彼に染まる指先




 コートのシワを伸ばして、ハンガーにかける。今日は急に冷え込んだから、お気に入りのスプリングコートを着ることが出来た。スプリングコートなんて名前誰が考えたのだろう、と、クローゼットへ戻しながら思う。いまは秋だけれど、秋専用のものをわざわざ買う気にはならない。だいたい春も秋もみじかすぎるのだ。どちらも好きな季節だけれど、ぼうっとしているうちにすぐ、次の季節に乗っ取られてしまう。

 シャツのボタンをひとつずつ外していって、スカートを下ろす。それから足の爪で伝線させてしまわないように丁寧にストッキングを脱ぐ。少し考えて、昨日まで着ていた部屋着も一緒に洗濯機へ入れた。今日も同じものを着るつもりだったけれど、予定に変更があったのだ。ひさしぶりに、恋びとが家に来る。

 シャワーを終え、新品の部屋着に袖を通す。このあいだ春野さんと出かけたとき、相談に乗ってもらって選んだものだ。デザインが可愛らしすぎるのではと悩んだけれど、着てみると彼女の見立て通りだった。なかなか似合っている、ような気がする。

 何度か腕のあたりをなぞってみる。手触りが良い。
 乱歩もよろこぶかしら。なにげなく浮かんだことだったけれど、恥ずかしくなって俯く。付き合いたてというわけでもないのに。
 髪を乾かしてみると鏡に映る自分が想像よりも幼く見え、少し迷ってから、薄く口紅を引いた。

「遅い」

 そんなに時間はかかっていないはずなのに、開口一番クレームを投げつけられる。一日会っていなかった恋びとに最初にかける言葉としては全然ふさわしくない。けれど、こんなことで怒っていては彼の恋びとは務まらないのだ。

「仕方ないじゃん。思ったより早かったんだもん」

 右手に気を配りながら、鍵を閉める。振り返れば、彼はすでにリビングのソファへ掛けていた。

「これ、塗ってたの」乱歩がマニキュアの小瓶を持ち上げて、ラベルの部分を読んでいる。色は彼の外套よりすこしだけ暗いチョコレートブラウンで、これもこの間出かけたときに買ったものだった。

「うん。でも右手しか塗ってなくて」

 形の整えられた、けれどまだ何の色も乗っていない左手の爪に視線を落とす。乱歩が来る前に両方塗り終え、披露する予定だったのに。ふう、と気の抜けたため息がでる。見せたところで褒めてくれるタイプではないし、どちらかといえば興味がない分野のことだろうとは思うのだけれど。それでもこんな中途半端な状態で会うよりはマシだった。

 隣に座って、背もたれに体重をかける。電気に手をかざせば、なかなか綺麗に塗れていた。我ながらいい出来だ。

「とりあえず手洗ってきてよ。お菓子食べるでしょ」

 短い相槌のあと、乱歩が立ち上がる。コトンとちいさな音を立てて、マニキュアがテーブルへ置かれた。

「左手、自分でやらないでね。僕が塗るから」

▽▽▽

「珍しいこともあるものね」あの乱歩が真剣に、わたしの左手の親指と向き合っている。ソファにも戻らず、フローリングの床の上で。自分がなにか重要な証拠品にでもなったような気持ちだった。「……楽しい?」

「うーん、まあまあかな」
「そう。それは良かった」

 わたしは、彼の「まあまあ」は「結構楽しい」と同義だと思っている。それもそうだ。彼は楽しくないことや面白くないことなんて絶対にしない。やるかやらないか、なのだから、人差し指も塗り始めている時点で多少は楽しんでいるのだ。

「……もう飽きた。あとは自分でやって」

 中指までひとつもはみ出ることなく塗り終えた彼は、小瓶をわたしの方へスライドさせた。これ以上やる気はないらしい。

「あと二本じゃん」

 乱歩はそれには答えず、冷蔵庫から持ってきたラムネを開けていた。器用にビー玉を落とし、テーブルには一滴も零さない。探偵社で飲む時は誰かに開けてもらっている──というか開いた状態で差し出されることが普通みたいになっている──けれど、実は自分でだって綺麗に開けられるのだ。皆に伝えたところで今後も飲むだけの状態にして渡してくれるのは目に見えているから、わざわざ言おうとも思わないけれど。
 残り二本となった爪にも色を付け、瓶のふたを締める。

