指先の熱が触れ合えば



 またね、と声を掛けあって、バイト仲間たちと解散する。普段ならまた明日、になるのだけれど、今日は年内最後の営業日。明日からはホリデーが始まる。
 お客様用のドアを外から閉めて、遅番の仕事は完了だ。あとはここ、モストロ・ラウンジの支配人を務める恋人のもとへ行って、鍵を返すだけ。

「今日もお疲れ様でした」

 振り返ろうとした瞬間に後ろから話しかけられて、動揺した手から鍵が滑り落ちる。肩に掛けていたカバンも肘の辺りまでするりと移動した。直後、カシャン、と高い音が辺りに響く。「びっくりさせないでよ、アズール」

 鍵を拾って渡そうとするとそのまま手を引かれて、視線が彼の顔へと移動する。手袋越しの彼の体温は殆ど感じられず、鍵の冷たさだけが広がった。数秒待っても何も起こらない。「急にどうしたの」
「手、いつも冷たいですよね」
 真剣な顔付きの彼を前に、なんだか緊張してしまう。
「うん。慣れちゃったけど」
 彼がわたしの手から鍵をとって、ポケットへしまう。そのまま腕を下ろそうとしたけれどもう一度捕まって、動けない。
「心配? ……でも、アズールも冷たいじゃない」そっと彼の指をなぞって、言う。
「僕は人魚なので」
「確かにそうだけど」

 店の前で手を繋いでいる理由がわからなくて、いつまでこうしてるの? と続けてみる。わたしの手が冷たいからって、そんなの理由にならない。彼だって大体同じくらい冷たいはずだから、手を握られたところで、温まったりはしないのだ。それに、彼は外で恋人らしいことをするのはあまり好きではないし(本当に人目がないところでなら話は別。この間VIPルームで気を抜いていたらキスされた)、今だって何か考えあっての事なのだろう。
 すぐに解かれて、けれどその解き方があまりに優しかったものだから、少しだけ照れてしまう。頬が熱い。

「あなた、いつも手袋してませんよね。まあ、もともと防寒用ではないので、あまり変わらないのかも知れませんが」
「手袋してるとレジの機械が反応しないし、字を書くときも落ち着かないの」わたしからすると常に手袋をしていられる方が不思議だよ。独り言のように呟きながら、自由になった手でカバンを肩にかけ直す。 
「部屋に着くまででいいのでしていてください」
 いつのまにか彼の手から外されていた手袋が目の前に差し出されて、反射的に受け取る。「……ありがとう」

 わたしのより一回り大きい手袋は指の先まで入らなくて、ブカブカだ。彼シャツよりも先に、彼手袋を身につける機会がやってくるとは。しかも寮服。

 なんだか落ち着かなくて、開いたり閉じたりしてみる。そのまま歩き出すと、「ちゃんと足元を見ないと転びますよ」なんて小さな子供にかけるみたいな台詞が飛んできた。言われたそばから何も無いところで躓いて、前のめりになったところを彼に支えられる。「……ごめんなさい」
 だから言ったでしょ、という展開に毎回なってしまうのは最早わたしの癖と言ってもいいくらいのことで、それが自分でもわかっているからこそ、先回りして謝るのも一緒に癖になっている節があった。

「ところで」彼のよく通る声が、静まり返った廊下に反響する。「年明けのシフト、ほぼ毎日入ってますよね。何かあったんですか」
 ガラス一枚隔てた先にある、夜の紺に塗り替えられた珊瑚や小魚。それを照らすシャンデリアの照明。何処へ行くにも必ず通るこの道はどこか水族館を思わせるけれど、そういえばこちらの世界に来てから、水族館や動物園の存在について考えたことがなかったな、とふと思う。

「……欲しいものがあるの」
 気付けばこの寮を取り囲む水の流れとか静寂の中に際立って鳴る靴音にすっかり意識が向かってしまって、返事が遅れる。
「直接、僕に頼めばいいじゃないですか」
 拗ねたような声が珍しくて、そっと視線を彼の方へ向けた。スカイブルーの瞳のなかで、深い海が揺れている。
「アズールに頼んだら、あとで何を要求されるか分からない」
 冗談めかして言ったつもりなのに、彼の表情は緩むことなく、どこか子供じみた不機嫌さを示している。
「恋人にまでそんなこと」
「しないのはわかってる、けど」

