忘れた景色を探すとき



※同級生設定・付き合ってます
※3章直後の話

 始まり。切れ間のない水平線はどこまでも青くって、このままここに立っていたらわたしと彼も溶けていくんじゃないかって、本気で思うほどに美しかった。空も建物もわたしも彼もごちゃ混ぜになって、そうしてすべてまっさらになって、また一からやり直し。そんな現実味のないことを考えてしまうくらいにわたしはつかれていて、また彼だってそれ以上につかれているはずだった。

 わたしたちはもう随分長い間歩き続けていて、学園を出てから二時間くらいは経っている。いつもは鏡を使って移動しているから、こうして街の中の景色がゆっくり流れていくのはなんだか新鮮だ。わたしはもとより、彼はこんな長い時間歩くなんて初めてなのではないだろうか。それでも、一度歩くのをやめれば現実が一気にのしかかって飲み込まれるような気がして、立ち止まることは出来なかった。

 全てが遠い青に染るなか、右手の熱だけがはっきりとしている。唯一の温かさがわたしから離れてしまわないようにもう何回も何回も指先の輪郭を確かめていて、その度彼もほんのすこし、握り返してくれていた。
 辺りにはわたしたちの足音、風の音、それから遠くで響く鳥の鳴き声。他にはなんの音もしなくって、いつもは鬱陶しく感じる学校の騒がしさだとか街のざわめきが恋しくさえ思えた。普段は静かな場所を求めて自室に篭ってばかりだというのに。人間はいつだってないものねだり。

 彼の住んでいた海の底も、こんな風に静かだったのだろうか。一切の風が吹かず、また温度のない場所。日の当たらない海の底はきっと彼に合っていて、けれども彼は陸で学ぶ道を選んだのだ。過去を切り捨てるべく努力をして色んなものを手に入れて、その先にその全てを失うなんてこと、誰が想像しただろう。

 彼を恨んでいるひとだとか、嫌いなひとだとか、彼のことを良く思わない人が一人も居ないなんてことは思わない。一年生の時のテストで同級生のみならず上級生までも言いなりにしてしまって、半ば無理やりモストロラウンジの経営を始めた時からきっと、こうなることは決まっていたのだ。けれど、何一つ彼のことを知らない人たちが、他人の力で願いをかなえようとした人たちが彼から全てを奪っていいなんて、そんなこと。周りが許したって、たとえ彼が許したって、わたしは到底許せる気も、忘れられる気もしない。過去の事は水に流してなんて、どうせ加害者が作った自分勝手な言葉なのだろうと思う。
 
 中間。空と海の境目。砂浜と水面の線引き。島の端、高台から見下ろした海は青よりも紺色に近くて、空にも同じような色が迫っていた。後ろを振り返ると遠くに学園が見えて、細い屋根の先端はほとんど夜の帳に飲み込まれている。見えるのは窓の明かりだけ。周りの建物も同じで、まるでひかりだけが浮かんでいるみたいだった。街の灯りは遠くなびくほうき星、なんて歌詞を思い出して、けれどそれは彼に伝えられることなくわたしのなかで終わってしまって、まだはっきりと記憶にある懐かしい出来事や歴史たちは二度と口に出されることなくこのまま死んでいくのだとふと気が付く。最初の頃こそ彼に元の世界の話をすることもあったけれど、それを聞く時の彼の表情を思い出してしまえば、再び言う気にはならない。

 前にここに来た時わたしたちはまだ友達で、学園に入って数ヶ月、生活に少しだけ慣れてきた頃に彼が連れ出してくれたのだった。ふたりで外出届を書いて、同じようにここまで歩いて。今日はどこにも寄り道せず真っ直ぐ海まで来たけれど、あの日はカフェに寄ったり買い物をしたりもして、帰ってから暫く寝付けないほどには楽しかったのを覚えている。わたしにとって初めての外出だった。

 永遠と広がる海を見ている彼も、もしかしてあの日のことを考えているのかしらと思って聞いてみた。しばらく沈黙の間があってから、懐かしいですねと小さな声で返ってくる。顔は見えないけれど、きっと泣きそうな顔をしているに違いない。そんな声色。静かに彼の方へと体を寄せて肩へ頭を預けると、風で冷えた外套が頬に触れた。なんとなく彼からの視線を感じて顔をあげればそっと抱き寄せられて、繋がれていた手はどちらからともなく離れる。背中に回された腕にぎゅっと力が入って、少し苦しいくらいだった。彼の悲しみだとか心細さみたいなものが全部伝わってくるような気がして目に熱が集まるのが分かったけれど、泣くわけにはいかない。わたしが泣いてしまえばきっと彼は普段の彼に戻らざるを得なくなって、そうして強がってしまうから。唇を固く結んで、目を瞑る。それからいつもより力を入れて、彼のことを抱き締め返した。

 わたしも彼も特に何も喋ることなく、ただお互いの温もりが離れないように、夜に解けていかないように身を寄せる。そうして、ついに空が紺色に染った頃。励ましの言葉だとか慰めの言葉だとか頭の中で考えていた言葉は沢山あったはずなのに、結局口をついてでたのは好き、という言い慣れた言葉だけだった。沈黙が二人を包む。こういうときに、気の利くセリフの出ない自分が嫌いだと心底思う。

