今日だけはとなりで



 

 星のない、けれど月の綺麗な夜。社の設立パーティーが無事に終わって、皆ぞろぞろと帰っていく。いまは福沢さんと、来賓の人たちを見送っているところだった。涼やかな風が、今日のために用意した薄いワンピースを揺らす。乱歩には出る間際に一応、一緒に行く?と聞いてみたのだけれど、「疲れたからいい」と断られてしまった。さらには「僕は行かない方がいいだろ」なんて。機嫌でも悪かったのだろうか、と考えかけて、最後まで気は抜けないとお見送りに集中する。
 最後の一人がタクシーに乗り込んで、夜の街へ消えていく。

「福沢さん」

 しんとした空気。わたしの声は思ったより幼くひびいて、薄く笑みがもれる。どんなに働いたって、どんなに頑張ったって、彼とわたしの差が埋まることは永遠にないのだ。

「なんだ」

 福沢さんの視線は今日もするどい。でも、わたしや乱歩に向けられるそれにはどこか子どもに対する配慮というか、やさしさというか、そういった気遣いが滲んでいる。この無意識の特別扱いはわたしを嬉しくさせて、けれど反面、ものすごく切なくもさせるのだった。

「なんでもないの。ただ、福沢さんって呼べるの今日で最後なんだなあって思ったら、呼んでおきたくなって」
「……そうか」銀色がふっと緩んで、ひとみのなかのわたしが見えなくなった。それをぼうっと眺めていたら、頭にふわりとした衝撃が来る。「もう子どもじゃないのに」

 数回ぽんぽんと撫でつけられ、そのまま離されそうになったので、両手で捕まえる。急に手を掴まれた福沢さんは驚いた様子でわたしを見ていた。普段ほとんど表情を変えない彼のびっくりした顔──といっても他のひとから見たらあんまり変わらないと思う──が珍しくて、なんだか嬉しくなる。こんな顔、きっと乱歩も見たことない。

「帰るまで手を繋ぎたい、……です」

 明日からはきっと、こんなこともできない。社員と社長になるのだから。乱歩は何も変わらない、と言っていたけれど、わたしはそんな風に考えられない。福沢さんも乱歩も、ずっと遠くへ行ってしまうような気がする。

「最後のわがまま、みたいな」

 この夜が終わったら、諦めようと思った。探偵社がはじまる日、何もかもが変わる日。わたしも、前に進まなくてはならない。
 するりと手がはなされて、今度はわたしが驚く番だった。やっぱり駄目だったのだろうか。最後のわがまま、とまで言ったのに。指先の熱が引いていく。両手を胸の前でむすんで、俯いた。目元がどんどんあつくなってくる。「ごめんなさ、……」

 視界が一瞬だけふわりと暗くなって、思わず福沢さんのほうを見上げる。気付けばわたしの肩には彼の外套が掛けられていた。落とさないようにそっと両端を手繰り寄せる。ゆっくり空気を吸い込めば、福沢さんの匂いがした。抱きしめられているみたいだ。
 ありがとう、となんとか絞り出して、歩き始める。さっきまでのかなしさは、もうどこかへいっていた。

「手を」

 彼はほんとうに言葉が少ない。だから最初はなんのことを言われているのかわからなくて、立ち止まるしか無かった。

「手を、繋ぎたいのではなかったのか」

 落ち着き払った声。大人の男のひと、という感じがする。そんなに大きくないのに、くっきりと輪郭を持って、わたしのもとまで届く。

「つ、繋いでくれるの」

 ああ。短い相槌のあと、わたしがおそるおそる差し出した手がやさしく掴まれて、福沢さんのほうへ引き寄せられる。恋びとがするみたいな指さきの絡むものではなくって、人差し指から小指までをぎゅっとつかまれる、色気もなにもないつなぎ方。いまはそれで良かった。

「なにも」すぐ先に見える探偵社の看板を眺めながら、福沢さんがいう。「考えすぎる必要は無い」
 乱歩はなんでもわかるけれど、それは福沢さんも同じだった。少なくとも、わたしに関しては。
「……ありがとう」

 皆のもとへ戻るまで、あとすこしだけ。永遠にこのままならいいのに、と福沢さんへ身体を寄せた。ふたりぶんの足音だけが耳を満たす。夜空には、月だけがぼんやり浮かんでいる。








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