 ではなぜ、とでも言いたげな彼を横目に、寒色だけが佇む廊下を進んだ。本当に、季節を問わず冷たい場所。ここだけではなく、寮のなかすべて。手袋に包まれた両手を袖へと引っ込める。

 もしこのひとがわたしの世界へやって来たら。人で居るうちは何も変わらず、いや彼にとっては何もかも違うのだろうけれど、とりあえずは普通の人間と同じく暮らせるはずだ。でも、海で暮らすとなったらきっと、そうはいかない。いつか研究の対象として捕らえに来るであろう人間たちに見つからないよう、身を潜める、…こんなことば、今の彼には全然似合わない。そこまで考えて、言語化できないもやもやとした寂しさみたいなのが体中を占めて、侵食する。彼の手を掴んだ。手袋で少しだけ温まったわたしの手と、どこまでも冷たい彼の手。

 なぜ今になって、彼との違いを意識してしまうのだろう。一面海に覆われた廊下をぬけて(といってもこの寮は丸ごと海の中にあるから、廊下だけが海に覆われているわけではないけれど)、今度は壁で覆われた皆の部屋があるスペースへとたどり着く。景色が現実的になるこの瞬間、原因はあの廊下か、と思う。あの場所が、元の世界に近いから。水族館みたいだから。

「突然どうしたんですか。周りに人が居ないとはいえ、外でこういうことをするのは」
 そこで彼が話すのをやめて、わたしを見たまま動かなくなる。ふたりの足が止まる。静けさが辺りを揺蕩う。
「……何も無いの。もうやめる」

 滲んだ視界のなかでほとんど寮へと溶け込んでいる彼はやっぱりこの世界のひと。雫が頬を伝った。息を吸うたび、鼻がすんと鳴る。繋がった手を解いて、むりやり一歩踏み出した。そのまま進んで、自分の部屋へ帰って、今日を終わらせてしまいたかった。
 腕をぐっと掴まれて、二歩目が空中をさまよう。仕方なく振り返ると、彼が困ったような、それでもうんと優しい顔をしていて、新しい涙がぼろぼろと零れた。

「さ、寒いとだめだね、……折角一緒に居られるのに、悲しいことばっかり考えちゃって」
「暑くても寒くても、あなたは色々考えすぎる」
「それは、言えてるかもしれない」

 通り過ぎようとしていた寮長室の鍵が音を立てて開く。ひとりでに開いたように見えるけれど、きっと魔法を使ったのだろう。様々な色の微細な光がくるくると弧を描いて、一斉に消える。ポケットから鍵を取り出す手間を惜しむなんて、彼は意外にも、わたしが泣いたことに焦っているのかもしれなかった。

 今度は彼から手を引かれて、すこしだけ早足で部屋へと入った。ドアが完全に閉まったとき、目が合って、それからゆっくりと抱き締められる。

 こういうとき、彼がわたしの背を撫でる手はぎこちない。ハグすること自体に慣れていない訳ではなくて、きっとこうやって、女のひとを慰めるのに慣れていないのだ。話を聞く限りお互い初めての恋人なのだけれど、いつまでも緊張してしまうわたしと違って、彼は何事もスマートにこなすし、完璧。だからこそこういう時に改めて実感して、嬉しくなってしまう。口に出したら幻滅されてしまうだろうから、彼には絶対に言わないけれど。

「……ごめんね」彼のシャツに頭をもたげて、腕に力を込める。もともとゼロに等しかった距離がさらに縮まった。それはもうひとつになってしまうくらい、ぎゅっとして、けれどわたしと彼は永遠に同じになることはないのだとまた暗い考えが過って、消して、そうしてゆっくり息を吸い込んで、続ける。「ちゃんと決めたのに。たまにこうやって、寂しくなるの」
「一人で泣かれるよりは、ずっと良いです」数秒間が空いて、彼が口を開く。

