揺らめく夜とシャボン玉



 
 酔っている。お店で飲んでいるときには全然そんな感じはしなかったのに、立ち上がった瞬間、きた。お酒っていつもそうだ。身体のなかの血の巡りが良くなる感覚がして、お話も上手に出来て、気分も良くなって、そうやって油断した途端、牙を向いてくる。

 ぐわりと視界が揺れて、まっすぐ歩こうにも歩けなかった。それでも、普段は来ないようなレストランで粗相をするわけにはいかず、なんとかお店の外まで頑張った。頬を撫でる風は昼間のそれよりずっと軽く、ほんの僅かだけれど冷気を纏っている。

「手を繋いでもいい?」

 恋人らしい触れ合いがしたいというよりは支えが欲しかった。そう口に出した訳では無いのに、優しい恋びとはわたしに寄り添って歩いてくれる。私たちの間には、一ミリのすきまもない。

 今日はものすごく暑かったから、いつも着ている黒くて厚いカーテンみたいなあの外套はカールと共に留守番をしている。シャツ越しの、普段よりは近いけれどやっぱりまだ遠い体温が腕から、伝わってくる。彼のわき腹と二の腕の間に通した右手を、そっと握り直す。手を繋ぎたい、と言ったのに静かに腕を差し出されてしまったとき、このひとはわたしのことならなんでも分かるのかもしれないな、と思った。もしそうなら、それ以上しあわせな事実なんてこの世にないのに、とも。

「君が酔うのは珍しい、のである」
「あんまり外食しないから、緊張しちゃって。楽しかったけれど」

 彼がちいさく笑った。そこで会話は途切れたけれど、楽しかったなら良かった、と思っているのが分かる。わたしたちの会話はいつもこうだ。言葉は少ないけれど、気持ちはどこまでも通じあっている。


 すこしだけ歩いて、駅の近くでタクシーを拾う。どれだけ酔っていても、こればかりはわたしの仕事。ポオさんに寄りかかったまま、繋がっていない方の手でおおきく手を振った。運転手に家の方向を告げて、車が発進する。
 色とりどりの看板やビルのするどいひかりが線になって流れていく。縁取られた夜は、直接見るより煌びやかだ。

 ラジオと、車の走る音。時折ウィンカーの規則的な音がして、身体が傾く。三センチほど開けられた窓から心地よい風が入ってくる。ふと彼を見れば、わたしと同じように窓の外を眺めていた。スモーキークォーツのひとみに街のかがやきが閉じ込められている。

 普段は長い前髪に隠されているから、こんな外ではっきり見られるのは珍しい。ふたりきりの時間──眠るときとか、目を合わせてからキスをするときとか──に見ることの出来るそれとは、また違う魅力があった。動けないでいると、そのまま視線がかち合う。胸のしたがきゅっと熱くなって、彼の腕を掴んでいた手がするりと抜け落ちた。シートの上で、指先が絡む。

「この先、どうされますか」

 運転手の声で、意識が現実に戻される。ハッとして、ポオさんから目線を逸らした。人前でこんな気分になるなんて、きっとまだ酔いが覚めていないだけなのだ。わたしだけではなく、彼も。

「そこのコンビニで止めてください」

 となりの彼が一瞬、戸惑ったのがわかった。それでも、そんなことが運転手に伝わるわけもなく、「かしこまりました」と事務的に返答が来る。

 煌々と光を放つコンビニのなかへ、吸い込まれるようにして入る。慣れていない彼がおそるおそる後をついてくるのが可愛らしくて、人目も気にせず手を取った。店内でも手を繋ぐカップルなんて迷惑以外の何物でもないと思っていたけれど、わたしたち以外にはスタッフしか居ない。こんなことをするのは多分最初で最後だから──もしまた同じようなシチュエーションに出くわしたとして、我慢できるかはわからないけれど──許して欲しい、と思う。

 水だけ買って帰るつもりだったのに、舞い上がっていたせいか懐かしいものも一緒に買って店を出る。花火と迷ったけれど、後始末を考えるとぜったいにこっちのほうが良い。

「ポオさんちの前でやったら怒られるかな」
 袋から出したシャボン玉セットの説明書きを読みながら、静けさに包まれた住宅街を進む。ここを抜けて二度曲がればすぐ、カールの待つ家がある。
 彼は少し考えるような仕草をしたあと、「騒がなければ大丈夫である」と自信なさげに言った。それからペットボトルの蓋を開けて、こちらへ渡してくれる。

「ありがとう」立ち止まって、ひと口飲む。そのまま持って歩こうと思ったのにさっと回収されてしまう。彼は本当に優しい。「そんなに優しくされたら、もっと好きになっちゃう」

 もうこんなに好きなのに。抗議しようとしたら目の前の影が濃くなって、そっとくちびるを塞がれた。「……なんだ、ポオさんも酔ってるんじゃない」

 人気のない道とはいえ、いつ誰が通るかなんてわからない。本来、こんなところでキスなんてするひとじゃないのだ。わたしは全然構わないのだけれど。

 またポオさんの腕に自分の腕を絡めて、ゆったりと歩き出す。ふたりぶんの足音だけが響く、しあわせな夏の夜。空には星ひとつなく、月も見えない。


▽▽▽


「ほらカール、見て」

 いったん家に戻って、彼の相棒を連れ出した。最初は帰らず家の前でする予定だったのに、わたしがカールにも見せたいとごねたからだ。ポオさんはきっと、わたしを甘やかす天才。こんなに優しくて素敵で可愛らしい恋びと、世界のどこを探したっていない。

 数個のシャボン玉が、街灯と近所の建物のあかりに照らされて浮かび上がる。楽しくなってどんどん作り出した。透明だった丸は虹色をまとって、向こう側の景色を写しながら風に吹かれていく。また吹く。夜のすくないひかりを凝縮して、弾ける。

「夜にするシャボン玉も綺麗」
「……そうであるな」

 ひときわ大きなシャボン玉が下へ降りて、カールの鼻先にとまった。もちろんそれはすぐに弾けてしまったのだけれど、その光景の奇跡みたいな愛らしさに頬が緩んだ。ふたりぶんの笑い声が風に乗って、夏の夜へ消えていく。






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