恋の続きをふたりで




「好きって言ったら怒ります?」
 
 言い切る前に虫太郎さんが後ずさるのを見て、失敗した、と思う。こんなこと伝えるつもり無かったのに、たまにわたしを見つめるひとみがすごく優しいから、うっかり口を滑らせてしまった。
 ちょっと親しくなったくらいで告白してくる礼儀のなってない女。そんな風に思われていないことを祈りながら、「すみません」と小さな声で言う。忘れてください、とも。

「急にな、何を、」

 沈黙のあと、手の甲で口元を抑えながら──これは動揺した時の彼のくせだ──、虫太郎さんがわたしを見る。戸惑い、逡巡、疑問──いろんなものが綯い交ぜになった表情だった。言ってしまった瞬間は、汚いものを見るような目で見られるのではないか(というのは少々大げさだけれど)と思っていたから、これは少し意外。

「……怒ります?」数分前に取り消した問いをもう一度投げてみる。
「怒る、というよりは困惑、だな……」

 時間を置いたことで冷静になったのか、虫太郎さんはこちらへ戻ってくる。とはいっても、完全に普段の調子を取り戻したわけではないだろう。視線は泳いでいるし、腕を組んでいる指先はパタパタと忙しない。

「困惑、かあ」じゃあもう言わないです。なるべく暗くならないように続けて、適当に髪の毛を弄る。枝毛を探しているふりなんかして、けれど内心は、胸がザワザワして今すぐここから立ち去りたかった。勢いで好きなんて言って、思い切り振られなかっただけマシ。どれだけ言い聞かせても、気持ちはどんどん沈んでいく。

「なんで言っちゃったんだろう。キスの日だからかな」

 五月二三日はキスの日らしい。朝に知った、語呂合わせにもなってなければ誰が決めたのかも分からない、カップルのための口実。

「確か、初めてキスシーンが描かれた映画の公開日、だったか」
「ええ、虫太郎さん知ってるんですか。縁なさそうなのに」
 普段のわたしたちに戻れる気配を察知して、敢えて茶化すような口調で言ってみる。
「なっ! 失礼な」

 わたしから見れば彼は本当に魅力的なのだけれど、世の女性たちが揃って虜になるかと聞かれれば多分、そうではないと答える。彼のいいところはわたしだけがわかっていればいいのだ。すくなくとも、ヨコミゾさん以外にライバルは要らない。

「ふふ、冗談です。虫太郎さんみたいに素敵な人、きっと経験も豊富なんでしょうね」

 自分以外の女のひとと笑い合う虫太郎さんをちょっとだけ想像して、すぐにやめた。もしこの先そうなるのだとしても、今一緒にいるのはわたしなのだ。考えるだけ無駄、と打ち消して、口角を上げ直す。

「……君の方こそ」
 え、とかすかな声が洩れる。なにが君の方こそ、なんだろう。素敵、それとも経験豊富? どちらにせよ、どう受け取ればいいのかわからない。
「その、……慣れている感じがしたからだ」

 流れで告白まがいのことをしてしまったのは、本当に失敗だったのかもしれない。それにしてもわたしが男の人に慣れていると思うなんて、それこそ虫太郎さんが女の人に慣れていないことの証明みたいなものだ。

「慣れてないです」綺麗に整えられた前髪あたりを見る。毛先までしっかり梳かされていて、寸分の乱れもない。「さっきだって、勢いで言ってしまっただけで」
「本心では無いということか?」
 声色が不機嫌そうなものに変わって、けれどそれに怯むことはなかったし、機嫌を取ろうとする気持ちも湧いてこなかった。疑われたことが悲しくて、まつ毛が下を向く。「本心じゃないように見えましたか」

「と、突然言われたからな」 
「そうですか」やっぱり言わなきゃ良かったな、と呟けば、想像よりもずっと暗くて悲しげな声になった。自分の声を聞いたらまた悲しくなって、次の言葉が出てこない。

 彼の部屋に通えるようになって、色んな話もして、だからもう少し仲良くなりたいと思ったのだ。別に付き合いたいとかそういうことではない。気づけば好き、まで口にしてしまっていて、誤魔化すみたいに質問系に変えただけ。こんなことになるなんて思いもしなかった。
 
