第1話 春の巻 一 

──きみの夢のとなりに



 このままだと溶ける。鉄板みたくあついコンクリートと一体化するか、嘘みたいに澄んだ青空に吸い込まれるか。進んでも進んでも、遠くに見えるクラスメイトたちの姿がおおきくなることはない。わたしはため息をついて、走るのをやめた。それまで一定の間隔で流れていたのどかな──わるくいえば何もない──風景が止まる。深呼吸をして、伸びをして、また歩きはじめる。どうせクラス最下位だ。そんなのは走り出す前から、わかっている。

 入学式を終え、簡単な学力テストをこなし、次に待っていたのは体力測定だった。マラソン校内一周なんて言うから簡単なものだと思っていたのに、まったくもってそんなことはなかった。敷地一周二十キロ。馬鹿げている。人生で一度も、走ったことはおろか歩いたことすらない距離だ。

 道は何パターンかしかないから、迷うことはない。スタート地点は多少違えど最終的なゴール地点はどのクラスも一緒。彼に声をかけられたのは、大体半分を過ぎて、そろそろ運動の苦手な他の一年生に会ってもいいのではないか、と思っていたときだった。

 後ろから足音がして、けれど振り向いたりはしなかった。どうせ抜かされていく運命だ。どんな人なのか確認することはおろか、こちらの顔を見られることすら嫌だった。

「あの」

 わざわざ声をかけてくるなんて、わたしがこんなマラソンごときで歩いているのが余程気に食わないのかもしれない。ここに来てからというもの、女子も男子も皆体力がありすぎて驚きっぱなしだった。

 もしくはわたしには分からない何かが、よそ者オーラみたく溢れているのかも。自己紹介ではなんとなく気まずくて、出身校は言い忘れた振りをしていた。

「……えっと、わたしですか」

 おそるおそる、声のする方向へ顔を上げる。ずっとコンクリートばかり見ていたから、眩しくて何度かまばたきをした。背の高い男の子が、心配そうにわたしを窺っている。

「ああ、うん。その、大丈夫かなと思って」

 棘のない優しい声だった。こんな風に話す同世代の男子を、わたしはいままで見たことがない。こっちの人たちは皆優しいのだろうか。

「足を痛めたとかじゃなくて、ただ疲れちゃったの。わたし、一般家庭だったから体力も無いし」

 だからって堂々と歩きすぎてたね、とわたしが笑うと、彼も微笑んだ。声と同じくやわらかな笑みだった。明るい色の髪がなびいている。

「それならよかった。二十キロもあるなんてびっくりだよね」
「本当に。ちょっと後悔してる」

 後ろから三人くらいの集団が来て、わたしたちを抜いていく。一緒に歩いていて大丈夫、と聞きかけて、やめた。まだ彼の名前も聞いていない。せっかくの友達ができるチャンスかもしれないのだ。

「自己紹介してなかった」それでも同じペースに付き合わせるのは気が引けて、少しだけ歩く速度をあげる。彼は特に気にする様子もなく、合わせてくれた。「ミョウジナマエ、です」
「僕は、相川進之介」
 獣医目指してるんだ、と、相川くんが続ける。農家の子どもばかりがあつまる学校だと思っていたけれど、案外そうでもないのかもしれない。
「獣医さん、……すごいね」

 彼は──数分居ただけだから雰囲気と話し方しか知らないけれど──獣医という職業に向いているように思えた。夢があることも、実際にその夢を叶えるためにエゾノーへ来ていることも、わたしと同じ年とは思えないくらいすごいことだ。少なくとも中学で、ここまで具体的に夢を決め、行動に移す人はいなかった。

「ミョウジさんは?」
「……わ、わたしはまだ、夢とか決まってなくて」

 将来や夢の決まった人の多いなかで、わたしみたいなのは少数派なのだろう。ふわふわした気持ちで寮へ入った初日からずっと、同じようなシチュエーションに出くわしている。

「そっか」

 相川くんの返事はあかるくて、将来の夢なんて壮大な話をしていたとは思えないくらい気軽なものだった。
「うん」わたしも世間話みたいに相槌をうって、坂の向こうの同級生たちを眺める。また足音が近づいてくる。今度は躊躇わずに振り向いた。

「あ、八軒くん」

 眼鏡をかけた彼はどうやら相川くんのクラスメイトらしく、かなり疲れた様子だった。それでもなんとか走っており、このままだと余裕でわたしたちを抜かせるペースだ。ハッとして、相川くんの方を向く。「一緒に歩いてもらってごめん。先行って大丈夫」
「……ほんとに大丈夫?」

