この夜にふたりやわく溶かして
入り込んで、一歩分
ストッキングに引っかからないよう気をつけて足を入れ、おろしたてのワンピースに袖を通す。派手すぎず、かといって暗すぎもせず、適度に華やいだ印象にしてくれるそれは、この間の休みに買ったものだった。小ぶりなパールのピアスをつけ、化粧をしていく。口紅やチークは控えめに、マスカラは毛先まで綺麗に伸ばす。目の下に少しだけラメを乗せて、ハイライトで鼻すじを微かに輝かせる。
玄関前の鏡を見て、全身をチェックする。バッグの色は適切か、毛玉やゴミはついていないか、髪は跳ねていないか。今日の目標はすべてを滞りなく終わらせ、当たり障りのない印象を与え、何もせずに帰ってくることだ。
そうして無事家に着いたらポオさんに電話かメールをしよう、と決める。メールなら落ち着いて話せるに違いない。でも、わたしはポオさんと違って文章が上手くないから、なにか誤解をうんでしまうかもしれない。誤解。そんなものが発生する間柄なのかすらあやしいけれど。かといって電話をすれば、愚痴や不満、その他あまり楽しくないことばかりを伝えてしまう気がして、それはそれで嫌だった。想像するだけで落ち込みそうだ。
鍵をしまおうと鞄を覗くと、手帳が入っていなかった。昨日退勤する前にメモを取って、そのまま置きっぱなしにしていたのだ。待ち合わせの前に探偵社に行こう、と考えた途端、足取りが軽くなるのを感じる。皆に会ってから向かった方が、きっと自然に話せるだろう。
通い慣れた道は深い秋の匂いがした。街路樹の葉は落ちかけ、木枯らしにさらされている。頬にうける風が冷たくて、マフラーを巻いてこなかったのを後悔した。ショウウインドウの前で立ち止まる。寒そうに見えるだろうか。
マフラーを取りに戻るのは諦めて、コートの襟の位置を直す。一息ついて歩き出せば、探偵社はもうすぐそこだった。
「あれ?確か、今日は非番でしたよね」
仕事をしているフロアへ辿り着くと、賢治くんが出迎えてくれた。さらさらした金髪が若々しくきらめき、人懐っこい笑みを浮かべている。
「そうなの。でも手帳、置きっぱなしにしちゃって」
「そうだったんですね」
ただ忘れ物をしただけなのに、賢治くんはわたしを労うように声のトーンを下げた。眉も一緒に下がっている。すぐ近くで予定があるからちょうど良かったの、と伝えれば、表情も声色もぱっと明るく、少年らしいものへ変わっていく。
賢治くんはまぶしい。可愛らしい笑顔も、真っ直ぐさも、親切さも、芯の強さも。
純真さにみとれているうち、賢治くんがあ! となにかに気がついたような声を上げる。「乱歩さんの知り合いの、……ええっと、ポオさん。来てましたよ」
彼の口から出た名前に、わたしは飛び上がるくらい動揺した。賢治くんはそんなわたしをとくに不審がる様子もなく、ではまた、と手を振って去っていく。
ポオさんが探偵社に来ている時は、前よりもずっと長く立ち話をするようになったし、アライグマが入れる店は結局うずまきしか無かったから、休みの日にふたり(とカール)でご飯を食べに来て他の探偵社員に遭遇することも何回かあった。だから今の賢治くんのように、彼が来たらだいたい誰かがわたしに伝えてくれるようになっていた。
付き合っているわけではない。わたしたちはあくまで友達といったていで、ここまで過ごしてきている。誰かに聞かれても、それは同じだ。ポオさんがわたしの恋人、なんて。噂になるのもおこがましく、けれど彼を見かけると、そんなことはたちまち忘れて話し込んでしまうのだった。
自分のデスクのある部屋へゆっくりと歩いていく。探偵社はそう広くない。ポオさんが廊下に出れば、わたしとすれ違うのはほとんど確定していた。今日は会いたくない、と思っているのに、心のどこかでは会いたい、と願っている。だからわたしは早足で進むことが出来ないし、さっきから辺りを見渡してばかりだ。
ドアの前まで来た。忘れ物を回収して、待ち合わせ場所へ向かう。ポオさんには会わない。頭の中で整理して、深呼吸をする。
「莫迦だねえ、忘れ物なんて」
足を踏み入れて一秒も経たないうちに、横から間延びした声がした。乱歩くんだ。
「今日が初めてだもの。いつもじゃない」
「そんなの言われなくてもわかるけど」新聞とお菓子の袋を抱えた彼は、わたしと入れ替えで出ていくところのようだった。「ポオ君に会いに来たんでしょ。手帳、さっさと取ってきなよ」
