摺れの音なんて気にならないのに、こういうときにかぎってやけに大きく響く。時計の音も外を走る車の音も、すべてが普段と違うような感じがしてくる。

 ベッドの下に置いた携帯で時間を確認して、彼のほうへと向き直す。触り心地の良い黒髪も伏せられたながい睫毛も、かたちの良い唇も一緒に選んだ寝間着も、全部がぼんやり縁取られている。この部屋には常夜灯と、カーテンのすきまから洩れるごく僅かなひかりしかない。

 誕生日の前日だからといってとくに夜更かしをすることもなくいつも通り眠る彼は、今この瞬間も、誰より清らかで正しい、と思う。きっとわたしなんかが占領していいひとではないのだけれど、それでもわたしは、このひと無しでは到底生きていかれない。当たり前のように隣に乱歩がいる世界に、馴染みすぎてしまった。そうしてお互いに、もう離れられないのだとわかっている。


「あ、十二時」

 そろそろかな、と壁にかけられた時計を見た途端、長針と短針が重なった。思わず声に出してしまったけれど、乱歩が起きる気配はない。数センチの空白を埋めて、髪に触れてみた。規則正しい寝息だけが、わたしの耳を満たす。何度か指をすべらせるうち、どうしようもなく彼のことが愛しくなってしまって、そっと頬を撫でる。

「さっきから何」

 目を開けた乱歩が、わたしの手を掴む。つめたいんだけど、というクレーム付きだ。彼はまっすぐわたしをみつめている。部屋の暗さのうつったひとみ。ペリドットの煌めきを染める艶のあるグレーは、何度夜を共にしても見慣れない。

「愛しくなっちゃって、なんか」
 なんか、の続きは考えていなかった。かわりに短いキスをする。
「乱歩、」
 気だるげにわたしを腕のなかへ収めた彼の、なに、という小さな返答が降ってくる。
「誕生日おめでとう」
「……ありがと」

 今度はわたしが髪を撫でられる番だった。皆にみせている姿とはまったく別人のような、優しくて甘い、恋びとらしい動作。この顔を彼に見られなくてよかった、と肩に額を押しつける。

「おやすみ」

 いつまでも話していたかったけれど、そうもいかない。今日も朝になれば、探偵社員としての日常が待っているのだ。わたしを撫でていた手はゆるやかに背中へと移動して、もう一度ぎゅっと引き寄せられた。

「うん、おやすみ」

 世界一の恋びとの誕生日。彼を祝う予定をひとつずつ数えながら、わたしはいつのまにか眠りについている。






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