冬、極彩のまち



※アズール視点
※4年生設定

 もう限界かもしれない。いまから駅に来て欲しい。
 三日ぶりに彼女から送られてきたメッセージはこれだけだ。研修がはじまってはや数ヶ月。出会ってから今まで、こんなに長い期間離れて暮らすのは初めてだった。お互い出来るだけ連絡を取りあうようにしていても、忙しい毎日の中で疲れて眠ってしまうこともあり、詳しい近況はなかなか聞けずにいる。あと一週間もすればVDCで学園に戻るのだし、と油断していたのもあるかもしれない。

 研修先に外出する旨を伝えて、携帯を確認する。メッセージが来てから五分程経っていた。駅はふたりの研修先の丁度真ん中に位置しており、歩いて大体十分ほどで着く。外に出た途端、夜を含んだ鋭い空気がコートをはためかせた。凍りついた地面に月が映っている。
 冬が苦手な彼女は、もう駅にいるのだろうか。去年一緒に買いに行ったコートの青色が脳裏をかすめる。アズールの瞳の色みたいだから、と微笑んだ表情も同時に思い起こされて、なんとも言えない気持ちが広がる。そんなことは、恋人にいうセリフではないのか。あの時の自分は、なんと返したのか。

 静まり返ったこの街でひとり佇む彼女は研修に行く前よりも大人びているように見えた。遠くて、儚い、と思った。たったの数ヶ月、けれどその日々は学園生活でのそれとは全く違うもの。

「すみません、待ちましたか、」
 最後まで言い終わらないうち、彼女が胸に飛び込んでくる。数秒悩んで、背中に手を回す。
「来てくれてありがとう」目の前で、スカイブルーの裾が揺れる。「会いたかった」

 あんなメッセージが来た以上、泣いているのかとも思ったがどうやら違うようだ。一瞬だけ思い切り抱きしめられて、そのあと焦った様に僕から離れていく。
「ご、ごめん、こんなこと」俯く彼女の頬は赤い。

 冷えきった身体の温度を思い出す。連絡する随分前から、ここにいたのかもしれなかった。行きましょうか、と声を掛けて、街のほうへと足を向ける。どこへ行くかは決めていないが、この場所に留まるよりは散歩でもして気を晴らした方がいい。

 隣を歩く彼女はなにも言わず、また僕もなにも言わなかった。沈黙と澄んだ風の心地よさだけが、辺りを包む。昼間同じ道を来たときは目に入らなかった色とりどりの屋根や、遠くにみえる山々。研修中は景色を気にする余裕なんてなかったといってしまえばそれまでだが、いまは本当に、夜に染まったはずのこの街全体が、鮮やかに、美しくみえた。そしてそれらはすべて、中心にいる彼女の青へ続いている。

「特別辛いことがあったわけじゃないの。でもね、ふとしたときに、……アズールはこういうところで助けてくれてたんだなあ、とか、今日頑張って明日も頑張っても、まだアズールには会えないんだって」考えちゃうの、と続いた最後の言葉はほとんど声になっていない。

 陸に上がって四年目の僕は、文化に戸惑うことはあれど、魔法ありきの社会、システムそのものに疑問を感じることはほとんどなかった。海には家族も居るし、幼なじみのジェイドやフロイドだって、もうずっと共にいる。けれど彼女は魔法のない世界から来て、さらには性別まで偽っているのだ。このツイステッドワンダーランドに、彼女の帰る場所はない。
 一緒に居る時こそ僕がフォローに回れたものの、ひとり放り出された研修先では、そうもいかない。緊張、慣れない環境での疲れ、……ずっとそばにいた僕に会えないこと。考えてみれば、彼女が限界を迎えるのも当然に思えた。

「いじめられたりは、してない。皆いいひとなんだよ、本当に」
「ええ」
「だから、辛いの。勉強は頑張ってきたつもりだけれど、……それじゃ埋められない」

 足が止まる。一歩分先に出た彼女の腕をそっと掴んで、引き寄せる。向かい合った状態で、視線がかち合う。驚いたように見開かれた瞳は涙に濡れていて、今にもこぼれ落ちそうだった。無意識に、赤くなった頬へ手が伸びる。指に温かい水滴が落ちた。夜の僅かな光を閉じ込めた雫は、手首を伝って地面へ吸い込まれる。

「すみません」手を下ろして、離れる。何に対しての謝罪なのか、自分でもよくわからない。
 突然触れたこと。異変に気がつけなかったこと。今の今まで、自分の想いに見て見ぬふりをしていたこと。それなのに、彼女がこの世界から居なくならないよう親切にして、繋ぎとめて──思いあたる節は沢山あった。

