夜が満ちたそのさきに



 
 真っ黒ななかに底のない煌めきがある。朝日を砕いてばら撒いたみたいな星々。どこまでも人工的で遠い、あたたかい光たち。この街の夜景を映した彼の瞳はきっと美しいのだろう、と思って視線をやって、諦める。知り合って数か月、長い前髪で覆われた目を見たのは片手で数える程度しかないのだった。
 かすかな柔らかさを含んだ風が、彼とわたしの間に通り抜ける。夏の残り香がする。数分前から途切れた会話のきっかけを探してみても、ひとつも思いつかなかった。沈黙が苦しいわけではないけれど、せっかく一緒にいるのだから、できるだけ多く話したい。わたしから彼の部屋を訪ねることはあっても、デートらしいデートをするのは今日で二回目だった。そもそもデートとして認識されているかも定かでないくらい、わたしたちの仲は進展しない。

「ポオさん」立ち止まって、下から表情を窺った。二人分の靴音が止む。
 何度見ても表情は読めない。彼とわたしの身長差はものすごく、見上げるわたしも見下ろす彼も、数分で首が痛くなってしまう。けれど最近は、辺りに漂う雰囲気だとか仕草だとかで彼の機嫌や考えてることなんかを少しずつ、当てられるようになってきた。
「最近、寒いですね。もう秋になるのかな」
 結局何を言えばいいのかわからなくなって、思っていたことをそのまま発言する。夏の夜のにおいが好き、とか、ポオさんと夜景の中を歩けるなんて嬉しい、とか、どうして今日誘ってくれたの、とか。言いたいことはたくさんあるはずなのに、今しか言えないはずなのに。

「確かに、そうであるな。ますます外に出るのが億劫に、……あ、上着を」

 彼はそう言って、慣れない手つきで外套を掛けてくれた。わたしの身長より少し短いマントは、気を抜くと地面についてしまいそうだ。履きなれないヒールで来てしまったことをずっと後悔していたけれど、案外これでよかったのかもしれない。靴擦れだってなんだって、明日のわたしが今日のことを思い出すための跡だと思えば、いとしく思える気がする。

「ありがとう」
 ポオさんと同じように肩にかけ、しゃんと背筋を伸ばしてみる。落とさないように、チェーンも引っ掛けた。
 軽く羽織っているだけなのに、着られている感がすさまじい。時間を確認しようと付けた携帯電話に映る自分は、あまりに子供っぽく、幼かった。これ以上可愛くなんてなれない、と自信を持って家を出たはずなのに、今やそんな気持ちは消えてしまった。

「ポオさんは、」終電のちらつく時刻、海の見える公園は静けさに支配されていた。わたしの声だけにはっきりとした輪郭がついていて、言葉に詰まる。胸の前で手のひらを握りしめて、鼻から息を吸う。「わたしと居るの、好きですか」
 まっすぐ彼を見つめる。わたしにしてはすごく積極的な発言だったけれど、こうでもしないとポオさんがわたしをどう思っているのかがわからないのだから、仕方がない。絶対に目が合わない状況というのは、時に人を大胆にさせる。

「急に聞かれても、困るのである……」
「わ、わたしだって困ってるもの」

 一歩踏み出して、彼の腕をそっと掴んだ。後退りしかけていた足がジャリ、と音を立てる。逃げず、逃がさず、ちゃんと聞く。ダメ元で乱歩さんにアドバイスを求めた結果、これだけが返ってきた。
「質問を受けているのは我輩なのに、どうして君が困るのであるか」
 波に(さら)われてしまいそうなほど、小さな声だった。ことばの終わりがけに、救急車のサイレンが走る。反射的に音のする方向へ振り向いて、すぐに彼のほうへと戻った。街並みの眩いひかりが、彼の影をいっそう濃くしていた。

「毎日のようにポオさんのところへ行ったり、こうしてデ、デートしたり、……楽しいですけど、もしそれがわたしだけなら、寂しいから」
 部屋へ入れないようにすることは簡単だろうし、一緒に居て楽しくないのにわざわざ出掛けるような人ではないことも理解しているけれど、不安があるのは事実。思わず、彼の腕を掴む手にも力が入ってしまった。意識しているのはわたしだけで、ポオさんはミステリの話をする相手としか考えてない、とかだったら、悲しすぎる。
「そんなこと! ……そんなことは、ないのである」

 分かりやすく慌てる姿はなんだか可愛らしく、彼が度々乱歩さんに揶揄われているのも納得してしまう。普段は誰かに対して困らせたいだとかちょっと意地悪してみたいだとか思うことは無いのだけれど、今は少しだけ、そういう気持ちを理解してしまった。

「わたしがデートって言ったことは、否定しないんですね」

 いつもは昼に彼の部屋へ行って本を読んだりお話したりするのが、今日は夕方に待ち合わせして個室でディナー。そして夜の街を散歩。これをデートとしてカウントしないなんてこと、あるのか。そう思いつつも、敢えて切り出してみる。腕を掴んでいた手を離しても彼は下がったりせず、ふたりの距離は変わらないままだった。

