彼女の特権



 
 もうこれで終わり。彼に相応しいのは私ではなくて、きっと頭の切れる美しくて優しい人。いつでも寄り添って、支えられるような。喧嘩をしたからといって家出をしたりしないような。

 最初から無理だったのだ。これなら敵対していたままのほうがよかった。私に出会う前からずっと乱歩さんしか見ていなかった彼の世界に立ち入るなんて、我ながら無謀なことを考えたものだ。ふふ、と自嘲するような笑みが洩れた。膝の上で寝転がるカールが、そんな私を見てちいさく鳴いた。


▽▽▽

「ポオさん、ちゃんと寝ないと身体に障るよ」

 一緒に夜ご飯を食べたあと彼が机に向かってから、もう五時間近く経っている。風の音だけが窓をならしていた。遠くに見える建物のあかりだけがぼうっと浮かぶ、紺色の夜。星ひとつ見えない。

「もう少し、……」

 途中から聞き取れないくらい、小さくて投げやりな返事だった。投げやりというか上の空というか、心ここに在らず、というか。集中しているときはいつもこうだ。逆に、何も浮かばない時はたくさん話しかけてきてくれる。私は彼の書くお話が好きだから、それはもちろん筆が乗るに越したことはない、と思うのだけれど、恋人としてはやっぱり、構って貰えると嬉しくなってしまうのも事実だった。なにかと忙しくしている彼と過ごせる時間は限られている。

 できたら沢山お話したいし、少しでも長く、あの真夜中を切り取ったみたいな美しいひとみを見つめていたい。普段前髪に隠された彼の目をじっと眺めるたび、彼は私の恋人なのだ、と実感する。

「さっきももう少しって言った」
「しかし、……」

 彼の視線は字がびっちり詰まった原稿用紙にのみ、向けられていた。ひとみを見つめるどころか、表情も読めない。

「しかし、何?ちゃんと話してくれないと聞こえない」
「明日こそ、乱歩君に」
「約束してるわけじゃないんでしょう?非番かもしれないじゃない」

 そこまで言ったところで、非番ならここに来るかも、とも思う。どちらにせよ彼の脳内はあの名探偵でいっぱいで、今日が付き合って一年の記念日だということは忘れ去られているらしい。今日、といっても日付が変わったばかりだから、意識的には明日、なのかもしれないけれど。

「で、でも、もうすぐで完成なのである」
「じゃあ待ってるから」
「目の前で待たれると、その……」
「居ない方がいいってこと?」

 気がついた時には、もういい!と叫んで部屋を出ていた。
 こんなのいつものことなのに。あと少しで完成と言っていたのだから、大人しく席を外して待っていればいいだけの話だったのに。悪いのは、彼の執筆の邪魔をした私だ。それがたとえ、健康を心配してのことだったとしても。記念日だったとしても。

 いつもポオさんが寝ているところを空けて、ベッドに横たわる。白い壁。つめたい部屋。シーツも枕も布団も、なにひとつ私に馴染んでいないような気がしてくる。ポオさんが居ないとなにもかもが無機質で、寂しい。


 朝。目覚めると、隣に彼はいなかった。起きたらきっと横で寝ていて、それか、私の寝顔を見ている。知らないうちに腕枕をされていて、おはようといって頭を撫でてくれる。眠る前に期待したことは、何一つ起きない。

 カールが起こしに来てくれたから、てっきりリビングにいるものだと思っていた。ベッドで一緒に朝を迎えることは叶わなかったけれど、昨日はごめんなさいと謝って、仲直りをして、そうしてあたらしく一日を始められるのだ、と。けれど、実際はテーブルにメモが残されていただけで、彼はどこにもいなかった。乱歩くんのところへ行ってくるのである。書かれていたのはそれだけだった。彼は出ていった。乱歩さんのところへ。私を置いて。


