夏、あぜ道にて
僕がかならず迎えに来るとは限らないんだからさ。
畦道の真ん中で座り込むわたしに向かって、彼が投げやりに言う。だからさ、のあとになにが続くのか待っていたら、早く立つよう急かされた。スカートの裾を靴で踏みそうになったけれど、手は貸してくれない。ゆっくりと立ち上がって、こまかな砂利や土を払い落とす。空との距離が近くなる。遮るものは何も無く、延々とグレーが続いていた。太陽は出ていない。良かった、と思った。もし晴れだったら、いまわたしを囲んでいる緑はきっと眩しすぎる。
いつだって君はそうだ。今度こそ、なにか言われると思って待機する。けれど、彼はハア、と大げさにため息をついて、わたしを不満げに見つめるだけだった。いつもはちいさな子どもみたいに口数が多いくせに、ふたりのとき──とくに呆れられたり、怒らせたとき──はこうして大人の男みたくなるのだから、困ってしまう。何も言えなくて、俯いたまま謝ってみた。軽薄さのかたまりみたいなごめんなさいが、わたしの身体を伝って田んぼへ消えていく。
乱歩だってわたしが居ないと電車乗れないでしょう。独りごとみたいにつぶやいた。風が作物をさわさわと揺らすのを目で追いながら、彼のうしろを歩く。駅まではほとんど一本道だ。二人並んで歩ける幅は無い。こんなところで殺人事件なんて、世も末だ。
「ナマエが勝手にどこかへ行くのと、僕が電車の乗り方がわからないことは違うだろ」
普段なら隣どうし、すこしの隙間もないくらいの距離感で言い合うのに、今日はそうもいかない。彼の声が遠くてつまらなかった。
「そうかなあ。迷惑掛けてる度合いでいったら、乱歩のほうが上だと思うんだよね」
癪に触ったのか、間髪入れずにハア?と不興げな声が飛ぶ。一瞬だけ振り向いた乱歩と目が合った。わたしたちを囲むどの緑とも違う、ペリドットみたいな煌めき。
「だってわたしは乱歩にしか迷惑かけてないけど、」
「皆が僕を案内するのは、事件の解決のためだ。仕事だろ」
「じゃあなに」今度はわたしの機嫌が悪くなる番だった。「わたしを迎えに来ても何の得もないってこと」
返答の想像は容易だった。こういうときの彼の返事はだいたい、そうだけど、だ。語尾の少し上がった、素っ気ないもの。女のひとの機嫌を良くする方法だって、彼が本気で考えれば最適解が見つかるのかもしれないけれど、乱歩は絶対そんなことをしない。変に取り繕ったりしないのだ。彼の好きなところのひとつ。どこまでも清潔な感じがする。
「そうだけど」
「分かりきってること聞いちゃった。ごめん」
ヒールの低いパンプスで、石の混じった柔らかい地面を削る。ここでは足音さえのどかな感じだ。遠い山のなかにバスが走っている。このあとの帰り道のことを考えた。気まずいまま帰るのは嫌だな、と背中へ視線を送ってみる。
「……出ていく前に、僕に言えばいいだろ」
「ひとりで散歩したいときだってあるじゃない。それに、乱歩といると時々、……色々思ってつらくなる」
「さっきの続きだけど」彼が足を止めたので、わたしもそれに倣う。「この僕が隣に居るのに、不安になる必要なんてないじゃないか。ほんと、いつだってナマエはそうだ」
聞きなれない虫の声がする。横浜とはなにもかも違うまち。チョコレート色の帽子も揃いの外套も、この景色にまったく馴染んでいない。同じだ、と思う。いつまでたっても、わたしは彼の清らかさに馴染まない。
「だって乱歩は、ずっと正しいから」
「うん」
どんな話をしていても、彼の相槌は一定だ。適当で興味のなさそうな、けれどわたしにだけ向けられた親密さが滲み出るような、そんな二文字。
「わたしはそうやって居られない。挫けそうになる。泣きたくなる。そういうときにこうしてひとりで歩くの。そうしたら」
「もっと泣きたくなる、だろ」
「ふふ。でも乱歩、絶対その前に迎えに来てくれるもの」
彼がわたしを見つけたことに気がついたときのあの安堵。ひとりきりのときだって世界は充分色付いているのに、彼が入り込んでた瞬間からもっと鮮明になる。切り離されずにすんだ、と感じる。「さすが名探偵」
「ナマエのことなんて推理するまでもないね」
「たしかに」
畦道が終わる。駅についた。最初に人差し指が触れて、中指。一本ずつ絡まっていって、手のひらが合わさる。彼が迷わないように。わたしがどこかへ行かないように。
雲の切れ間から太陽のひかりが伸びていく。人の居ない待合所は来た時と同様にさびれていた。
僕がかならず迎えに来るとは限らないんだからさ。そう言ったときの彼を思い出す。名探偵でも皆の乱歩さんでもない、恋びとの顔。すっかり満ち足りた気持ちになって、電車に乗り込む。みずみずしい緑が流れていく。