「変なこと言ってすみませんでした。今日は帰ります」
 普段は心地よい静寂が今はどんどん重くなって、頭や背中にのしかかってくる感じがした。早くここから立ち去って、泣き出してしまいたい。

 あ、とかあの、とかわたしの名前の最初の一文字とか、呼び掛けになり切れない音が背中へとんでくる。虫太郎さんだって、信頼しかけていた──そんなことは無いのかもしれないけれど、そう思いたかった──わたしに急に好きだと言われて、頭の中はパニックになっているにちがいない。振り返りたいけれど、涙なんか見せたらもっと混乱させてしまう。そうしてもう、会えなくなる気がする。


「……帰ります」

 ドアノブに手をかけたとき、扉にバン、と虫太郎さんの手が置かれる。驚いた拍子に目じりの水滴が頬へ落ちて、さらには鼻を啜る音が盛大に響いてしまった。あきらめて彼の居る方へ向き直せば、視線がばちりとかち合って、お互いに肩が跳ねる。今風で言う壁ドン、をされているはずなのに、する側の虫太郎さんも緊張しているのが分かるから、まったくもって雰囲気が出ていない。

「虫太郎さん、」

 多分、今、わたしたち史上いちばん距離が近い。こんな近くで彼を見つめることになるなんて、今朝のわたしは想像もしていなかった。
 頬に、虫太郎さんの手が触れた。指先は冷たくて、少しだけ震えている。

 決意、……あるいは覚悟を決めたような、虫太郎さんの顔が近付く。なにか言葉を、と思っても、すべて真剣なひとみに吸い込まれてしまって、結局黙ったままになる。けれど、わたしたちの間に言葉なんて要らなかった。友人の距離を越えて、数秒見つめあって、そうしてどちらからともなく唇を合わせた。過程はロマンスに満ちていて、どこまでも情熱にうかされていたのに、わたしたちがしたのは中学生みたいな、触れるだけのたどたどしいキス。それで良かった。わたしたちらしいと思った。

「キスの日、なんてカップルだけが楽しい馬鹿げたイベントだと思ってましたけど」一拍置いて、でも、と続ける。「こんなに幸せなら毎日でもいいかも」
「毎日……!」我に返ったのか、虫太郎さんがわたしから離れていこうとしたので、あわてて腕を掴む。キスまでしておいて、今まで通りになんか戻れない。

「き、君は、……本当に私のことが」
 まだ戸惑いの色の消えない表情がどうしようもなく愛しくて、ふっと笑みが洩れた。
「好きです。さっきから言ってるじゃない」
 わたしばかり恥ずかしい思いをしている気がする。これでは不公平だ。「虫太郎さんは?」
「…………好きだ」

「ほんとう?」疑っている訳では無いけれど、若干、言わせたみたくなっているのは否めない。
 返答のない数秒間に耐えきれなくて、彼のほうへ顔を向ける。
 あ、と、気がついた時には、勢いよくくちびるを塞がれていた。目を瞑るひまもなかった。さっきまで緊張しっぱなしだった人とは思えないほど、自然でなだらかな、色気のあるキス。わたしが不安に思っている間、待ち構えられていたなんて。「……ずるい」

「何がだ」
「急に恋人みたくなっちゃうんだもの」

 ふん、と得意げに口角をあげたあと、「私だってこれくらいできる」と目線をそらされる。よく見ればまだ手が震えているし、まばたきも普段よりずっと多い。なんて可愛い人なんだろう、と気持ちが抑えきれなくて、おもいきり抱きついた。

「わたしを虫太郎さんの彼女にしてくれる?」
 ややあって、背中に腕が回される。一度ぎゅっと力が入って、そのあとすぐに「ああ」とみじかい返事がきた。
 まだ言葉が続きそうな気配を察知してそのままでいると、
「それでその、さっきは、……悪かったと、思っている」

 くっついていないと聞こえないような小さな声が、耳のすぐ近くでひびく。敢えて、はい、ではなくうん、と相槌を打った。それから、勇気をだして言ってみる。
「もう一回キスしてくれたら許してもいい、です」

 調子に乗るな、とか、やっぱり慣れてるんじゃないか、とか。そういう返答を想像していたのに、どれも実現することはなくって、虫太郎さんはゆっくりとわたしの背から手を離す。
 部屋のすみ、天井から窓の枠にまで、泣きたくなるほど甘やかな気配が行き渡っている。信じられない気持ちだった。ずっと、わたしだけがこのひとを好きだと思っていた。わたしだけが恋をしていると思っていた。

