花曇りの話
「青空もいいけど、曇ってるのもまた素敵ね」
道の両脇には桜の木が並び、風が吹く度にひらひらと花びらが舞う。今日は気温が低いうえに曇りの予報だから、花見の客は少なかった。「狙い通り、人も居ないし」
ここは普段なら──天気が良く、風もないときであれば──連日宴会をする人で賑わう公園だ。テレビで特集を組まれたりもするし、知り合いに会う確率も高い。晴れているときに来るなんて考えられなかった。
ポオさんはちいさく微笑んで、私の方を向く。
「今年も君と来られて良かったのである」
「ふふ、ほんとうに」
ようやく春になったとはいえ、今日は一段と冷え込んでいる。ポケットから右手を出して、彼の長い外套の中へ入れた。すぐに捕まって、指さきからつながる。
「今年も寒くて曇る日があってよかった」
桜や梅が綺麗な季節になったら、まず天気予報を確認する。それから人の少なそうな曜日でなおかつ曇りの日に予定を立てる。ふたりきりのしずかな、お花見目的の散歩。
「そうであるな」
「こういう天気、花曇りって言うんだよね」
「……花曇り」前髪のすきまから、うっすらとひとみが覗いている。「聞き慣れない言葉である」
多分、彼の国にはない言葉だ。
こうして日本語について話すとき、私は彼と並んで歩いているのがすごく幸運なことだと実感する。出会って、恋人同士になって、花曇りのなか手を繋いで歩いている。きっと奇跡みたいな確率だ。
「春にしか使われないの。ちょうど今くらいの時期、桜が咲く頃の曇りのこと」
ポオさんがゆっくりと空を見上げる。私もつられて曇り空へ視線をむけた。絵の具で描いたみたいなおおきな雲が、灰色の空をつくりだしている。
「花曇り、……ひと言では訳せない。良い言葉であるな」
うん、とみじかい相槌を打つ。ふと思い出しただけの単語なのに、彼が声に出すだけで特別に響くのが不思議だった。
「覚えておくのである」
「ええ」
いつかポオさんが国に帰って離れ離れになったとしても。不意に、私は考える。こんな春の曇り空を見て今日のことを思い出してくれたら、それでいい。
「来年の花曇りの日も」その次の年も。もとから控えめな彼の声が、さらにささやかなものになる。「君と来られたらいい、のである」
「……うん。絶対来よう」
一瞬だけ目が合って、お互い声を立てずに笑った。私たちはきっと同じことを願いながら、桜のなかを歩いていく。
お題「花曇り」