夜明けのハーブティー/いい夫婦SS



※元同級生設定 結婚してます
※いい夫婦の日SS

 目を瞑って、きっともう数十分は経っている。いくら待っても眠気は一向に訪れない。お風呂の中でからだを耳まで浸したときみたいな温かくて解像度の低いあの感覚、それか布団と一体化して真っ白になってまるで部屋のインテリアの一部になったかのようなあの感覚。彼に話したら眠る瞬間のことをそんなふうに考えるなんて面白いですね、なんて言われたあれらは一体どこへ行ってしまったんだろう。今日一日仕事で話していない彼のことを思い出したら余計に目が冴えてしまって、それまで意識していなかった雨の音で聴覚がいっぱいになる。ドアの隙間から入り込んだ冷たい空気が顔周りの髪の毛を揺らした。

 最初はこれを子守唄に眠れないかしら、と思えるくらいの弱いものだったのに、雨粒が屋根に当たるバチバチとした音はどんどん強くなっていって、なんだか恐ろしくなってきた。このまま嵐でも来るのかしら。気付けば風の音も一緒になって鳴り響いていて、雷でも落ちたらどうしよう、と布団に包まる。
 わたしだってもう大人だし、天気が悪い夜だって何度も経験しているのだけれど、それでも彼が隣にいない夜は無条件に心細くて、寂しい。部屋にこもって仕事をする彼の顔を思い浮かべて、消して、けれどまた浮かんで、ため息をひとつ。

「アズール、……」
 無意識に彼の名前を呼んでいる自分が恥ずかしくなって、シーツに顔を押し付ける。彼の匂いがして、両手で顔を覆った。冷えた手がさらに意識をはっきりさせてしまって、ふたつめのため息。


 突然辺りが明るくなって、ゆっくりと瞼をあげる。ついに雷が落ちたのかと思ったけれど、電気がついただけみたいだった。ひとりでに電気がつくなんて機能うちにはないはず、と起き上がると彼がドアの前に立っていて、「眠れないんですか」と声をかけてきた。
「わかってるくせに、なんで聞くの」
 彼はわたしが寝ていないとわかっているからいきなり電気を付けたのだ。もしかすると、と思って聞いてみる。「さっき、名前呼んだの……もしかして、聞いてた?」
 答えは返ってこなくって、代わりに短いキスが落とされた。


 手を引かれて、リビングに入る。ソファで待つようにいわれたけれどなんとなく落ち着かなくて、窓の外を眺めてみた。雨風が吹き荒れる夜は灰色と紫色、それから透明。天気が悪い夜ほど空は明るいから不思議だ。どんなときでも窓の外の景色が変わらないオクタヴィネルが少しだけ、懐かしくなる。
 名前を呼ばれて、捲っていたカーテンを元に戻す。振り向くとすぐそこに彼がいて、反射的に後退りしてしまった。彼が少しだけ不満げな顔になる。でもそれは本当に一瞬のことで、まばたきする間に彼の腕に閉じ込められた。学生の時から一緒にいて、もう結婚して3年も経つというのに、顔に熱が集まるのがわかる。わたしだって、毎回ハグの度に照れているわけではない。こういう不意打ちに弱いだけなのだ。

「夜に談話室でお話する時間、好きだったなあ」

 彼が淹れてくれたハーブティーを飲んでいると、学生時代ふたりですごした夜が過ぎって、幸せな気持ちで満たされる。彼が手元のカップに目をやって、小さく笑った。

「行事の前の日はいつもこんな風に、眠れなくなってましたね」
「緊張したんだもん、仕方ないじゃない」

 大体の行事で実行委員をつとめていた彼はいつも前日まで忙しく働いていたというのに、よくも毎回毎回わたしにつきあって起きていてくれたものだな、としみじみ思う。あの時もいまも、眠れないわたしの隣にいるのはこの優しい彼だ。

「あの時も、今日も、……気付いてくれて、ありがとう。わたしね、アズールと結婚して良かったなって、本当に思うの」
「な、なんですか、急に」

 眼鏡のフレームに手をやる彼はあからさまに動揺していて、かわいらしい。普段冷静な彼は、わたしの何気ない言葉でこうもわかりやすく照れてしまうのか、と思うと今すぐ彼の胸に飛び込みたい衝動に駆られる。

「今日はいい夫婦の日、らしいから」
「それで、……」
「こんなことも、前にあったよね」カップをテーブルに置いて、彼の方へ向き直す。「ハグの日だから、とかいって、付き合ってないのにハグされた」
 だから今日は仕返し、なんて笑えば、彼も笑ってわたしを抱き寄せた。
「僕も、あなたと結婚してよかったと思います」
 耳元の声は甘く響いて、口元が緩む。せっかく数年前の仕返しをしたつもりだったのに、こんなに早く反撃をくらうなんて。「……ずるい」

 目を瞑って彼に身を寄せていると、さっきまで部屋を満たしていた外の音がすっかり消えていることに気がつく。雨の音も風の音もしなくって、ひたすらに静寂。ゆっくり彼から離れると視線が交わって、硝子の向こうのライトブルーが妖しく煌めいた。カーテンから洩れる微細なひかりがわたしたちの真横を走る。それを目で追おうとしたら彼の手に捕まって、頬に添えられた冷たさが心地よい、なんて思っていたのも束の間、思考は彼のキスでいっぱいになる。眠れない夜はハーブティーの香りを纏って、朝焼けに解けていった。






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