 お昼をすぎて、空の澄んだ水色にオレンジが差すような時間になっても、彼は帰ってこない。朝メモをみて泣いて、さっきは風で扉が音を立てたのを勘違いして、ぬか喜びの後泣いた。やり切れない侘しさが体を占拠して、ご飯も食べる気が起きなかった。それでもじっと過ごしているうちにだんだん腹が立ってきて、彼のメモを裏返した。まっさらな紙に出ていきます、と大きく書く。これで迎えに来て貰えなかったら、私はもう二度とここには帰ってこられない。ぐっとくちびるを噛んでドアノブに手をかければ、後ろから可愛らしい足音がした。私よりもポオさん歴がずっと長い同居人──人じゃない、と思ったけれど同居アライグマ、は語呂が悪いのでとりあえずはそう呼ぶことにした──は、どうやら家出を共にしてくれるらしい。


▽▽▽

「このまま迎えに来て貰えなかったらどうしようね」

 うすい青もオレンジも、どんどん赤く染められていく。ぬるかった風も涼しくなって、肌寒いくらいだった。不安がる私に構うことなく、カールはお腹を撫でられて満足気な表情を浮かべている。たとえ私を迎えに来る気がないにしても、ポオさんは絶対にカールを連れ戻しに来るはずだ。悲しいけれど、そこには確信がもてる。大きなため息をついて、柵越しに広がる海を見る。夕日に照らされた水面がこまかい光を放って、ゆらゆら揺蕩っていた。ポオさんと見たらもっと綺麗に見えるはずなのに。頭に浮かんだことを打ち消そうと目を瞑ったら、涙がぼたぼたこぼれ落ちて、カールが膝から飛び降りた。

「ごめん、びっくりさせて。危ないから戻ってきて」

 そう言って呼びかけても、こちらを振り向く素振りもない。それどころかどんどん先へ進んでしまって、慌てて後を追う。

「待って!」

 走ってはいるものの、長く座っていたせいか上手く足が回らない。ようやく追いつく、というところで、階段に躓いた。衝撃に備えて顔の前に手を伸ばす。けれど、数秒待っても地面にぶつかる痛みは訪れず、代わりに嗅ぎなれた香りがいっぱいに広がった。腕の感じも、体温も、私を呼ぶ声も。考える前に、ポオさんだとわかった。ポオさん、と呼べば痛いくらいに抱き締められる。こんな触れられ方をしたのは初めてだった。

「心配かけてごめんなさい。カールも連れ出してしまって」

 ポオさんから離れて少しの沈黙の後、意を決して口を開く。さっき私のもとから元気に逃走したカールはすっかり落ち着いて、ポオさんの足元で寛いでいる。

「いや、わ、我輩の方こそ悪かった」
「昨日もごめんなさい」
「そ、それも、我輩が」

 申し訳なさそうなのと慌てているのがいっぺんに伝わる彼の様子がおかしくて、しばらく下を向いていた目線をぐっとあげる。風が吹いて、ポオさんの重たい前髪を揺らした。ひとみには、真っ赤な夕焼けと私が映っている。

「今日は、……付き合って一年の記念日、である」私がポオさんに見蕩れているうちに、目の前に封筒が差し出される。「だから、君にこれを」

 受け取って中身を見れば、分厚い原稿が入っていた。ぱらぱらと捲ってみる。いつもどおりの洗練されたうつくしい文章が目に飛び込んでくる。

「新作?……私のために」
「君は、我輩の作品が好きだと言っていたから」乱歩君にもアドバイスを貰いにいっていて。ポオさんが言い終わる前に、原稿ごと彼を抱きしめる。
「ありがとう。何よりも嬉しい。私、ポオさんもポオさんが書く作品も大好き、だから」

 背中へ回した手を解いて、もう一度彼を見つめた。すぐに目が合って、鋭い眼差しがふっと柔らかくなる。次の瞬間にはもう唇が触れていて、私はポオさんでいっぱいになる。みじかくて甘くて優しい、仲直りのキス。街ごと溶かすような夕焼けが、私たちをやさしく包んでいる。






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