夏と雷が去る前に



 

 ドアをしめた途端、ばらばら、と何かが落ちるような音がした。家を出る直前にクロゼットに詰め込んだものが崩壊したのかしら、と内心焦って、けれどそんなこと、目の前の彼に言い出せるはずもない。結局、不安を抱えたままリビングへ案内して、ソファへ掛けてもらうことにした。原因はすぐにわかった。

 薄明るいグレーの空が、窓越しにどんより広がっている。今日は随分と風が強い。雨粒が斜めに降り注いでいるから、窓やベランダの床に叩きつけられるときにだけ、不規則な音を立てている。

「おうちデートにして良かった」

 言いながら、後ろで座る虫太郎さんを振り返る。外が暑かったのか、シャツの襟のボタンを外していた。服装はいつものスーツなのに、たったそれだけで、見慣れない感じがする。きっちりするのが好きな虫太郎さんがこうやってきっちりしていないところを見せてくれる時のしあわせって、どういえばいいのかわからない。嬉しさと愛しさが体の奥底から湧き上がって、抱きついてしまいたくなる。けれどそんなことをしたら引かれてしまうのは目に見えているから、今はまだ我慢。

「虫太郎さん?」

 数秒間しあわせを噛み締めたあと、それでも返答が来ないので呼んでみる。なにか別のことに気を取られているようで、長いこと一点を見つめたままだ。掃除のし忘れ、失言、服装とかメイクが好みじゃないとか?──色んな要因を考えてみるけれど、どれもきっと違う。

 そりゃあ、業者さんがするような掃除をできたかと言われれば出来ていないのかもしれないけれど、わたしなりには綺麗にしたつもりだし(少なくともここへ入居して一番の大掃除だった)、彼を不快にさせるようなことは言っていないはずだし(駅からこの家まではそんなに離れておらず、会話も多くなかった)、服装やメイクの出来は会った時の反応──気付かれないようにわたしをちらちら見て、それからちょっと満足気な顔をする。分かりやすすぎて、毎回見られているのに気付いてしまう──で大体わかる。今日は全身、彼好みになっているはず。

「ああ、すまない。……何の話だったか」
「もう。おうちデートにして良かったねって言ってたの」嫌なのかと思った。わざと拗ねた口調で言って、隣に腰を下ろす。大げさに溜息もついてみる。

 普段ならデートという単語だけで若干動揺するくせに今日はそれもないし、そもそも目の前のわたしが見えているかも微妙、といった反応だ。いよいよ不思議になってくる。これなら手くらい握っても、バレないのではないか。

「虫太郎さん、手繋いでも良い?」
「……え、ああ。構わない」

 本当に変だ。これもいつもなら、「そんなこと、わざわざ言わなくてもいいだろう」とか言いながらものすごく緊張した顔をするのに。とはいえ、許可は貰ったのだ。膝の上に置いていた手を虫太郎さんのほうへやって、そっと指先を絡ませる。

「なんでビックリするの。わたし、今ちゃんと許可取ったよね?」

 虫太郎さんがあまりに驚くものだから、鏡写しのようにわたしの肩も跳ねた。ふたりしかいない部屋で、しかもこの距離でビックリすることって、なかなかないと思うのだけれど。

「ていうか今日虫太郎さん、変」

 この期に及んで、「何が変なんだ」と反論される予感がしたので、離れかけた指先をぎゅっと結んでおいた。
「なにかあったの?」虫太郎さんのひとみをまっすぐ見つめて、畳み掛ける。

「なにも、……いや」

 観念したのか、考えるような仕草をしたあと、「実は」と切り出される。表情と声色が急に深刻さをまとって、まるで別れ話でもされるみたいだ。怖くなって、虫太郎さんから目線をそらす。

 そのときだった。近くで爆発でも起きたのではないかという轟音が響いて、それと同時に、視界がまっくらになったのは。

 なかなか状況が理解できなくて、やっと出た言葉は、
「虫太郎さん、雷、苦手?」という、単語をならべただけの幼い質問だけ。彼が突然わたしを腕に閉じ込めてそのまま動かない理由は、それくらいしか思いつかなかった。

「……夏も雷も、嫌いだ」
「そ、そう」
「君は怖くないのか?」
「怖いけれど、目の前にもっと怖がっている人が居たらなんだか平気になったりするでしょう」
「私はならないが」
「結構酔ったな〜って思ったとき、一緒に来ていた友だちが床でひっくりかえっていたら正気に戻るでしょ?」

 虫太郎さんの腕のなかはあたたかくて、時折わたしの背中を行き来する手が少しこそばゆい。ふふ、と笑いそうになるのを堪えて、彼のほうへ頭をもたげる。

「そんな経験はない」
「……ヨコミゾさんとは、お酒飲んだりした?」

 なんとか会話を持たせて、次の雷までの恐怖を紛らわせる作戦に出てみた。虫太郎さんの親友について知っているのは、名前くらいだけれど。ヨコミゾさんについてはなんとなく聞きづらくって、詳しいことは聞けていない。楽しかった思い出だとかわたしの知らない虫太郎さんの話だとか、彼から聞けたら嬉しいのだろうな、と想像することはあるけれど。こんな風に話の流れで聞き出すことしかできないのが、すこし寂しかった。

「たまに」
「じゃあ今度、わたしとも飲みに行きましょう」
「……ああ」
「ほんとに?」
「本当だ」

 虫太郎さんの腕からむりやり抜けて、代わりに彼の両腕をつかむ。ソファの上で向かい合うような形になる。彼のひとみのなかで、わたしと窓に反射した外のせかいが共存していた。すっと顔を近づけて、手は虫太郎さんの耳元へ。数センチになった時、彼の瞼が閉じられる。外が怖いから閉じたのか、これからのことを予感してなのかはわからない。

 静かに、触れるだけのながい口付けをする。夏も雷も、全部わたしとの思い出になればいいのに、と願いながら。






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