「それは、……」
「一緒にお出掛けするだけで充分嬉しいけれど、もし、友達としてじゃなく誘ってくれたなら、もっと嬉しい」
 彼の返答を待てず、先に言ってしまった。これでは、好きだと言っているも同然だ。気まずさに耐えられなくなって、俯く。
 
 彼に会うのは決まってわたしからだった。助手として着いて行った先で一目惚れしてからというもの、乱歩さんが彼に会いに行くときは必ずついていっているし、他にも、仕事帰りに訪ねたり、オフの日に遊びに行ったり。時間が許す限り通いつめている。そうして大半は彼の執筆作業を眺めて、たまにお茶を出して、たわいない話をする。

 とはいえ最初は乱歩さんのおまけ程度にしか思われておらず、友達でも知り合いでもない微妙な対応をされていた。ようやく仲良くなった(というか、ポオさんがわたしに慣れた)のが二ヶ月前のこと。ほぼ毎日会っているうちに色んなことを話してくれるようになって、わたしはますます彼に惹かれていった。組合(ギルド)に所属しているときは設計者長(マスター・アーキテクト)、なんてものすごい地位に就いていたはずなのに、全然偉そうにしない。とにかく優しい。分かりやすいスマートさがなくたって、細かな気遣いのひとつひとつが素敵だった。それに、ミステリのこと、乱歩さんのことを嬉々として話すポオさんを見ていると、この上なく幸せな気持ちになる。
 でも、彼がずっと日本に居る保証なんてない。しばらくは居てくれるのかもしれないけど、彼は別に探偵社員じゃないし、もともとこの国のひとでもないのだ。いつか帰るとき、わたしに伝えてくれるのかすらわからない。

「我輩は、君が、」

 彼の声に意識が引き戻される。勢いよく顔を上げたわたしに驚いて、彼の肩が跳ねた。強い風が吹いて、夜を溶かしたような瞳が(あらわ)になる。視線がかち合う。ときめきと緊張が綯い交ぜになったものが、身体の奥から込み上げた。電車の音も波の音も、パタリと消える。
「君のことが、……好き、なのである」
 どこか妖しさを纏った深いグレーが、わたしを映して揺らめいた。
「ほ、ほんとに? 気を使ったりとか、」言いかけて、失礼かもしれないな、と止める。「……片想いだと思ってたから、信じられなくて」
「それは我輩も、同じである」
「えっ! わたし、好きでもない人のところに毎日押しかけたりしませんよ」今まで一体どういうイメージを持たれていたんだ、と想像して居るうちに、
「て、てっきり、カールが目的なのかと」こちらを見つめたままの彼から返答が来る。
「確かにカールはかわいいけど! でも、わたしはその、ポオさんが好き、だから……」

 どうしよう。晴れて想いが通じて、存分に彼のことを見つめたいはずなのに、格好良すぎて直視できない。ついにわたしのほうから、目を逸らしてしまった。頼りない態度とギャップのありすぎる鋭い視線は、あまりに刺激が強い。わたしみたいな人のために、わざと前髪を伸ばしてくれているのかしら。いや、そんなわけないか。

 お互いに何かを言いかけて、やめて、謝って、を二回くらい繰り返して、再びの沈黙。こういうとき、どうするんだったっけ。長らく恋人のいなかったわたしに、大人の恋愛、の始まりなんて分からない。ポオさんに任せたい気持ちもあるけれど、たぶん彼だってわたしと似たようなものだと思う。少なくとも、乱歩さんと対決した六年前以降、彼が復讐(という名の作品執筆)以外のことにうつつを抜かしたなど、考えられない。

「そろそろ、帰りましょうか」

 海のほうを見つめたまま、努めて普段通りのトーンで告げる。意を決して振り返ろうとしたらいつのまにか彼が横へ移動していて、さらにはそっと手を握られた。口元が緩むのを抑えながら、彼の方へと身体を寄せる。どちらからともなく歩きだす。思い出したかのように、遠くで電車の音が聞こえた。

 ▽▽▽
 
「乱歩君に相談したら、思ってることをそのまま言えばいい、とだけ、言われたのである」
 ポオさんが不意に口を開く。控えめにわたしの手を握る彼は、ごく自然に車道側に立ってくれていた。ゆったりと流れていく横浜の景色は、今までのどんな絶景スポットより輝いて見える。
「なんだ、ポオさんも相談してたの」
 ふたりから相談されるなんて、煩わしかったに違いない。申し訳ないな、と思いつつ、ポオさんにもわたしにもきちんと答えてくれた乱歩さんへ感謝の思いが止まらなかった。明日は駄菓子屋さんに寄って、彼の好きなお菓子をたくさん差し入れしよう。
「き、君も乱歩君に?」
「うん、……なんだ、こうなるの全部、お見通しだったってわけね」
「流石は乱歩君である」
「そうだね」

 ふふ、と二人で笑いあって、夜色の世界を進む。
 見上げればすぐそこに、煌めきを湛えた瞳があった。






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