雨上がりの街で
朝露、雨──もしくはじょうろから注がれる水。過程はなんでもいいけれど、濡れた花びらって綺麗で好きだ。庭の花々がいちばん素敵に見える瞬間だと思う。紫陽花は色とりどりの宝石みたいに光るし、一斉にかがやくロベリアには、そこからしばらく動けなくなるくらいの魅力がある。
自分でも育てたいけれど、一軒家に住んでいるわけでも庭があるわけでもないから、今のところは諦めている。そのかわり、雨が上がったときには出来るだけ散歩に出ることにしていた。ところどころに出来た水たまりに、電線のはしる空が映っている。
雨の降ったあとコンクリートからあがる匂いを、ぺトリコールと呼ぶのだっけ。嗅ぎなれたこの匂いをそんなオシャレな言葉で形容できるとは、最近までぜんぜん知らなかった。同期の事務員に教えて貰って、その夜すぐに乱歩に言ってみたっけ。予想通り、興味の無さそうなトーンで「ふぅん」と返されて会話は終わったのだけれど。
おおきな建物の先に見知った姿があって、頬が緩まるのがわかった。無造作な黒髪、雨の日用の長いパーカー。今日は中に水色のシャツを合わせているみたい。傍らには野良猫が居て、足元にすり寄って甘えている。乱歩は猫に向かって、何か話しているようだった。普段福沢さんがしているみたいに。その光景が可愛らしくて、写真を撮っておこうかしら、とカバンへ手を伸ばす。けれどその瞬間、切れ長のグリーンがわたしをとらえる。
写真をあきらめて駆け寄れば、縞のはいった茶色の猫が小さく鳴いた。こんにちは、と挨拶してみる。通じるのかな、と不安に思っていると、満足げにわたしの足の間をすり抜ける。しっぽがゆらゆらと動いていた。
「社長と与謝野さんにお土産でも購って帰ろうかと思って」
「ええ、皆に購いなよ。えこひいきがすぎる。国木田くんとかさあ、いつも迷惑かけてるんだから。……ていうかわたしの分は」
「ないけど。今会ってるんだからお土産購う意味ないよね」
乱歩はそう言って、探偵社とは違う方向に進んでいく。少し悩んだけれど、結局ついていくことにした。出社までは時間があるし、数十分とはいえ雨の日デート気分を味わうのもいいかも、と、思ったから。
「たまたま会ったんじゃない。仮にも恋人なんだから、想定くらいしといてよ」妬いちゃうわ、と呟く。半分冗談で、半分本音だ。
「……相変わらず莫迦だなあ」
莫迦、それに相変わらず。他の女の子にはそんなこと言わないのに、といつもは考えないようなことまで心に浮かんで、眉間にシワがよる。不機嫌を隠さず、歩くスピードを早めた。たいして急ぐ様子もなくすんなり横に並ばれてしまって、さらに腹が立つ。身長差。足の長さ。スタイル。不機嫌が加速する。
「偶然会うわけないじゃないか」あからさまに、はあ、と大きなため息をつかれる。「どうせ散歩してると思って、場所を推理した。僕にとっては造作もないことだ」
会いに来てくれたってこと。足音に紛れるくらいのちいさな声で聞いてみる。答えなんて聞かなくてもわかるけれど。どうせ午後からは探偵社で会うのに、わざわざ来てくれたなんて。正直、偶然会うより何倍も嬉しい。
「はは、ナマエって単純だよねえ。さっきまで怒ってたのに」
そんなに顔に出ていたのか、と頬をおさえる。ほんのり火照っていて、顔ごと逸らした。花壇の紫陽花が煌めいている。
「いいじゃない。分かりやすくて可愛いでしょ」
半ばやけになって言うと、可愛げの欠片もない声が出た。見上げた先の空は青く、遠くまで晴れ渡っている。さっきまでの雨が嘘のようだ。
「うん」
予想外の返答に数回まばたきをして、次のことばを考える。自分で何言ってんの、だとかやっぱり莫迦、だとか、そういうのがくるとばかり思っていた。なのに、こんな素直に頷かれてしまうなんて。
「……え、いま、ちゃんと聞いてた?」
「うん。聞いてたけど」何、と翠のひとみがわたしを射抜く。
「可愛いとか、言われたことないし」
わたしと乱歩の間をぬるい風が吹き抜ける。湿気が気になりだして、前髪に手をやった。少しベタついて、巻きが取れている。分け目にそって左右によけながら、それとなく毛先もまとめてみた。雨の日の前髪は、きっと世界共通で女の子を悩ませている。好きなひとの前では、とくに。
「口に出さないから思ってない、ってことにはならないだろ」
「たしかに。わたしも、あっ今の乱歩恰好良い、って思っても、直接言うことってなかなかないわ」
実際今も思っているけれど、伝えることはないのだから、納得するしかなかった。脈絡が無さすぎるし、第一恥ずかしい。
「そうだろ」
「うん」今度はわたしが頷く番だった。というか、それしかできない。
「……仕方がないから、今日のお土産はナマエにも購ってあげることにするよ。箕浦君オススメの店なんだ」
話の方向転換が急すぎて、なかなか頭がついて行かなかった。乱歩と居るといつもこうだ。何の話、と口に出かけたのを飲み込んで、少し前の会話を思いだす。
「一緒に買いに行ったらお土産とは言えない気がするけれど」
一緒に居なくてもあなたのことを考えていましたよ、と証明するのがお土産なのだ。一緒に行くなら思い出の品──たぶん食べ物だから、思い出の味?に、なりかねない。けれど、もともとわたしを探してくれていたのだから、それを羨む必要なんてないのだった。乱歩はわたしのことを、十二分に考えてくれている。「でも、ありがと」
「別に。早く行こう」
猫が、花壇のわきへ消えていく。湿った足音と濡れた影。水たまりのなかで、繋がった手が揺れていた。