 たった今出会ったばかりだというのに、相川くんは本当に優しいひとだ。入学して一週間、少し辛い気持ちもあったけれど、なんとか頑張れそう、かもしれない。

「うん」
「じゃあまた」

 相川くんと"八軒くん"は、言葉を交わしながら遠ざかっていった。しばらくして、わたしもまた走り出す。



 部活動一覧を見て、わたしは今日何度目かのため息をついた。嘆いていてもこの学校に運動部しかないという事実は変わらない。受験前に大した確認もせず「吹奏楽部くらいはあるだろう」とタカをくくっていたころの自分を叱ることも出来ない。

「どうしよう……」
「まだ言ってるの? 諦めて一緒にテニス部入ろうよ」
 同じクラスの恵未が、ラケットを振る仕草をする。
「わたし、サーブ後ろに飛んでくけど大丈夫かな」
 体育の時の忌まわしい記憶を思い出す。とても無理だと思った。恵未も、それはちょっと、と苦笑する。
「じゃあさ、馬術部は?」

 馬好きなんでしょ、と栄ちゃんが続ける。クラスの違う彼女とは恵未を通じて──ふたりは同じ中学出身だ──仲良くなり、放課後はこうして一緒に話すようになっていた。早くに馬術部への入部を決めている。

「好きだけど、乗れるかは別」
「ええ、初心者でも大丈夫って言ってたよ?」
「そうなんだけど」わたしの運動音痴さったらない。ふたりにうまく伝わらないのがもどかしいくらい、わたしは体育が苦手なのだ。
「じゃあわたしたち、部活あるから」
「あ、うん。ありがとね」

 手を振ってそれぞれ部活に向かうふたりは、なんだかすごく遠い人に見える。わたしも早く決めなくてはならない。運動音痴でも怪我をしなそうなところ、もしくはマネージャーでも許されそうなところ。全校生徒部活必須でその上全て運動部、なんて、本当にめちゃくちゃなルールだ。それでも、校則を読み飛ばした自分に非がある。なんとか見つけようと、もう一度部活案内のパンフレットに目を通す。

 野球部、バスケ部、柔道部。
 ……ホルスタイン部、って、なんだろう。

「あの、すみません」

 地図を何度も確認しながら、部室(建物として独立しているから、部室という表現が当てはまるのかは微妙だ)のドアに手をかける。建物の後ろで雲が流れていく。

 ここに来る途中で一応運動部も見学させてもらったけれど案の定ついていける気がしなくて、結局ここまでたどり着いてしまった。ホルスタインを飼っているのは間違いなさそうだし、牛のお世話が好きな人たちが集まる部活なのだろうか。少なくとも運動はしなくて良さそうな感じがする。

「……ミョウジさん?」
 そっか、と急に思い出す。相川くんはここに入部したのだった。昨日寮で、誰かが話していた気がする。今はみんな部活のことで持ちきりだ。
「その、見学に」
「えっ! ミョウジさんがホルスタイン部に!? なんで!?」

 周囲に響きわたりそうなくらいの大きな声だった。マラソンで出会ってから数回、廊下や寮で話したりもしたが、こんな表情の彼は見たことがない。

「説明だけでも聞きに来ようと思って、……でもやっぱり、まずいかな」

 運動しなくていい部活ってないですか。そう聞いて回ると先々で「多分ホル部なら」と回答がくるのに、そのあと決まって「でもやめた方がいい」と止められていた。詳しい理由はあんまり教えて貰えなくて、だから結局、わたしはここに来ている。

「女子部員は募集してなかったりする?」
「そ、そんなことはないと思うよ」

 眉の下がった彼を見ていると、自分がものすごく場違いなところに居るような感覚になってくる。気を使ってくれているだけで、本当は変な申し出をしているのかも。思考はどんどん沈んでいって、無意識に半歩分後退りしていた。足もとの砂がジャリ、と音を立てる。近くで牛の鳴き声がする。

「何故かみんなにも止められて、……でもわたしさ、ほら、運動はできないし」不安が声に乗って、言葉はどんどん尻すぼみになっていく。「馬も好きだけど乗れない。牛なら乗ることは無いし、お世話は好きだからいいかなと思ってたんだけれど」

 やっぱりそんな甘くないよね。言いかけて、相川くんを見上げる。彼は予想に反して、楽しげに微笑んでいた。

「とりあえず中入ろう。見学しに来たんだもんね」
 いいの、と、意識する前に声が洩れる。
「いいも何も、僕も入ったばかりだし」
「……そっか」

 相川くんに続いて、部室に足を踏み入れる。扉の閉まる音がやけに大きく響いた。


「相川、誰か来てたか……ってじ、じ、女子!?」

 特徴的な髪型──といっても三人とも個性的だったけれども、トサカみたいな前髪だけ色の違う、特に目立った──をした男の人が、わたしを見て立ち上がる。それにつられるように、他のふたりも驚いた表情でなにやら話し出した。