「終わった。しばらく乾かすから、絶対触らないでね」
「そんなこと言われなくたってしない」

「わかってる。一応」自戒も込めてるの、と胸の前で手を組む。
 団扇であおいではやく乾かそうとしたり、床やテーブルへ手のひらをつけてみたり。今まで色んなことをやってきたけれど、結局手を組んで大人しく待つのがいちばんなのだ。

「……ねえ、僕暇なんだけど」

 とくに彼の興味を引けるような話題を持ち合わせていなかったので、とりあえずテレビを付けてみる。一瞬で、誰のものか分からない笑い声と大げさな効果音が部屋を占拠した。乱歩が音量をさげて、リモコンを床へ置く。

「暇」

 もう一度言われる。顔が近い。肩に体重が掛かっている。

「部屋着の手触りでも試し……はしないか」

 もたれていた頭を離して、乱歩はわたしの腕をひと撫でした。わたしと違って一回で満足したようだった。

「……ふうん」

 なんとも気のない返事である。そんなことでめげていては、やっぱり彼の恋びとは務まらないのだけど。

「春野さんと選んだの。可愛いでしょ」
「うん」

 テレビに最近事務員の皆が好きだと言っていた俳優が出ている。なにげなく眺めて、それから彼の「うん」が何に対しての返事だったのかを思い出した。

「え、今なにに頷いた」

 一瞬焦りかけて、別にわたしじゃなくて部屋着が可愛いってことか、と、自己解決する。

「……ねえ、こっち向いて」

 大人しく乱歩のほうを向く。手のひらをテーブルへつけて、爪が彼に触れないようにした。次にされることはわかっていたから。

▽▽▽

「ぜったい口紅取れた」

 鏡がないから確認するすべはないし、洗面所に置きっぱなしになっている口紅をわざわざ取りに行くのも気恥しい。

「家に居るのに必要ある?」
「あるよ」ふう、とため息をつく。「だいぶ印象変わるんだから」
「今さら印象変える意味なんてないだろ」

 乱歩があからさまに理解できない、という顔をする。呆れているような、または不審がるような、そんな表情だ。

「べつに、……ちょっと可愛くいたかっただけよ」
「ふうん」

 射抜くようなエメラルドがすっと細められた。目が合うタイミングで、視線を手の爪へ向ける。彼に見つめられると、わたしはいつも動揺してしまう。彼そのものをよく反映したひとみ。出会った頃から変わらないもの。しずけさと鋭さ、幼いずるさ。

「ナマエ」

 乱歩がわたしの名前を呼ぶ。外で、同僚のわたしを呼ぶのとは全然違う。声も言い方も、すべて。

「なに」

 かたくなに顔をあげずにいると、頬に彼の手が触れた。そのまま彼のほうを向かされて、視線がまじる。鈍い痛みに似たときめきが身体中を巡って、胸のあたりに集結する。ことばは何も出なかった。ひとみのなかのわたしまで鮮明にみえた。彼の手は、指先まで温かい。

「解いて」

 言われるがまま胸の前で組まれた手を解けば、またたく間に彼の両手と結ばれ、ぐっと床へ押し付けられる。視界が反転する。

「爪、床についたらよれちゃう」

 彼が手がけたのは三本だけだけれど、そんなの関係なしに、わたしはその事実がうれしかった。綺麗なまま乾かして、明日皆に見てもらいたい。

「つかないよ。それに、こうやって繋いでても変わんない」
「確かにそうだけれど。絶対ぶつけないでね」

「うん」乱歩はわたしだけを見ている。会ってすぐに甘いことばをくれなくたって、素直に褒めてくれなくたって、いい。このひとがわたしだけをじっと見て、楽しげに微笑む瞬間、手を繋ぐときの温度、これだけあれば永遠にだって、生きていける。

「ほんとにだよ」

 念押しするように言う。明日の朝塗り直すのはわたしなのだ。

「分かってる。僕はナマエより器用なんだから。何回も言わないでよ」
「せっかく乱歩に塗ってもらったんだもん。こんなことってもう無いかもしれないし」
「……別に、またやってあげないこともないけど」

  本当、と聞きたかったけれどそれは彼に飲み込まれてしまって、わたしは大人しく目を閉じる。遠くに聞こえる時計の音が、真夜中の始まりを告げている。







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