秋の朝



 秋の匂いがする。朝起きて窓を開けたとき、昨日の夜までそこにあったなまぬるさがすっぽり抜け落ちているのに驚いた。今年の夏はいつもよりずっと暑かったから、勝手に残暑も長引くのだと思っていた。こうも突然気配を消されてしまっては、親しい友達が急に長い旅に出たような、そんな喪失感さえ覚えてしまう。

 カーテンを揺らす風はするどい。透明で、深く吸い込むと鼻の奥がしんとつめたくなる。少しの間あたらしい季節を堪能して、わたしの方に寄せられていた夏布団を勢いよくめくった。まだ寝ていた彼は寒かったのか、ぎゅっと身体を丸めている。アライグマ一匹ぶんの隙間が開いたドアからカールが顔を出して、こちらへ向かってくる。軽快にベッドへ飛び乗ると、飼い主の頭へぐりぐりと鼻を押し付けた。どうやらわたしに加勢してくれるみたいだった。

「ポオさん、起きて」
「うう、もう少し寝ていても、……」

 目もとを覆う長い前髪が、彼の手によって額より上にあげられる。まだ眠たいのか開ききらないひとみは、なんともいえない色香を放っていた。その光景に見入ってしまって、動けない。

「カールがすっかり君の味方に」
「ふふ、だって最近、家にいてばっかりだから」

 カールも出かけたいんじゃない、と彼を見つめたまま、言う。朝の彼があまりに素敵だから忘れかけていたけれど、わたしは確かに出かけたくて、彼を起こしたのだった。定番のデートスポット、とか話題のカフェとか、人の多い場所に行きたいわけではない。秋に染まりゆく街をポオさんとカールと、ゆったり歩きたいと思ったのだ。

「秋のはじまりに外に出ないなんて損だわ」

 まだ彼の枕元で不満げにしているカールを抱き上げて、やわやわと撫で付ける。首のところに鼻をつければ、この家の匂いがした。ふわふわの毛並みが心地よい。小動物特有のあたたかさに、だんだん眠気が襲ってくる。けれど、負けるわけにはいかない。

「なにか良いアイデアも浮かぶかも」

 最近悩んでたでしょう。さりげなく戻されかけていた布団を掴んで、引き寄せる。途中で手が触れたので、そのまま捕まえてみた。右手にポオさん、左手にカール。しあわせな朝だ。

「ポオさんが来ないなら、カールとふたりで行ってくるけれど」
 いいの、と絡んだ指先をぱたぱたやってみる。こんな聞き方しなくたって、返答はわかっていた。
「し、仕方ない。我輩も一緒に行くのである……」
「ありがとう」

 わたしの恋びとは今日も、世界一優しい。

▽▽▽

「誰もいない。そりゃあそうか」

 砂浜を進む、くぐもった靴音がする。打ち寄せる波と、後ろで鳴る車の音。空のみずいろと海の暗い青。ポオさんと繋がった指の熱。それだけの世界。

「出てきたくないよね。寒いもん」

 ポオさんがわたしの言葉をきいて、ちいさく笑う。寒いのはもちろんわかっていたけれど、おそらく人がいないこともわかっていた。だから来た。毎年寂しくなる夏の終わりに彼が居たら、きっと素敵なはじまりになると思ったから。

 波がぎりぎり届かないところに立って、沖のほうを眺めたり、地面に線を引いたりしてみる。つよい潮の匂いがする。白い泡がクリーム色の砂へ溶けて、後を残して消えていく。海風は朝感じたそれよりずっとつめたいけれど、首はカールによって守られているので、暖かい。贅沢なマフラーだ。

「なんか思いついたり、する?」
 ポオさんは数秒考える仕草をして、それから、
「どれも乱歩君に見破られてしまいそうである」
 とひとりごとのように言った。

 空想上の乱歩さんに犯人を当てられてしまうにしてもすぐに思いつくことそれ自体がすごいと思うし、わたしはこうして、ポオさんがミステリのことを考えているところを見るのが好きだった。

「そっかあ。……海、よく出てくるイメージだったんだけれど。ドラマとか」

 昔見た二時間ドラマだとか、今流行りの刑事ドラマだとか。そういうのをつぎつぎ頭にうかべたあとで、ふふ、と笑いがもれる。

「よく考えたら、ぜんぶ犯人捕まるシーンだった。わたしの想像上の人たちも、バレちゃってる」
「確かに。このあいだ君が見ていたのも、……」

 今度はわたしにつられて笑いだしたポオさんは、いつもより少し幼く見える。こんな顔が見られるのはきっと、恋びとのわたしだけだ。

「髪、べたべたになっちゃった。帰ったらあったかいお風呂入りたいなあ。カールも一緒に」

 視界のはしで揺れるしっぽに触れてみた。わたし専用の愛しいマフラーは上機嫌にひと鳴きして、丸まる。

「……そうであるな」

 目が合う。一瞬だけのみじかいキスのあとで、どちらからともなく歩き出す。秋めく街のなかで、木漏れ日がかがやいている。






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