「な! 女子が見学に!?」
「創設以来、女子部員ゼロの我が部についに……!」

 ざわめく先輩方とは別にもうひとり、男の子が居た。何となく見覚えがあるから、一年生のような気がする。入口で立ったままのわたしたちのほうへ近づいてくる。

「俺ら以外にも入部希望いたんだ」

 同じクラスの二又君、と相川くんが紹介してくれる。ウェーブがかった髪とくりっとした目が、親しみやすい雰囲気をかもし出している。

「C組のミョウジさん。見学したいんだって」
「はじめまして」

 緊張しながらも、簡単に自己紹介をする。そうして、わたしは声をひそめてたずねた。未だ部室には、なんとも言えない緊張感が漂っている。「女子、創設以来ゼロって……、そうなの?」

 だとしたら、ホル部の、エゾノーの歴史に名を刻んでしまう。初めての女子がわたしだなんて(まだ入ると決めたわけではないけれど)、許されるのだろうか。

「そうみたい。研究もできるし、僕は良い部だと思うんだけど」

 研究、というのは、やっぱり牛の研究なのだろうか。
 入学してからときおり、廊下や寮で凄く難しい話(単語からわからず、わたしには外国語にすら聞こえる)を耳にすることがあった。そのときは分からなくても仕方ない、と思っていたけれど、ここに入部するには知識が必要なのかもしれない。

「わ、わたしに出来るかな。文系だし、難しいことなんも分からなくて」

 説明だけでも、と思ってここまで来たはいいものの、牛についての論文なんて読んだことないし、生物の成績がどうだったかすらあやふやだ。そして覚えてないということは、そんなに良くないということでもある。

「……う、牛は好きか?」

 しばしの沈黙の後、先輩のひとりが控えめに聞いてくる。最初のインパクトが強くててっきり女子が入ることを好ましく感じていないのかと思っていたけれど、声色は優しかった。

「……はい! 好きです。可愛いし」

 スカートにぴったりつけたままの手が、汗ばんでいるのがわかる。まるでアルバイトの面接みたいだ。

「よし!」三人は顔を見合わせて、なにやら頷いた。
「なら大丈夫だ!」
「それだけで良いんですか」
 部室を見渡せば、そこかしこに牛のグッズや写真が飾ってある。
「一番大事なことだからな」
「まずは、我が部自慢の彼女に会ってからだ」
 すぐ近くで、牛の声がする。



 ホルスタイン部自慢の美しい牛──先輩方の圧はとにかく凄かったけれど、それはともかく彼女は本当に可愛らしかった──に会い、説明を受け、わたしは結局そのまま部活に参加することになった。まだ新入生の勧誘期間なので、活動時間は長くない。

 先輩方はまだ残るというので、一年生三人で寮へ向かう。辺りはぼんやりと暗くなり始め、畑や山の縁どりが揺らいでいた。彩度を落としたブルーが空一面に広がり、分厚い雲がゆったりと流れていく。木々の葉のこすれる音、動物たちの鳴き声、春の匂い。日中は慣れない作業に疲れたりもするけれど、ここで夕暮れを迎える度、この学校を選んでよかったと思う。この風景には、それくらいの価値がある。

「今日はふたりとも、ありがとう。それと、これからよろしくお願いします」
 隣を歩くふたりにむかって、軽くだけれど頭を下げる。
 ふたりは先輩方にも負けないくらいの知識があって、さっきも研究の話で盛り上がっていた。けれど難しい単語(というか、ほとんどが難しい)が出てきた際や、わたしが話についていけていないことを察したとき、ふたりのうちどちらかは必ず立ち止まって、小声で教えてくれたり、話をわかりやすくしてくれたりしたのだった。もちろん入部したからには毎回助けてもらうわけにはいかないから勉強するつもりだし、しばらくは記録係や雑用をこなそうと決めたのだけれど。

「うん。よろしく」
「わかんないことあったらいつでも言えよ」

 ふたりの暖かな返事に、わたしは涙が出そうになった。大げさかもしれないけれど、部活が決まらなかったらどうしようと本気で悩んでいたのだ。億劫がって高校見学に来なかったことも、先生にちゃんと聞いてこなかったことも、頭を抱えたくなるくらい後悔した。

 相川くんも二又くんも、それから先輩方も、牛に携わる人はみんな優しいんじゃないかっていうくらい親切にしてくれている。初の女子部員、というのはいささか気が重いけれど、わたしはなんとか部活を決めることが出来たのだった。


 




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