解けない補色



 木漏れ日。この言葉を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、青々とした葉の隙間からスポットライトみたいに降りそそぐ太陽の光と、それに照らされる真緑の芝生。風がさわやかな春、もしくは夏。けれど、色付いた紅葉から季節をすぎた落ち葉の絨毯へ、零れるみたいにして差し込む木漏れ日も悪くないんだなと最近、気が付いた。この間まではセミが鳴いていて、何処も彼処もみずみずしさを放っていたはずなのに、わたしはいつ、夏に置いていかれてしまったんだろう。

 秋は隠れているだけで、実は夏と同時にやって来ているのだといった小説があったけれど、正しくそうだと思う。確かに秋は、夏に隠れてやってくる。
 わたしは普段あまり街へ出ない。卒業してから半分くらいは海で過ごして、もう半分は陸にある家で家事をしたり仕事をしたり、といった感じだ。それでも、外で働きたいだとか、もっと遊びに行きたいだとか、……そういうのはあまり思わない。よく行くお店のおばさんに、「若いうちは遊んでおくものよ」なんて言われた時も、曖昧に頷きはしたものの、全面同意、とはいかなかった。
 わたしは海の底で、家で、彼を待つ時間がいちばん好きだ。

「今日の夜は、夏の布団じゃ寒いかなあ」
 戸を開けて、ベランダへ出る。最近はずいぶん独り言が増えた。よっこいしょ、とか、暑いなあ、とかなんてことない掛け声のようなものから、会話のようなものまで、気が付いたら口にしている。
 眼下に広がる街はやはり秋めいていて、風も冷たい。赤や黄色といった季節を主張する色に染められた木々にオレンジが差し込む様は、「秋に寒色なんて存在しない」と主張しているようで圧巻だった。寒色が存在しないなんて、実際そんなことは、ないのだけれど。

 何もかも違うと思っていたこの世界にも確かに四季があって、海にいるとき以外はいまだに異世界に居ることを忘れてしまうほどだ。今となっては、どちらが異世界だったのかわからないとさえ思う。帰らないと決めたのはいつだったのか、覚えていない。方法が見つかったと知らされてもひとつも動揺せず、どこか遊びへ行くのを断るような気軽さで辞退したのが懐かしい。学園長にも、同じ世界から来ていた監督生にも大層驚かれた。
 多分、アズールと付き合った時には心のどこかで決めていたのだと思う。帰らないでください、なんて一言も言われていなければ、ここに残るから一生面倒見てください、とも言っていないけれど、それでもわたしたちは、いくつもの季節を越えて、一緒にいる。

 あんなに必死に勉強した魔法だって、学園の外に出てしまえば法律で厳しく取り締まられていて、使う機会はほとんどなかった。魔法を自由に使えるようになる資格も、取ろうと思えば取れたけれども、そういう難しいことは彼に任せると決めていた。二人のうち一人魔法が使えるなら、それでいい。もっとも、わたしが魔法を使いたい時なんて、洗濯物を早く乾かしたい、だとか、高いところにあるものを取りたい、だとかそういう簡単なことに限られていたから、資格なんていらないのだけれど。
 柵に肘をついてぼんやり景色を眺めていると、この間の散歩のことが蘇ってきた。週末の午後二人で歩いた、家からは少し遠い公園。

        ☆☆☆

「こういうの、向こうの言葉だと紅葉狩りって、いうんだよね」
「紅葉狩り?」紅葉、の部分は言い慣れないのか、少したどたどしい。
「そう。狩りをするわけじゃないのに、不思議。収穫するならまだしも、見るだけなのに」

 言葉に関しては、わからないことばかりだ。わたしは日本語を話しているつもりだし、彼だってわたしと同じ言語を話しているつもりなのだろうけれど、本当にそうなのかはわからない。
 いつだか、突然お互いの話していることが分からなくなったら困るね、という話題になってわたしたちは遠い国の言語を一から勉強した。英語ともフランス語ともつかない、不思議な言語。危機感から習得した言葉も、覚えるうちにだんだん楽しくなって、学生時代は二人だけの暗号として手紙を書いたり、話したりもした。いまのところは何の異常も起きていないからこうして普通に話しているけれど、そういえば彼は、日本人ではないのだった。

「確かに、不思議ですね。調べることもできないから、もどかしい」
「こういう言葉を思い出すたびに、違う世界なんだって、思う」
「……そうですか」

 風で帽子が飛びそうになるのを片手で押さえながら、彼がわたしのほうを見る。寮服を好んで着ているときからそうなのではないかと思っていたけれど、彼はこういうかっちりとした服装が好きらしい。この日の帽子は特に学生時代被っていたものに似ていて、なんだか懐かしさすら感じた。あの時もいまも彼は洗練された美しさを放っていて、絵画みたいだとわたしは思う。

