同じ春を踏む ─ 番外編
サンダルを引っ掛けて、肘でドアを開ける。両手にはビニール袋がふたつ。先ほどから廊下の壁に何度もぶつかっており、その度がさがさと音を立てていた。そこまで重くはないけれど、とにかく嵩張る。ごみってどうして朝にしか回収してくれないのだろう。
わたしはため息をついて、固く縛った袋の結び目を持ち直す。たった数十メートルの移動なのに、ひどく億劫だ。それでもひと月のなかで、紙類を捨てられる日は限られている。絶対に遅れるわけにはいかない。意を決して、歩き出す。わたしは起きたままの格好で、寝癖もそのままだった。
帰り道。両手があいて、晴れやかな気持ちになる。眠気は過ぎ去り、頬には柔らかな風があたっていた。家の前で立ち止まる。おおきく息を吸い込む。春。虫太郎さんと結婚して、二度目の春だ。
朝ごはんを食べ終えたあと、虫太郎さんは新聞を読んでいた。正面の椅子に座ると顔が見えないので、わたしはソファから彼をながめる。文字を追うときの真剣な顔。休みの日でもきっちりセットされた髪の毛。わたしがアイロンをかけたシャツ。
「ねえ、ちょっと外に出ない?」
レースカーテンと床の間に、ひかりがゆらゆらとたまっていた。今日は天気がいい。予報でも、一日中晴れだと言っていた。
「お休みが今日だけなら、遠慮するけれど」でも、と立ち上がる。弾むような声が出る。「明日も休みでしょう? だから今日はわたしに付き合って」
椅子に座ったままの虫太郎さんに近づいて、後ろから首に腕を回す。そのまま軽く抱きしめる。最近になってようやく、こういうことも出来るようになった。それでも何気なしに触れる、というのは難しく、現にわたしの頬は赤く染まっているに違いない。虫太郎さんからは見えないし、もちろん自分で見ることもできないから、気にしないことにするけれど。
「いいだろう。だが海の方には行かん。人混みにもだ」
将来別荘を持つことになったら、と、もしも話をすることがある。決まって虫太郎さんは海から離れた林のなかの洋館と答え(神秘学と古代錬金術の本ばかりを置いた棚を作るらしい)、わたしは虫太郎さんと居られればどんなところでもきっと素敵、と答える。
「わかってる。人の多いところはわたしも嫌だし、海に行きたくなったらひとりで行くから」
一歩後ろに下がって、彼から腕を離す。名残惜しい気持ちもあったけれど、先週はこうして彼に触れていたら休みが終わってしまったのだ。今日はどうしても一緒に外を歩きたい気分だった。広げたままの新聞紙を折り目に沿って畳んで、コップを片付ける。
「……今日は行かんと言っただけだ。君がどうしても行きたくなった時は、」
「ちゃんと誘う」
家出(のようなこと)をしたわたしを迎えに来てくれたあの日以来、虫太郎さんは可能な限り、何処へ行くにも着いてきてくれる。文句を言われることもあるけれど、一緒にいるときは何だかんだ楽しそうにしている(ように見える)ので、わたしからも誘うようにしていた。
「ああ。行くかは気分次第だが」
「そんなこと言って、絶対着いてきてくれるくせに」
彼は前よりずっと分かりやすくなったように思う。どこか距離が近づいた、といってもいい。ときどき友人のような親しさ──夫婦関係で生じるものとは全然違う──で、わたしに笑いかけるようになった。これが元の虫太郎さんなのかもしれない。
「君にはかなわない」虫太郎さんが両手を上げて、おおげさに肩をすくめる。
▽
河川敷では、ずっと先まで桜が続いている。目的地はとくに決めず、わたしも虫太郎さんもただ歩いてきていた。わたしから誘うときはいつもそうだ。理由も用事もない散歩。こういうのは約束してしまうとできない。虫太郎さんといつでも好きな時に外を歩ける、というのは、一緒に住んでいてよかったことのひとつだと思う。
川に来たのも、なにか特別な理由があるという訳ではなかった。海には行けないから、気分だけでも味わうのだ。なんでもいいから水がみたいってときがある。たくさん水のあるところへ行くと、浄化されるような気持ちになるから。
「わたし、こういうのが夢だったのかもしれない」
ドレスなんかじゃなくて。いつかした会話を思い出しながら、言う。この景色も虫太郎さんも、結婚前、確かに思い描いたような気がする。彼の家で彼を待つ、あの孤独でしあわせな午後に。
「こういうの、というのは」
虫太郎さんがほんのわずかに眉をひそめた。わたしの言いたいことをきちんと理解しようとするとき、彼はときどきこの顔になる。適当に合わせることも可能なのに、わたしの夫はなんて誠実なのだろう。もっとも彼の周りの人から見た彼にそんなイメージはないだろうし、わたしの友だちに言ってもきっと分かってもらえない。だから彼の良いところはすべて、わたしだけの秘密ということにしている。
「休日の朝に、旦那さんと散歩するの。手を繋いで」
しばし間があって、虫太郎さんがとても自然とはいえない動きでわたしの手をとる。繋いでほしくて言ったわけではなかったけれど、これはこれで嬉しい。彼の不器用なやさしさは、いつもまっすぐ、わたしの全身に届く。
「……ありがとう。夢、叶った」
「そうか」虫太郎さんはわたしを見つめて、それから照れたようにちいさく笑った。
今日の彼はこの間の休みに買ったジャケットを着ていた。ネクタイはせず、ボタンもひとつ空けている。いかにも休日の彼、といった感じだ。彼を仕事に取られてしまいそうな気配は微塵もない。基本はかっちりしているけれど、どことなく雰囲気が柔らかかった。
糊つきのシャツしか着ない、とか、磨きあげられた革靴しか履きたくない、とか。彼のこだわりは山ほどある。けれどそれらをかいくぐって、わたしはスーツばかりだった彼に、少しずつラフな格好を提案していったのだ。こういう、もしあの夏出会わなかったら存在していなかったであろう彼のすがたを見るとき、わたしは得意げで、けれどどこか気恥ずかしく、自分では上手く形容できない気持ちになる。
「……これからも叶えてね」
春の朝だけじゃなくて、夏のお昼も。秋の夕暮れも、冬の夜も。彼と手を繋いで歩けるしあわせは、何度味わってもきっと夢みたいな心地がする。
「ああ」
虫太郎さんの返事は、短いけれどどこまでも真実だった。彼の気持ちは声から、表情から、温度から伝わって、丁寧にわたしのなかへ入ってくる。
木の揺れる音。嘘みたいに青い空。ゆるやかな風。花の匂い。それから、虫太郎さんの声。指さきの感覚。
わたしたちの二回目の春は、しずかにかがやいている。
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