 何も返せなくなって、それだころかまた鼻先がじんわり痛くなってきた。さらに泣いて、彼を困らせる訳にはいかない。彼の後ろに回した手を固く結んで、思いきり目を瞑る。

「ありがとう」深く空気を取り込んで、吐き出す。彼の匂いがした。「……好き」
「僕も、……。顔を上げてください」

 手を解いて、彼から離れる。何をされるのか分からないほど、わたしは純粋ではなくなってしまったし、だからこそ期待の滲んだ顔を見られたくなくて、俯く。
 外套の内側に広がる紫。ズボンの裾。靴ひもの結び目。それらを順番に追っていって、視線の落ちた先の床の柄を数えていたら、彼の長い指がわたしの頬を包んで、上に向けた。構えていたつもりはなく、ただ待っているだけだったのだけれど、唇が触れる既のところで止められて、思わず「どうしたの」と声が出る。何度かまばたきするうちに、いえ、と短い返答が来て、そっと口付けられた。角度を変えて繰り返されるそれは普段の彼とは違う飾らない優しさというか、ふわふわしていて手触りの良い雰囲気、みたいなものを纏っていて、つま先から頭のてっぺんまでが柔らかい温かさで満たされる感覚がする。

 キスが止んでも彼の瞳は余韻を残したように熱を含んでいた。こういうときはいつもどうしたらいいかわからなくなって、黙ってしまう。変なことを言ってムードを壊すのもいやだし、彼の美しさに上乗せされた色気を前にすると、そもそも言葉が出てこない。どうしようかなあ、何か話してくれないかしら、なんて考えていたら視界のはしでストールが揺れた。フリンジになったところをそっと掴んでみる。三つ編みにしたり、二本だけとって巻いたりして、ほどく。やっぱり手袋をつけた状態には慣れなくて、どれもうまくいかなかった。視線を感じて顔をあげたら、また唇が重なる。

「なにやってるんですか」離れてすぐ、彼が笑う。
「マフラーとかストールとか、こういう紐のところ、結びたくなるじゃない」
「そんな子供みたいなこと、」
「アズールはしないか。わたしも別に、いつもやってるわけじゃないし」

 彼が微笑みを浮かべたまま上着をすべて脱いで、それから丁寧にハンガーに掛ける。外の海はほとんど黒に近く、絵の具で塗りつぶしたみたいに見えた。そろそろ消灯の時間のはずだ。オクタヴィネルはモストロラウンジの営業時間の関係で他寮よりも遅い時間に設定されているけれど、それでも日付を越えるまえには、廊下も部屋も暗くなる。こんな世界にいる以上ゴーストが怖いだとか暗い場所をひとりで歩けないだとか、そんなことを言って彼に甘えるわけにはいかない。ひとりで歩ける時間内にきちんと自室へ帰ろう、と決めて、手袋を外す。出来るだけしわをのばしてから、二つ揃えて机に置いた。

 彼を見るとシャツのボタンが上からみっつめまで外されていて、それだけのことなのに、見てはいけないものを見てしまったような、さもそこに特別な空間が広がっているような感覚に陥って、慌てて出口へ方向転換する。「そろそろ帰ろうかな。こんな遅い時間まで、ごめんね」

「帰るんですか」
「消灯しちゃったら、暗くて怖いし」
 ドアノブに指をかけたところで、突如疑問が湧いて、彼のほうへ振り返る。
「さっき、なんで笑ったの」
「さっき、とは」

 上だけ着替え終わった彼は半分ラフで半分フォーマル、誰がどう見てもちぐはぐで、自然に頬がゆるんだ。こんな日常に近い彼を見られるのは、きっと彼に近しい双子の兄弟か、家族か、わたしだけ。

「キスの前。緊張して目つぶってたのに笑われたから、なんなんだろうって思って」
「説明するので、もう一回してもいいですか」

 彼はそう言いつつも、わたしの意見を聞く気なんかなさそうだった。着替えをベッドへと放って、こちらへ近づいてくる。畳まれることなくシーツに沈んだそれは彼の数少ない雑な瞬間の象徴のようだ。普段は絶対に、服を整えず置いたりしない。

 首に冷たいものが触れて、わ、と声が出る。慌てて正面をみれば、すぐそこに彼の端正な顔立ちが迫っていて、ハッと息をのんだ。もう一回、のことばがちらついて、瞼を閉じる。

「それ、」また小さく笑う声が聞こえて、目を開ける。至近距離でみる彼の表情はこの上なく柔らかく、直接聞いた訳では無いからこの表現があっているかはわからないけれど、幸せなようにみえた。いつも知的につり上がっている眉は下がり、口元も緩んでいる。「首を傾げるのが癖になっているのに気がついて」
「え、わたしが?」