「……別に、そういうわけじゃ」
乱歩くんは呆れたように、おおげさなため息をつく。それから持っていた物をすべて、すぐ近くにあったわたしのデスクへ置いた。手帳は下敷きになり、見えなくなっている。
「君もポオ君も本当に面倒くさい」
僕が居ないと何も出来ないんだから。そう言って、わたしの椅子へ座る。
「わたしの席なんだけど、……」
そんなことは彼も知っている。言ってもどうしようもならないのは分かっていても、このあとの状況が読めていても、わたしはそうするしかなかった。
乱歩くんが勢いよくドアを指さす。茶色の外套がなびいた。突然目の前を横切った手にびくりとして、頭が揺れる。乱歩くんは立ち尽くすわたしの背中をやや乱暴に押して、言った。「いいから行きなよ」
開きっぱなしになっていたドアを出てすぐのところに、ポオさんは居た。乱歩くんと話しているときから覚悟は出来ていたから、驚いたりはしなかった。そしてそれはきっと、ポオさんも同じだ。
「ポオさん、」
彼の姿を視界に捉えた途端胸がいっぱいになって、絶対そんなこと出来るはずもないのに、抱きつきたくて堪らなくなった。夕焼けのひかりが窓から洩れて、ポオさんはオレンジに照らされていた。
「ポオさんの顔を見てしまったら、……ポオさんと話したら、もう頑張れない気がする」
諦めにも近い感情が渦巻いて、消し去るように手をぎゅっと握る。手のひらに爪が当たって、ああこれは現実なんだ、と理解する。待ち合わせのビルが、ここから果てしなく遠い場所にあるように思えた。
「今日は、……その、何か頑張らなくてはいけない仕事でも」
「違うの」
俯いたまま彼の方を見ようともしないわたしに、ポオさんが近づいてくる。ブーツが床をける、独特の音がする。
「では、何を」
なぜ彼にこんな話をしているのだろう、と思った。わたしにとっての彼は、もっと楽しい、おだやかな話をすべき人だ。
「……会食、って、言うのか分からないけれど。ずっとわたしが担当してたところの会長さんの息子と、ふたりで」
前にも会ったことのある、あまり好ましくない同年齢の男。有名大学を出ていて、次の社長に内定している。プライドが高くて、騒がしい。ふたりきりになった途端に態度が大きくなる。多分、自分が不利になるようなことはしないタイプなのだろう。息子だとは信じられないくらい、会長とは何もかもが違った。だからこそ、一度は言われた通り食事に行き、会長も息子もプライドを傷つけることなく、それとなく断るという手段を選ぶことにしたのだ。あの男は少なくとも、わたしに良くしてくれている(そして、探偵社を贔屓にしてくれている)会長の前では、いい息子を演じている。
一通り思い出したところで、気持ちはどんどん沈んでいった。ポオさんに聞こえないように、ちいさく息を吐く。「行きたくなくなっちゃったな」
「……無理に、行かなくても」
「電話も、すごく来るの。……わたし、ポオさんとの時間を取り戻したいの」
実際それが原因で、ポオさんからの電話に出られないことが増えている。遅くまで話を聞かなきゃいけない時もあるから、夜に貰ったメールを朝に返すことになってしまうのも多々あった。それでもポオさんにあのひとのことを相談する気にならなかったのは、やっぱり彼との間に現実なんて持ち込みたくないからだ。
ポオさんとの時間は、いつだってしずかでうつくしい夢みたいだ。
「その会食は何時に、終わるのであるか」
彼がどうしてそんなことを聞くのか分からなかった。そんなことを聞かれては、わたしが帰ってから電話をくれようとしているのかと期待してしまう。
「十八時からだから、二十時すぎとか」
一応携帯でメールを確認して、答える。少なくともこれから三時間は、彼の存在を感じることができないのだ。たった今目の前にいるのに、身体中が寂しさに捕らわれていく。
「……えに行っても」
ポオさんの言葉はいつにもまして密やかな響きを持っていた。一歩分近づくと、ポオさんもわたしのほうへ屈んでくれる。
「迎えに、行ってもいいだろうか」
信じられない提案だった。迎えに来てくれる。ポオさんが、わたしを。遠のいていた彼との距離が一気に近づいていく。ポオさんがどこかで待っていてくれるなら、わたしは誰といても、わたしで居られると思った。
