ベランダの花火



 大きな音がしたので、ポオさんを誘ってベランダにでる。片手に缶のお酒、もう片方でカールを抱く。最初はおそるおそる両手でかかえていたのだけれど、最近は随分慣れた。肩に乗ってくれることもある。

 ふかい紺色の空に、ちいさな円が浮かび上がる。まだ序盤の、高さもなくて小規模なもの。それでも、ここから見えるのは上半分くらい。ほとんどビルやアパートに隠れている。ちゃんと鑑賞できるのは、毎年中盤になってからだ。

 昼のそれよりほんの僅かに冷たくなった風がさわさわと前髪を撫でて、夏の匂いをはこんでくる。昼間にブラッシングしておいた毛並みが揺れ、カールも涼しげに目を細めていた。今の季節──夏のまんなかを少しだけ通り過ぎた、けれどまだ秋ではない──の今くらいの時間帯が、もっとも近くに夜を感じられる気がする。これより暑くても、寒くてもだめだ。もちろん雪が降っていてもだめ。

「ちょうどいい気温。ずっとこうして居られそう」
「そうであるな」

 カールを床へ下ろす。ここのマンションは柵が高いしそもそもカールは賢いから、あんまり心配はない。缶チューハイのプルタブを倒すと、カシャリと小気味よい音が響いた。ひとくち飲んで、隣で空を眺めるポオさんを窺ってみる。人ひとり分くらいの隙間があったので、踏み込んでつめた。腕が触れる。距離がゼロになる。「くっついても暑くなくて、快適」

 彼が照れたように笑う。じっと見つめていたら、ほどなくして視線がかち合った。思わず逸らしそうになるけれど、控えめにあがる口角も重たい前髪から覗く優しいひとみも、ぜんぶ逃したくない。結局状況に耐えきれなくなったポオさんが顔を逸らすまで、わたしはずっと彼のことを見ていた。ひさしぶりに会う恋びとを、できるだけ目に焼き付けておこうと思って。

 彼がまとう空気は、いつだって柔らかい。他の人と居る時も同じだけれど、ふたりきりのときはそれがもっと顕著になる。永遠に閉じ込めておいて、と願いたくなるような、しずかで澄んだ世界。そんな感じ。外へ出ないで、ずっとわたしの恋びとであってくれればいいのに。瞼をとじて、肩に頭を寄せる。まっくらな視界のなか、花火の音が耳に届く。

「……花火を見ようと言ったのは君である」
「音だけ楽しむって方法もあるもの」

 そう言いつつも、うっすらと目を開ける。一番盛り上がる箇所だったのか、先程よりもずっと大きい色とりどりの花火が夜空へ浮かんでいた。「……きれい」

 ポオさんのほうへ身体をもたれたまま、ぼんやりと遠くを眺める。ぎゅっと集まったひかりが開いて、きらめきながら消えていく。またあがる。線を描いて落ちていくのもある。

 ああいうのって、下で観ているひとたちに落ちたりしないのだろうか。まだ学生だったころ、大規模な花火大会を見に行って、その間じゅう恐ろしかったのを覚えている。連れてきてくれた友達とうつくしい光景をしらけさせるような気がして、到底口にはできなかったけれど。火薬の匂い。観客の喧しさ。なまぬるい風。言いようのない不安に手が汗ばみ、近く──そう見えるだけで、星も花火も本当は遠いものなのだということもわかっているけれど、やっぱり近い、と思う──で花火が上がる度、内心ドキドキしていた。家へ帰るとどっと疲れがおしよせてきて、もう二度と行かない、と決めた。

「花火って結局、うちで見るほうが好き」

 我輩も、と言いかけたポオさんのシャツを掴んで、引き寄せる。といってもわたしの力じゃ彼の体勢を変えることなんて出来ないから、こちらへ寄ってもらう、が正しいかもしれない。そのままゆっくりキスをする。わたしがしたのは触れるだけのものだったのに、返ってきたのはそうじゃなかった。くちびるの温度が溶けて混じりあうような、この世界でお互いの存在しか見えていないような、そういうキス。たまに花火のあかりで瞼のうらが明るくなって、けれどわたしたちのどちらも、もうベランダに出た目的なんて忘れていた。

 音が止んで、つられるように身体を離した。もう終わりなのかしら、と紺一色に戻った空をみつめる。一瞬の静寂のあとで、ラストに向けた派手でおおきなものばかりが打ち上げられていった。それが終わるまでのあいだ、わたしはずっと彼の腕のなかに居た。



「手を繋いで人混みを歩く、とか憧れないこともないけれど」

 そう言うと、ポオさんはなにか思い出すようにああ、と呟いた。わたしがこの間まで熱中していたドラマに同じようなシーンがあったのを、彼も覚えているのだろう。執筆しているとき以外、わたしの好きなものはだいたい一緒に見てくれる。

「確かにそんなシーンが、……しかし我輩、ああいう人混みは……」
「わかってる」人が多いのはわたしも苦手。言いながら、簡易テーブルへ放置していたお酒へ手を伸ばす。四分の一くらいをぐっと流しこんで、また置いた。あつくて甘くて溶けそうなほどしあわせなあの口付けの余韻が、まだ残っている。「……それに、キスもできないもの」

 言ってから照れてしまって、俯く。
「ナマエ」
 そっと指さきを絡めたら、ポオさんがしずかにわたしの名前を呼んだ。じんわりあつくなるようなときめきが、身体をかけめぐる。なにか考えがあってのことなのかは分からないけれど、普段はあまり名前を呼ばれない。だからこそ、たまにこうして呼ばれると動揺してしまって、なかなか彼の方を向けないのだった。何十年も共にしてきたはずの自分の名前は、彼が発した途端にとくべつな響きをもってあらわれる。まるで、ポオさんに呼ばれるためだけにあつらえられたことばみたいに。

 足に数回、柔らかいものが触れた。カールの手だった。どうやら、長い間構って貰えなかったことで気が立っているらしい。ごめんね、と謝って抱き上げる。

「なに?」ようやく顔を上げて、カールを彼の肩へ乗せる。そうして欲しいのがなんとなくわかった。ポオさんほど一緒に居るわけでは無いけれど、大体の要望は読み取れるようになってきている、と思う。背伸びしないと届かないから、かかとが浮いていた。サンダルがパタリと音を立てる。

「いや、何でもない、……のである」

 表情があんまりにも分かりやすくて、ふふ、と声が洩れた。わたしを見下ろすカールの可愛らしさも相まって、緩まった口もとは全然戻らない。

「ポオさんに名前呼ばれるの、好きなの」

 彼が不思議そうに相槌をうつ。突然の話題転換に戸惑っているみたいだった。

「だから、部屋戻ったらまた呼んで」それと、と続ける。「今できなかったキスも」

 返答を待たずに、窓を開けて部屋へはいった。クーラーのよく効いた空気がわたしを包んで、火照った顔がゆるやかに冷えていく。

 後ろの足音を聞きながら、大きく伸びをした。目を瞑って、このあとのことを想像してみる。もっと夜が深まって、あの素敵でとくべつな声が降ってきて、それから。






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