 ええ、と笑う彼はやっぱり見たことない顔をしていて、もしかしたらわたしが恥ずかしくて目をつぶっている間、彼はずっとこんなかおをしていたのかな、と思った。それにしても、首を傾げるのが癖になっているなんて。

「どうしてだろう」
「はじめてキスした時に眼鏡があたって、」
「あ、懐かしい。それでわたし、自分から避けてたってこと」

 ふたりぶんの笑い声が響いて、それからゆったりした静寂が落ちる。窓にちらついていたかすかな光が音もなく消えた。目が合う。どちらからともなくキスをして、どんどん冷たい温度に染められていく。やっぱり同じになることなんてできないけれど、それでもいいか、と思う。
 
 ☆

 クラシックのような音楽がどこからか聞こえてくる。早くとまらないかな、と思った時にはもう止んでいて、自分の意識がまた微睡みのなかに吸い込まれていくのがわかった。そんななか、頭の下にあったアズールの腕が抜かれそうになって、手でつかむ。いまが何時なのかはわからないけれど、今日は休日なのだから二度寝くらい許されるはず。

「起きてください」

 あと五分、いやあと十分……。起きてください、といいながらわたしの髪を梳かしてくるのはどうなんだろう。そんなことされたら余計眠くなってしまうし、というかまだ目を開けていないから起きてもいないのだけれど、許されるのなら永遠にこのままでいたい。今日の予定はすべてキャンセルして、二度寝に徹する日になったりしないかしら、いや、彼に限ってそんなこと、あるはずないか。

「まあ、昨日は遅くまで起きていましたし、……」彼の指が頬を撫でる。「寝ていてもいいですよ」
 想定外の返答に、逆に目が覚めた。
「どうして今日、そんなに優しいの」

 彼のスカイブルーは、磨きあげられた宝石みたいに澄み渡っていた。眼鏡を隔てず直で送られる視線は昨夜のことを思い起こさせて、頬を熱くする。おはようございます、と微笑む彼の余裕を崩したくて、そっとキスをした。少しだけ触れて、離れる、……つもりだったのに、いつの間にか身動きが取れなくなっていて、身体が固まる。気づけば後頭部に手が回っていた。酸素が足りなくなって、ぎゅっと瞑った目蓋に涙が滲む。
 肩を押されて、冷たい空気が循環した。体温が溶け合う予感がする。
 
「今日は予定、なにもなかったんだっけ?」
 彼のクローゼットから前回泊まった時に掛けていったニットを取り出す。今日はとくに冷え込む予報が出ていたから、ちょうど良さそうだ。下に合せるロングスカートもハンガーから外して、椅子に掛ける。

「特になにも。よかったら、海に行きませんか」
「海に? それは、入るんじゃなくて」
 入ったら最後、芯まで凍りついてしまいそうな窓の外の青に目をやる。
「ええ。見に行くほうです」
 
 ☆
 
 街から電車に乗って、二駅。車窓からみえる景色はどこも鮮やかで、つい夢中になってしまう。学園から駅までは鏡を使ったけれど、ホリデー中は申請がいらないのかしら。寮長権限とか、あるのかな。

「一日目からこんなに楽しくて、いいのかな」
「いいんじゃないですか。今年のホリデーは、ずっと一緒ですし」

 黒いシャツにグレーのコートを羽織った彼はただ座っているだけで絵になっていて、通りがかったひとや近くの座席のひとからの視線が絶えない。となりにいるのは彼女なのか、と、車内の目が一斉にわたしに向いている感じがして、数センチ距離を開けて座り直す。

「外、見てください」
「あ、海」

 住宅が立ち並ぶ先に、砂浜、そして海がみえた。線路を走る音も、車内の話し声もすべてが遠のいていく。寮のそれとは違う深い青が次から次へと、目に飛び込んでくる。
「綺麗。初めてじゃないのに、やっぱり」見入っちゃうね、と言いかけて、とまる。わたしの手は彼にからめとられて、いわゆる恋人繋ぎの状態になっていた。

「アズール、あの、外でこういうことはしないって」
「今はホリデーですから。知られて困るようなひとは全員、帰省しています。それに僕は、……誰に見られたって構いません」