 わたしの好きな人は、恋人は、わたしへ近付く動作さえうつくしい。今度は目をつぶる余裕があった。瞼のうらに虫太郎さんがのこる。この人はこんな顔もできるのだな、と得意な気持ちになった。きっとヨコミゾさんも虫太郎さん自身も、見たことの無い顔をしていたから。
 
「……何を笑っている」

 このひとの困った顔は癖になる。彼を知らない人からみたら不快そうにしか見えないのだけれど──眉を寄せて口をとがらせている彼は髪型や服装も相まってすごく神経質そうにみえる──慣れてくると、そうでないのがわかる。もちろん笑っていてほしいとも思うけれど、同じくらい困らせてやりたい、という衝動に駆られるくらいは、魅力的。

「虫太郎さんがあんまり素敵な顔してたから」

 今度は驚いた顔。目が縦に大きくなって、やっぱり手の甲で口元を抑えていた。すこし間を置いて、そうか、と返ってくる。ずっと気がかりだったことがようやく腑に落ちた、みたいな、不思議な響きがした。

「ずっとわたしだけならいいのに」
「……な、何がだ」

 不自然な沈黙の後、虫太郎さんがわたしを見る。なにか警戒されているよう気がしないでもない。主語がないまま話してしまうのはわたしのくせだった。「虫太郎さんの素敵なところ、見られるの」

 一瞬訝しげな表情になって、けれどそのあとすぐ、ふっと険しさがなくなる。わたしが帰らないことを察したのか、二人で座っていたソファへと歩きだした。後に続いて、しずかに隣へ腰掛ける。

「それは、君だけなんじゃないのか」

 何も分かってない、と今度はわたしが虫太郎さんを見つめる番だった。
「ライバルはいっぱい居るわ」乱歩さんとか、ポオさんとか、あとヨコミゾさんだって。次々思い浮かべては、指をおって数えていく。昔の虫太郎さんなんて、わたしはどう頑張っても会えないのに。なんて強力なライバルなんだ、と、会ったことも無い彼の友人に闘志を燃やしていたら、不意に虫太郎さんが笑いだした。

「ちょっと、何笑ってるんですか」わたしは真剣なんですよ。わざと不満げな声を出して、拗ねた顔をつくる。
「君があんまり可笑しなことを言うからだ」

 さっきとはまるで立場が逆だった。結局わたしも、つられて笑いだしてしまった。けれど、可笑しなこと、とは何なのだろう。無謀にもヨコミゾさんに勝とうだなんて言い出したこと? それとも──。

 目が合った、と思ったら急に肩を抱き寄せられて、視界が真っ暗になる。こういうことを想定して来たわけではないけど、化粧を薄めにしておいてよかった。スーツやシャツに付かなくて済む。

「……わたし、虫太郎さんのこと幸せにしたい、なあ」

 友人の死。巻き込まれた事件。辛い記憶。断片的に、それも人伝いで経緯を聞いただけのわたしが、全部を理解するなんて到底無理な話だけれど。でもたとえすべてを知らなくたって、寄り添うことは出来る、と思う。

「私が君を幸せにするのではなく、」
「もちろん、してもらいたい」けれど、と続ける。「それよりずっと、虫太郎さんには幸せに生きて欲しくて、……できたら、わたしもその隣にいたい」

 まだ慣れない動きで背中を行き来する手が愛おしい。動揺していて、けれどきちんと考えて、言葉を選んでいるのが全身から伝わる。また、愛おしい、と思う。わたしと向き合ってくれている。

「……ずっとわたしだけならいい、のではなかったか」

 数秒間の沈黙。ちょっと考えて、いましがたわたしが言ったことばの不確定さに文句を言われているらしいと気がつく。できたら≠フ部分がお気に召さなかったらしい。確かにそうだ。さっきまで自信に溢れていたのに、我ながら格好悪いセリフが出てしまった。撤回させて、と呟く。

「誰よりも長く、隣に居るわ」

 真っ直ぐ虫太郎さんのひとみを見つめて、言う。それから、清らかで、しあわせで、永遠みたいなキスをひとつ。窓に星の輝く、静かで優しい夜だった。







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