「…戻りたいとかは、全然思わないよ。綺麗な言葉がたくさんある国だったから、知ってほしいとは、思うけれど」
 どこまでが伝わってどこまでが伝わらないのかは、卒業から三年経ったいまでも掴めないでいる。
「たとえば、……木漏れ日、とか」葉の間から差し込む光のこと、と説明する代わりに、遠くに見える大きな木へ視線を移した。「ほかの言語では訳せない言葉。きれいだよね」
 わたしにつられて、彼も同じ方向を見る。彼の表情がふ、と柔らかくなったのが分かって、何とも言えないしあわせが胸にこみあげてきた。意味もなく、繋がれた手を揺らす。

「また、来ましょう」
「うん」

☆☆☆

 あの日はよく晴れていて、散歩日和だった。つい最近のことなのに、ここ数日彼と話していないからか遠い昔のように感じられる。彼は家を開けているわけではなかったけれど、重要な仕事があるらしく部屋に篭もりきりだった。

 秋はなんだか、寂しい。読書の秋、食欲の秋……沢山の言葉があるけれど、わたしは毎年、どれにも当てはまらない。いうなれば、寂しさの秋、だ。なにか悲しいことがあったわけでも、特別な感情があるわけでも無いのだけれど、この時期になると何かを忘れているような気持ちがどこからか湧いてきて、それが喉元までせり上がってくる感じがする。そうして、ふと、誰かを置いてきたような気持ちになる。記憶の中の友人達は年々ぼやけていって、この世界で出来た友達も、どんどん疎遠になっていく。
 彼が居ればそれでいいと自分で決めたはずなのに、毎年こうやって勝手に落ち込んで、寂しくなって、泣きたくなるのだ。こんな気持ちになるのは決まってひとりの時。彼と居ないわたしはこの世界に迷い込んだ何も出来ない女で、空っぽで、無力。

「今日は、少し寒いですね」
 後ろから声がして振り返ると、上着を手に持った彼がいた。ベランダへ出て、わたしにかけてくれる。
「アズール。仕事、終わったの」
「ええ。何か見てたんですか?」
「何も。この間のこと、思い出してた」
「紅葉狩り……、と、木漏れ日」小さく呟かれたそれは最早ぎこちなさなんて少しも含んでいなくて、元からこの世界にある言葉みたいに聞こえる。「綺麗でしたね」
「うん。また行きたいな」

 自分のよりも大きな上着に腕を通すと、彼の匂いが広がって、なんだか抱きしめられているみたいだな、と思った。無意識に、袖の所へ顔を近付けている。

「アズールの匂いがする。落ち着く」
「…そうですか」

 すぐ隣でわたしと同じように外を眺める彼の横顔は普段と変わらないけれど、心做しか頬が赤いような気がする。今更彼がこんなことで照れるなんて思えないから、気の所為だと思うけれど。

「……寂しかった」
 小さく呟かれたそれが自分の声であると気がつくまでに、数秒かかった。彼が少し驚いたような顔で、こちらを見ている。わたしだって同じような表情をしているはずだ。
「なんでもないの」慌てて続ける。「独り言だよ」
「随分可愛らしい独り言ですね」
 間髪入れずに返されて、わたしは動揺した。彼は対照的に、いつもの余裕ある笑みを浮かべている。

「そんなこと」ない、と言い切る前に、彼の手が肩に触れた。そっと彼のほうを窺うと、そのまま抱きしめられる。「寂しい思いをさせて、すみません」

 遠慮がちに背中をなぞる手が優しくて、だんだんと目元が熱くなるのがわかる。先程までわたしを支配していた寂しさが、融け落ちて消えていく。
「もう大丈夫」きっと彼は、仕事が忙しかったことに対して謝ってくれたのだろう。それでも、言いたかった。「アズールがいれば、それで大丈夫」

 シャツに顔を埋めるようにしてわたしからも抱きしめ返すと、彼がふふ、と笑うのが聞こえる。
 どうしたの、と聞いてみたけれど、何も返ってこない。背中に置かれていた手が肩に移動したと思ったら、そのまま引き剥がされるみたいな格好で、わたしと彼の間に数センチの距離が空いた。

「どうしたの」もう一度問い掛ける。
 やっぱり返答はなくて、代わりに短いキスをされた。頬に添えられた手がひんやりと冷たい。
「ここ、外から結構見えるよ」
 彼は人前でこういうことをするのが好きではないから、意外だった。ベランダといえど、外は外である。たとえ通行人の姿が見えなかったとしても、誰もいない海の底とは訳が違うのだ。

「いいじゃないですか」
 珍しく困憊の色を滲ませる彼の表情を見て、この「いいじゃないですか」の後には、「たまには」という言葉が続くのだとわかった。きっと仕事終わりで疲れていて、それから、季節のせいかはわからないけれど、寂しかったのではないかと思う。

「アズールがいいなら、いいかな」
 今度はわたしから、唇を重ねる。
 目を閉じる前、彼の瞳も髪も服もすべてが夕焼けの中にはっきりとあるのを確認する。わたしはこの光景を二度と忘れないだろうな、と思った。世界が暖かな色たちに溶け切っても、きっと彼だけは冷たくて、それから、わたしを置いて行かない。






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