「わ、わたし、アズールがいないとだめみたい」
 もう一度、目が合う。
「待って、下さい」

 喋るそばから息が白くなって、消える。
 学園から遥か遠くの、寒い街。こんな場所で、こんな夜に、伝えることになるなんて。

「僕から、言わせてください」
 星一つない真っ黒な空が、三角屋根の尖った先を飲み込んでいる。月だけが浮かぶ夜は美しい。輪郭のはっきりした満月は、大きな街灯にも見えた。
「あと半年すれば卒業して、……今よりずっと、会う機会は減ることになる」
「うん、……」
「僕は、あなたが好きです」

 ひとつ息を吸って、彼女までの数センチを埋める。靴音がコンクリートから跳ねた。近くの看板の文字だとか木々に積もる白だとかの解像度がどんどん低くなって、代わりに香り、見慣れた青、彼女に関する事柄だけが頭を占拠する。

「卒業しても、一緒に居ましょう」
「でも、」こちらを伺う彼女の表情は、明らかに戸惑いの色を見せている。
「なにか問題でも?」
「わたしなんかで、いいのかなって」
「あなたは、」彼女の両肩に手を置いた。距離がぐっと近くなる。今までにもこれくらいのことはあったはずなのに、緊張で指先から血の気が引いていく。「……僕のことをどう思っているんですか」
「……好き。誰よりも」

 柄にもなく、頬に熱が集まるのがわかる。照れたり、緊張したり、今日はらしくないことばかりだ、と笑みが洩れた。計算外の状況で感情を表に出すのはあまり好ましくなかったが、彼女の前にいるときは、そんなことを気にする必要は無い、と思える。改めて確認して、すぐ前にいる彼女に触れたくなった。
 肩に置いたままの手を自分のほうへ寄せて、彼女を腕の中に閉じ込める。告白の余韻を残した抱擁は多幸感に満ちていた。このまま帰したくない、と、喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、腕に力を込める。あと少し、あと数秒だけこうしたら、彼女を送って、また日常へ戻らなくては。



「明日からも、頑張る。一週間頑張ったら、また会えるんだもんね」
 行きよりもずっと軽い足取りで進む彼女は、地面が凍っていなかったらスキップでもしそうな勢いだ。普段は僕の少し後ろを歩いているのに、いまは繋がれた手が常に引っ張られる形となっている。
「ええ。僕も、頑張ります」

 ずっと向こうに、駅の明かりが見える。沢山の星が散りばめられた時計とささやかなイルミネーションで飾られた広場は街の名物となっていたはずだが、こうして正面から眺めるのは初めてだった。僕は彼女と一緒の時でもなければ、なんの目的もなく歩いたりはしない。陸での散歩と、慣れ親しんだ海を泳ぎ回るのとではわけが違うのだ。

「綺麗。ここに来た日に見たんだけれど、アズールと一緒に来たいって思ってたの」
「それで今日、ここへ?」これを考えての待ち合わせ場所だったのか、と納得する。
「ううん、全然考えてなかった。ただ、会いたかったから」
 取り繕うように続けた彼女は、一瞬早足になって、また歩調を戻す。それから少しだけ振り向いて、「帰りたくないね、」と悲しげに眉を下げた。
「僕も、会いたかったです。それに、帰りたくない」
「アズール、」

 駅が近づく。本当は彼女の研修先まで送りたかったが、往復すると施錠時間に間に合わなくなる。帰り道は電話することを決めて、手を握り直した。

「では、また。帰りは電話しましょう」
「うん。急だったのに、ありがと」

 一本ずつ指が離れていく。混じりあっていた熱は外気に晒された途端失われていった。
 ポケットへ戻しかけた手を彼女の頭へとやって、数回撫で付ける。俯いていた睫毛が上がって、イルミネーションを切り取った瞳がかがやいた。そのなかには、見たことのない表情の僕も居る。

 彼女が僕に背を向けた。それに倣って来た道を戻ろうとして、やめる。一度だけ名前を呼んだ。靴音が止む。彼女が振り返るときに翻った青を視界に残したまま、ふたりの間に開いた空白に踏み込んで、顔を近づける。幼くて、短い口付けだった。目を瞬かせる彼女に言葉が出てこず、なにも告げないまま後ろを向く。
 早足で立ち去ろうとする僕の背中に、「お、おやすみなさい!」と上擦った声がとんできた。動揺を絵に書いたような反応に笑みがこぼれて、けれどそれは今の僕の行動にも言えることなのではないか、と今度は別の笑いが込み上がってくる。
「おやすみなさい。帰り、気をつけてくださいね」

 とてもじゃないが、駅の方へは向けない。唇を固く結んで、眼鏡の縁を指で押し上げた。遠ざかっていく足音は不規則で、スキップをして帰る彼女が目に浮かぶ。明日からはまたじっくり眺めることもなくなるのであろう街並みを見渡して、ため息をついた。先程色付いて見えたそれらはやはり未だ、鮮やかなままである。






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