 こんなに堂々と恋人らしいことをするのは初めてだった。スカートを履いて、隣同士に座って、手を繋ぐ。世の中の高校生が普通にしていることだって、わたしたちには特別なのだ。「……ありがとう」
 なんだか泣きそうになってしまって、慌てて上を向く。
 彼は誰よりも格好良くて、素敵。それから、わたしを幸せにする天才、だ。

 
 電車を降りても手は離されない。それどころか、駅を出てからは彼のコートのポケットに入れられている。
 前に来たときはまだ気温が高くて、坂を下りきる頃には汗が滴り落ちていたものだけれど、今は街の全部が雪で覆われていて、吐く息も白い。海風が髪の毛を揺らして、それからふたりの間を通り抜けた。少し考えてから、彼の二の腕のあたりに頬を寄せる。

「こうやってゆっくり出かけるのも、久しぶりな気がします」
「うん。三年生になると、授業もけっこう難しいし、モストロラウンジも忙しかったよね」

 お客さんがたくさん来るのもそれによって彼の機嫌がいいのもたしかにありがたいことなのだけれど、それによって彼との時間が減っているのも事実だった。寂しくなかったといえば嘘になる。

「年が明けてからもきっと、忙しくなります」
「そうだね。わたし、ちゃんと頑張るから」
「ええ。シフトもたくさん入ってましたし、……そういえば、あなたの欲しいものってなんだったんですか」
「電気毛布」彼は使ったことも見たこともないだろうな、と思いつつ、答える。
「電気毛布?」
「この世界でも同じものかはわからないけど、名前の通り毛布なの。寝る少し前にスイッチを入れておけば暖かくなって……うちの寮、寒すぎるから」
 言っているうちに理解できない、という顔をされたので、最後の方は言い訳じみた響きになる。

「魔法で温めればいいじゃないですか」
「無理だよ。そんな細々した魔法、わたしは使えない」
 毎日アズールが掛けに来てくれるなら話は別だけど、とつづけてみる。今日はなんだか、彼がとくべつわたしに甘いような気がして、普段言わないようなことがするする出てきてしまう。

「そんなものなくたって、毎日一緒に寝ればいいじゃないですか」
「それは、……」
 足下の白が眩しい。凍りつきそうな空気は冬の匂いがして、身体の奥を冷やしてくる。
「なにか問題でも」ポケットのなかの手に力が入っていて、指の間が熱くなった。コートに触れる頬もおなじくらい、熱い。
「ない、けど」

 やっとの思いで絞り出した声が砂浜に落ちる。前を見れば見渡す限りの青が迫っていた。手を繋いでいるのも忘れて、駆け出す。わたしに引っ張られたはずなのに、彼の足取りは落ち着き払っていて、おもわず嫉妬しそうになった。あんなに綺麗な顔立ちをしていながら足まで長いなんて、神は何物与えるつもりなのだろう。
 
 波の打ち寄せる音と、カモメに似た白い鳥の鳴き声だけが耳を満たす。空の薄い青と海の紺がずっと遠くでひとつになっていた。水平線の美しさはどこの世界でも変わらなくて、そのことがちょっとだけ、わたしを安心させる。

 しばらくふたりでその場に佇んで景色を楽しんでいたのだけれど、真冬の海岸はさすがに寒くて、繋いでいないほうの手が悴んでくる。夏だったら裸足で歩いたりもしたのだろうけれどいまはそうもいかない。数歩先にそびえる砂の城は見た限り新しく見えて、猛者もいたものだ、と感心した。
 
「あの鳥ね、わたしのいた所ではカモメとかウミネコって呼ばれてたの」
 そういえば、と思い立って、海の上を飛び回る鳥を指さす。
「こっちではなんていうんだろう、って思って」
「シュレピヌ鳥ですね」想像よりも聞き覚えのある名前が返ってきて、ほっとする。
「へえ。街の名前がそのままついてるんだ」
 彼の瞳に映る海が静かに揺れた。長いまつげが影を作る。
「ずっと気になってたの。……これからも、こうやってこの世界のこと、教えてね」
「ええ」形の良い唇が弧を描く。「これからも、ずっと」

 言い終わらないうちに、彼の繋がれていないほうの手がわたしをぐっと引き寄せた。ポケットの中の手も自然に解かれる。瞼の裏で波が寄せて、引いて、輝いた。優しさに充ちた腕のなかはきっと、世界で一番あたたかい場所。






- ナノ -