「本当に、いいの」
ポオさんが微笑む。髪の毛の奥のひとみと視線が合った気がした。今まででいちばん、彼を近くに感じる。
▽
俺も親父に言われて仕方なく来てるからさあ。目の前の男の声が、おおきな文字になって料理の上を漂う。あの武装探偵社の社員だって言うからこうして付き合ってるけど。新しく生まれた文字は床やウエイトレスの持つ銀のお盆やシャンデリアや、とにかく色んなところへ散らばっていく。君みたいな主張が無くてつまらない女、モテないでしょ。最後の言葉だけがまっすぐわたしのほうへ向かってきて、そのまま体をすり抜ける。
どんなにくだらない想像をしても、どんなにBGMのクラシック音楽に耳を傾けても、男の話は終わらない。料理はいくら口へ運んでも、味がわからなかった。わたしがほとんど話さず、けれど微笑みを絶やさないようこころがけている間、男やお店のひとはやたらと酒を勧め、届けてくる。機嫌を取るにはおとなしく飲むしかなく、途中で席を立ったときには足元がふらついていた。戻って直ぐに水を注文し飲み始めるとまた男は大きな声でわたしを罵倒した。女はこれだから。つまらないのに酒も飲めない。
そろそろ時間が迫っていた。わたしが開放される時間。ポオさんのもとへ一刻も早く戻りたい、とそればかり考えていた。
「この後なんだけど」
会計を済ませ店を出ると、黒い車が停車していた。男の息が首にかかって、背中がぞわりと震える。遠慮なく腕を捕まれ、痛みがはしる。どうすべきか迷って、ポオさんの待つ方向をむく。
「この後、ですか」
わかるよね、と男が言う。気分が悪くなって、口のなかをやわく噛んだ。スカートの裾をぎゅっと握り締める。
「予定があるので、失礼します」
そこからは一瞬だった。わたしは一目散に駆け出した。ヒールの音が街に高く響いて、愉快な気持ちにすらなる。髪が乱れるのも、夜風が体を冷やすのもどうでもよかった。一度振り向いて、ありがとうございました!と叫ぶ。唖然とした男と車からでてきた運転手の顔を見て、声をあげて笑った。追われてもいないのに走って、たまに止まって、また走って、そうしてやっと、煌びやかな街を抜ける。
▽
辺りを照らす街灯の下に、ポオさんは立っていた。周りに人は沢山居るのに、そこだけがくっきりと浮いて見えた。わたしを待つ彼だけが、冷えきった夜の底で唯一のひかりだった。
横断歩道の信号が変わる。なかば駆け出すような形で、ポオさんのもとへ向かっていく。話したいことで溢れていた。
わたしは、ポオさんが好きだ。
「……ただいま」
彼の前まで来ると息が切れていて、声になったのはたったの四文字だった。こんなに急いで誰かのもとへ向かったことなどなかった。はっと気がついて、視界に入った髪の毛を避ける。手櫛で梳かすうち、一体どんな姿で彼の前へと飛び出してしまったのか不安な気持ちになった。
「……おかえり」
わたしは未だかつて、こんなにやわらかで完璧なおかえり、を聞いたことがない。特別な言葉みたいだ。いや、実際特別なのかもしれない。帰るべき場所にただしく帰ってきた人しか貰えない挨拶。ポオさんは少し照れたように、呼吸を整えるわたしを見ている。
「ちょっと歩きませんか」
肯定も否定もなく、けれど意思はしっかり伝わった様子で、ポオさんはわたしの隣へ並ぶ。彼の顔を見ようと上を向けば、恐ろしいほど完全な丸を描いた月が出ていた。
金のコインみたいな月。
歩き出してしばらくしたころ、ポオさんがわたしの手を取った。それはびっくりするくらい自然な動作で、今まで幾度となく繰り返されてきた行為のようだった。だからわたしも、ずっと彼の隣に居たみたいに、彼の手を握り返した。ポオさんの手から体温がうつる。店を出たときに感じた薄暗い寂しさも秋の冷たさも、すべてが攫われて夜に解けていた。
「君が前に言っていた金のコインは、今日の月みたいなものをいうのだろうか」
「そう!まさしく、こんな感じ」
怖いでしょう、ともう一度月を見る。黒のキャンバスに描いたみたいな不自然な月は、わたしたちがどれだけ進んでも必ずついてきていた。大きくなったり小さくなったりしながら、どこまでも追ってくる。変な感じだ。今日は不思議と怖くない。
「怖くないかも」
「むしろ、綺麗であるな」
「ひとりで見たときは、確かに怖かったのに。ポオさんと居るから、そう見えるのかも」
