落る日



※同級生設定
付き合ってます

 コスモスを秋の桜と記したのは、確か有名な歌手の曲が最初だったはずだ。きっとこの世界では誰も知らない曲、ひと。風に揺られる秋桜はどう見ても記憶のなかにあるものと同じなのに、名称もそれに纏わるエピソードも違う。普段なら気に留めない中庭の花がなぜだか今日は気になってしまって、かれこれ五分くらいは、ぼうっと眺めている。

 こうしてひとり、放課後を過ごすことは珍しい。いつもはだいたい、アズールと一緒にいるからだ。働いたり、勉強したり、散歩に出かけたり。けれど今日はモストロ・ラウンジの経営について三人で───彼の幼馴染であるジェイド・フロイドと相談したいからと締め出されてしまい、今に至る。一応スタッフなのだし聞くくらい良いじゃないか、と一瞬思ったりもしたけれど、彼らが三人で話したい、というときはたいてい契約の債務不履行者が出たタイミングだということに最近気が付いていたから、黙って寮を出た。なんとなく、部屋に戻る気にはなれなかった。

 過ごした年数。思い出。知っていること。共有した秘密。それらの全部がわたしには足りなくて、だから彼はなにも言わないのだと思う。過去のことも、ユニーク魔法のことも、オーバーブロットのことも。彼を彼たらしめる一番重要な部分、近いところに触れさせてもらえない。

 そういえば秋桜は母親と娘の歌だったな、と、いまはもう朧気な歌詞を記憶のなかから手繰り寄せる。父が好きだったあの曲は、車で出かける時必ずと言っていいほど流れていた。嫁ぐ前日の、母と娘の歌。……わたしが嫁ぐとき。その前日は、きっとひとり。家族も帰る家もないのだから、どう考えてもあの歌のとおりになんてならない。そもそも結婚だって、できるかわからないのに。

 長いため息をはいて、ゆっくりと立ち上がる。足に疲労が溜まっていたようで、少しよろけた。しゃがんだだけでこんなふうになってしまうなんて、魔法が使えるようになってもやっぱり、わたしは普通の人間なのだと思い知る。運動不足を叱るバルガス先生の声が脳内で再生された。ごめんなさい、ひとりごちて、中庭を出る。

 ふと思い立って、表口とは違う扉から出てみることにした。階段をいくつも降りた先、少し歩くとたどり着くメインストリートは鏡舎へ行くのに一番近い道となっていて、人通りも多い。けれど、一年半も同じ道ばかり通っていては流石に飽きる。通学路に対して飽きるとかそういう感情は似合わないような気もしたけど、飽きたものは飽きたのだ。散歩好きのわたしとしては、知らない道を行かずにはいられない。今日は幸いにも(こんな言い方をしたら彼に失礼かもしれないけれど)、行ったことのない場所にひとりで行くのはやめなさい、と注意してくる彼も居ないのだし、なにも街へ出る訳では無いのだ。地図を思い出す限りでは、まっすぐ道なりに行けば遠回りだけれども鏡舎につくはず───。


 と、期待をもってオンボロ寮の前を横切ったところまではよかった。どこからどう間違えたのか、はたして間違えているのかも判断ができないくらい、見覚えのない風景が広がっている。高い木に囲まれた足場の悪い道を抜けて、目の前に見えるのは使われている形跡のない倉庫。切り立った岩はわたしの身長よりもはるかに大きく、遠くを見渡すことすらできない。ここまできたらそろそろ、植物園が見えてくるはずだったのだけれど。

 来た道を引き返す勇気はない。薄暗い森の中は不気味で、この世界に来てからゴーストやモンスターへの耐性は多少ついたとはいえど、恐ろしいものは恐ろしかった。木々の葉の隙間から見える空は頼りなく、太陽だって沈みかけている。人気のないここは相変わらず心細く感じられても、夕焼けが広がっているだけまだマシに感じられた。

「とりあえず、座るか……」

 誰に言うでもなく、口からひとりごとが漏れる。その場に座ってスマートフォンを見れば、彼からの着信が何件も入っていた。普段ならすぐに連絡のつくわたしがなかなか電話に出ないことで、心配したのだろう。見たら連絡ください、とメッセージも来ていた。
 ごめんなさい、ひとりで散歩していたら迷ってしまったの。寒さで悴む手を擦り合わせながら、なんとか送信する。はやく既読がつかないだろうか、返信が来ないだろうか。祈るような気持ちでスマホを握りしめて、本日二度目の長いため息を吐いた。意識する前に呼んでしまったアズール、という声はすぐに固い地面へと吸い込まれて、渇いた風がわたしの前を勢いよく通り抜ける。
 まだコートを羽織る季節ではないかな、なんてブレザーで登校した朝の自分が怨めしい。せめてマフラーくらいは巻いてくればよかった。