「僕も、……」

 短い返事の後、腕がほどかれて彼の顔が見える。はじめて見る表情だった。かつて彼が纏っていた自信、気迫、驕り、つよさ――全部が抜け落ちた彼は年相応かそれより幼く見える。儚くて弱い、なんて言葉、彼から最も離れた言葉だと思っていたのに、きっと今は一番ふさわしい。こわくなって、彼の指先をきゅ、と握りしめた。

「明日からもこの先も、……わたしは、アズールのそばに居るから。消えてなくなったり、しないから」

 これが、わたしが言える精一杯。ほかの人たちならもっと気の利いたこと――起こったことに対しての慰めだとかこれまでの彼への賞賛だとかがぽんと出てくるのだろう。事実、彼がオーバーブロットした直後監督生が彼にかけた言葉たちは彼のなかに刻まれたようだったし、ジェイドやフロイドは何も言わなくたってこの先も彼の傍で支えになることが決まっているようなものだ。三人の間に入りたいなんて思ったことも、関係性を羨んだことも無かったけれど、今は少しだけ羨ましかった。

 いつでも物語の蚊帳の外。傍観者。他人。もしかすると彼の支えになりたいなんて思うことすら許されないのかもしれない。それでもわたしは、恋人だから。

「……あなたは人間なんですから、契約書のように消え去られては困ります」
 ひらひら揺れる彼の外套の影を眺めていると、拗ねた子どものような、それでいて少しだけ余裕を含むような彼の声が降ってきて、顔を上げる。
「そ、それは確かにそうなんだけど……そうじゃなくてわたし、」
「冗談です。ちゃんと分かっています」

 心配かけてすみません、とわたしに謝る彼は、もういつもの彼に戻っていた。
 
 
 
 終わり。全ての空色は限りなく黒に近い紺に支配されて、波も風も匂いも夜を纏っている。街灯の少ないこの島はどこよりも綺麗に見えて、けれどわたしはこの島しか知らないから、その比較対象は他でもなく元の世界の景色なのだと気がついた。この世界の都会、彼の故郷、わたしは何ひとつ知らない。

「わたし、今度、海に……、アズールの故郷に行ってみたい。そうやってこの世界のことでいっぱいになって、アズールを誰より知っていたい」
 彼の隣で、自信をもてるように。この先彼に何があっても真っ先に声をかけてあげられるように。
「そうしてほかの人たちみたいに、とか、思ってるんですか」

 一人で歩く時より狭い歩幅で進む彼の横顔からは何一つ表情が読み取れなくて、少しだけ怖くなる。何か言わなくちゃと口をひらいたとき、前髪も服も巻き上げられるような強い風が吹いて、自然な流れで彼の腕に収まった。わたしを引き寄せる腕の感触もその時に香る彼のコロンもぜんぶが鮮やかにちらついて、ついに涙がこぼれ落ちる。「思ってるよ」

「僕のことばかり考えて過ごしているのも、適当な言葉を掛けられない性格も、……そのままでいいじゃないですか」
 思い切り泣き出してしまいたくなったけれど、必死に押さえ込んで、告げる。「わたしは、アズールに何もしてあげられないから」
「こうして一緒に、歩いてくれたじゃないですか」

 見えないのに彼が微笑んでいる気がして、それがまた涙を誘った。わたしは何もしていない。出かける彼に勝手に着いてきて、横を歩いて、結局掛けることのできた言葉は的はずれなものばかり。

「それは、……」
 続きを言えないでいると、彼がわたしの頬に手を添えて、真っ直ぐに見つめてくる。薄いブルーの瞳は海よりも雨雲に近い。彼の故郷でも陸でもない、空のいろ。

「明日からもこの先も隣に居ると、いいましたよね」
「うん」
「それから、僕のことを好きだ、とも」
「うん」自分の発言を復唱されていくうちにいたたまれない気持ちになって、彼から目を逸らす。
「全部、あなたがなりたいと言った他の人たちには言えないことです。……普段からもっと、口に出してもいいくらいだ」

 彼がゆっくりとわたしの頭を撫でる。一台車が横切って、その場の空気が循環した。冷たくて薄い、秋の夜を体現したような空気。人通りが少ないといえどここは外なのだ、と再認識して、彼の腕から離れる。頬にまた新しい涙が落ちて、けれどそれは流れることなく、彼の指に掬われる。

「……ダメだね、わたし。アズールのこと元気づけたいと思ったのに、逆に励ましてもらっちゃった」

 彼も星も街のあかりもピントの合わない写真みたくぼやけていて、鮮明なのは彼の指の熱だけ。まるでわたしの世界みたいだと思う。何も分からないこの世界では彼だけがわたしの全てで、いちばん美しくて、正しい。

 彼がわたしの名前を小さな声で呼ぶ。目線だけ上を向けば顎に手を添えられて、彼の端正な顔立ちがすぐ前に迫る。反射的に目を瞑ればふ、と笑い声が聞こえて、それから一瞬だけ、唇が塞がれた。
 
「明日からまた、忙しくなります」
「もう何か、考えてるんだ」
「はい」

 短い返事は確信に満ちていて、胸に暖かいものが込みあげる。少しだけ歩幅が大きくなって、紺色のなかに煌めく星や月も、さっきよりずっと綺麗なものに見えた。

「帰りましょう」
「うん」

 すべてまっさら。やり直し。そんなことが出来たらって思っていたけれど、もう必要ない。世界でいちばん素敵な彼のとなりはいつも新しい景色に満ちていて、それから心地よいのだった。

 これからのことを考える夜。彼とわたしはすぐそこに迫る冬を感じながら、いつまでも寄り添って歩いていた。






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