ポオさんとこうしていれば、金の月も雷も、なにもかもがうつくしく映るのではないか。そんなことを考えてしまうくらい、指からつたわる温度は愛おしく、あたたかなものだった。ふと会話が途切れて、音のない時間ができる。街の雑踏から、わたしたちだけが切り取られてしまったみたいだ。帰ってこられた、という実感がする。あの華やかで、騒がしいところから。
「…………わたし、思ったの。嫌だ、触られたくないって。一緒にいるのがポオさんだったら良かったのにって。何度も」
唐突に、手が離れる。ポオさんは一回だけ頷いて、外套を脱いだ。そうして、真っ黒なそれをわたしの肩にかける。ポオさんよりずっと小さいわたしはすっぽり包まれてしまった。ポオさんの家の匂いがした。彼に抱きしめられているみたいだ、と思った。
「君を、今日」すこし屈んだ彼が、わたしの目を見て言う。こんなに近くで彼とみつめ合うのは初めてだ。「……連れて帰りたい、のである」
返事の代わりに彼に近付いて、そっと抱きつく。
「連れて帰ってくれるの」語尾のすこしあがった、けれど質問にはなりきれないわたしの声には、自分でもはっとするほどの心細さが滲んでいた。ポオさんがわたしの背中に手を回して、距離を完全にゼロにする。
▽
肩が重い。動こうとするだけで背中がやんわり痛む。状況が掴めないまま、わたしはゆっくりと目を開ける。わ、と声を上げそうになった。すぐ近く、というかわたしにもたれ掛かるようにして、ポオさんが居たからだ。テーブルには飲みかけの紅茶と、カールらしきアライグマだとかよくわからない単語の並びだとかが書かれた紙が置かれ、近くに光沢のある黒いペンが転がっている。
ソファの影から、カールが顔を出す。軽快にわたしの足に飛び乗り、それからポオさんの膝へ前足をかける。
カールによるごはんの催促──ポオさんの腕をかりかりと引っ掻き、可愛らしく彼を見上げている──を眺めるうち、昨日の記憶がだんだんよみがえってくる。
そうだった。会食のあと、わたしはポオさんのうちへ連れられて、それから──。
「……カール、おはよう」
すぐ隣で、いつもより低くて掠れた彼の声がする。ポオさんは冬毛になりはじめたカールの背中を撫でながら、ぼんやりとテーブルを見ている。頭もこちらにもたげたままだった。たったいま起きたばかりで意識が覚醒しきっていないのだろう。
「ポオさん、……あの、おはようございます」
彼は、わたしもつられてびっくりしてしまうくらいのすごい勢いで肩から離れて、それから三回くらい瞬きをした。
「…………お、おはよう」
ほとんど声になっていない、ささやかな朝のはじまり。このひとの隣で夜を越えたのだ、と実感する。もっともここはベッドではないし、服はふたりとも昨日のままだ。一線を超えるどころか、わたしたちはキスさえしていない。
「話してる途中で寝ちゃうのなんて、何年ぶりだろう」ひとつひとつを丁寧に思い出しながら、言う。「楽しかったな」
彼がふ、と笑う。朝の日差しみたいな笑みだ。
「……我輩も、楽しかったのである」
「連れて帰ってもらってよかった」
痺れを切らしたカールが、ポオさんの膝から飛び降りる。彼も後に続いて立ち上がった。朝ごはんの用意をするらしい。
「いま何時だろ」ひとりごとのように呟いて、携帯を開く。昨日の男から、着信が三件とメールが一件来ていた。そっと削除して、待受画面を開く。まだ始発に間に合うような、早朝といってもいい時間だった。「今日仕事だった。帰らなきゃ」
彼がきちんと掛けてくれていたコートを着て、床に置きっぱなしだった鞄を抱える。化粧も落としていなければ、中のワンピースは裾のところがくしゃくしゃになっていた。早く帰って、出勤の準備をしなければいけない。
「……また、電話を」
玄関まで送ってくれたポオさんが、そっとわたしに触れる。頬に、指先の熱が伝わる。それがあまりにも恋人じみた動作だったから、わたしは内心ドキリとした。昨日の夢はまだ続いている。
「待ってます」
彼の手にわたしの手を重ねて、ゆっくりと下ろす。目が合う。たった一瞬だったのに、そこには永遠にも感じられるくらいの濃密さがあった。わたしが目を逸らして背を向けても、お互い何も言わなかった。
ドアを開ける。朝の真新しい空気が、わたしを包む。