 返信を待つのを諦めて、歩き出すことにした。森の前で曲がった以外は真っ直ぐに来ているのだから、方角は合っているはずなのだ。そう信じて、一歩一歩踏みしめる。本当は泣き出したいくらい寂しかったけれど、喉元も鼻の奥もとっくに痛みを訴えているけれど、生地が伸びてしまうんじゃないかってくらいスラックスを握りしめて、耐える。勝手に拗ねて、勝手に気分転換しようとして迷子になって、そんなわたしに泣く資格なんてない。完全なる自業自得。彼に頼ることだって、本当はしたくなかった。心配をかけて、さらには迎えに来てもらおうなんて、面倒臭い彼女だと思われるに決まってる。

 夕焼けにだんだんと青紫が混ざって、木や建物は影へと変わっていく。心が折れかけた矢先に魔法薬学室が見えて、わたしは思わず駆けだした。見慣れた建物、見慣れた池。向かいには、本来前を通るはずだった植物園がある。なるほどやはり、わたしは道を間違えていたらしい。学園内といえど、敷地は街一つ分ほどあるのだから、あのまま迷い続けて大事にならなかったとも言えない。彼が再三にわたる注意をしていたのも、それを防ぎたかったからだと気がついた。

 申し訳ない気持ちと共に、彼にメッセージを送ったままにしていたことを思い出す。急いでスマートフォンを付ければまたも沢山の着信履歴があって、それらを追っているうちに新たな電話が来る。

「……もしもし、」「やっと繋がった!……今、どこですか」
 初めて聞く、大きくて焦った声。池に映った自分が驚いた顔でこちらを見ている。
「魔法薬学室の、前」
「すぐ行きます。そこに居てください」
 動かないでくださいね、と念押しされたあと、すぐに通話が終了する。画面が暗くなって、もう一度つけようとしてもつかなかった。充電切れ。少しでも電話に出るのが遅かったら、もっと彼に心配をかけていたかもしれない。

 動かないでの言葉を真に受けたわけではないけれど、1ミリも動く気力が湧かなくて、そのまま池に反射する白いひかりを目で追う。波が寄せて引く様は海のようで、されど彼の故郷のきらめきは、こんなものではないのだった。珊瑚や魚や、特有の文化を反映した建物は、さぞかし綺麗なのだろう。わたしは連れていってもらったことは無いけれど、きっと彼みたく美しくて、遠い。

 いつまでそうしていたかはわからない。彼がそばまで来たことも、わたしにコートをかけてくれたことも、数秒遅れで気がついた。慌てて立ち上がる。「……ごめんなさい」
 彼は何も言わない。コートごとわたしを抱き締めて、輪郭を確かめるみたいにわたしの頭を何度か撫で付けた。

「あの」彼の背中に回していた手を下ろす。ぎゅっと拳を握って、ゆっくりと息を吸う。「本当に、ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったのに」
「楽しかったですか」
 怒っていることを遠回しに伝えたいのか、それともただ聞いているだけなのかわからない。そもそも、楽しかったとは何に対してなのか。
「な、なにが、」
「何がって、……散歩、してたんでしょう。普段と違う道、どうでした」

 そういう彼の声は、嫌味な感じもなんて全然しない。てっきり怒られると思っていたから、なんだか拍子抜けしてしまう。連絡もせずひとりで外を歩くなんて、初めてに等しかった。とはいえ彼はわたしの保護者でもなんでもないのだし、もうお互い高校生、ひとり散歩するだけの行動をいちいち報告するなんて、もともと馬鹿げていたのかもしれない。

「最初は楽しかったけど、……怖かった。それにやっぱり、アズールが隣にいないと」
 彼が小さく笑うのが聞こえる。「そうですか」
「うん。いけると思ったんだけど、ダメだった。今度は大人しくいつもの道で帰るよ」

 彼がわたしを抱き締めていた手を解いて、もう一度コートをかけ直してくれた。腕を通すと、指先まですっぽり覆われてしまって、体格の差を実感する。彼がまた笑って、コートに包まれたわたしの手をとった。丁寧に袖が折られて、ちょうど手首が出るくらいの長さになる。

「そのままでもよかったのに。寒いし」
 自由になった右手を見つめながら、言う。てっきり左も折ってくれるのかと思ったらそうではなく、彼の視線はスマートフォンへと向いていた。真剣な表情をしていて、それ以上声はかけられない。
「少し、電話してきてもいいですか」

 どうぞ、と返事をすると、彼はわたしに背を向けて話し始めた。繋がったあとすぐ名前を呼んでいたから、相手がジェイドだということは分かった。内容はわたしには言えない契約のこと、仕事のこと。そんなところだろう。
 散歩に夢中になっていたとき(というよりは、道探しに夢中になっていたといったほうが正しいけれど)、何も考えずにいられたことはしあわせだったのかもしれない。彼に迎えに来てもらって安心した途端、またもいいようのない寂しさ、不安で心が埋め尽くされる。彼はわたしのことをほとんど知っているけれど、わたしは彼に関して知らないことだらけ。

 将来彼が手の届かない、何か巨大で不透明なものにとりこまれてしまったとしたら。わたしには到底理解の及ばない、抽象的でおそろしいもの。そういう、よくわからないけれどもこわいもの、のなかに権力という言葉はあって、お金もあって、だからわたしは恐れている。勝手に遠くへ行った彼を、わたしを置き去りにする彼を想像しては怖くなって、でも言葉にできるほど明確ではないから、何も言えない。

 適当に歩いて、電灯の下で立ち止まる。地面に浮かぶひかりの中心に立って、暗い思考を追い出すように深呼吸をした。
 紺色の空がすぐそこまで迫って、一面に星が散りばめられている。空気に鋭さが増す。夜へと切り替わる瞬間は、外ならでは、陸ならではのものなのだな、と思う。寮にいるときは朝も昼も夜も境界線が曖昧で、たまにすべてが夢なのではないかと錯覚してしまうから。

「……電話、おわりました。待たせてすみません」
 スマートフォンを仕舞いながら、彼が近付いてくる。革靴のかかとから黒い影が伸びる。地を這うような夜の闇はあまりに彼に相応しく見えた。
「もう、大丈夫なの?」
「ええ。無事片付いたようです」
 何が片付いたのかは、聞けない。十中八九、ラウンジの仕事ではないだろう。唾を飲み込む音が体のなかに響く。

「あのね」意を決して、声を発する。このまま帰って悩んでいたって仕方がない。「この先、とか将来、とか。わたしが口に出していい言葉ではないのかもしれないけれど」
「はい」短い返事が来る。落ち着いていて、真剣な声。
「アズールが遠くへ行ってしまうんじゃないかって思ったの」
「あなたを置いて、ですか」
「うん」視線を感じて、俯く。コートから彼の匂いがする。「手の届かないところに」
「手の届かないところ」

 地面の砂がさらさらと浮き上がり、風に乗って運ばれていく。髪もコートもはためいて、芯から震えるような寒気が身体中を巡った。

「よくわからないけど。わたしはほら、アズールのこと何にも知らないから。気をつかってくれているのもちゃんとわかってるのに、色々想像しちゃって」
 言い終えてから、やはり何も話さず帰るべきだったな、と早くも後悔の念が湧いてくる。かつてないほど沈黙が肌に沁みて、胸の奥に重い痛みが走る。

 ついに耐えきれなくなってなにか話そうと口を開いたとき、彼がわたしの名前を呼んだ。ゆっくりと顔を上げる。
「契約、……それに関することすべてを、僕はあなたに見せないよう、話さないようしてきました」
「うん」わたしの頬に彼の手が触れる。ふたりの距離は変わらないはずなのに、一気に近付いたような感じがする。
「ですが、それがあなたを不安にさせていたとは」
「ごめんなさい」
 頬の手は髪へと移動して、そのまま数回、頭を撫でられた。
「いえ。この先も一緒に過ごすなら、きちんと言うべきでした。僕がやってきたことも、……過去のことも」

 わたしがためらった「この先」を、言えなかった「一緒に」という言葉を、特別でもなんでもない風にさらりと言ってのける彼が、心底愛おしくて、好きだと思った。知らないひとのいう、無責任で浅はかな未来、とは全然違う響きを、力を持っている。他でもない彼のことばだから、信頼出来る。

「言いたくないことは言わなくたっていいの。恋人だからって、全部知っていなきゃいけないなんてことはないもの」
 一歩踏み出して、彼の手を取る。袖が折られていない方の手は、ポケットへと突っ込んでおいた。
「でも、何も分からないっていうのはちょっと、寂しかった」
 指が絡んで、ぎゅっと握られる。手のひらからほんの少しの熱が渡って、解ける感覚がした。
「とりあえず、帰ろ」
「ええ」

 歩き出したときには、遠く恐ろしいものたちに彼を奪わせる気持ちなんて無くなっていた。思い出も月日も秘密もひとつずつ重ねていって、そうして彼と過ごしていく。彼が行く先にわたしも一緒に沈んで、おちてしまえばいい。それだけのことだった。






- ナノ -