この夜にふたりやわく溶かして
距離なんていらないね
バケツをひっくり返したような、というよりは、勢いの良すぎるシャワーのような、雨。大きな水の粒がコンクリートに打ちつけられる度バチバチと派手な音を立て、色とりどりの傘にはじかれていく。街の建物や空の彩度はぐっとさがるけれど、雨の日の横浜の色合いは鮮やかだ。秋だから、というのもある。コートも靴も傘も何もかも、確実に冬へと向かっていく世界に合わせた、どこか統一感さえある色たちばかりだ。完全に赤く染る前の紅葉を思わせるべたっとしたイエロー、ワインみたいなバーガンディ。深くてしぶいグリーン。そこかしこに出来た大きな水たまりに映る人々は皆、絵画から出てきたみたい。
水が跳ねて、ズボンの裾に染みていく。雨の当たらない位置までさがって、カバンを床へ置いた。屋根の下から空を覗き込んで、しばらく止みそうにないのを確認する。ため息が出た。
今日最後の仕事は得意先に書類を届けに行くだけという簡単なものだった。社を出る前は天気が良かったし、直帰で良いと言われたこともあって、わたしは上機嫌で仕事をこなした。顔馴染みの人が多い会社だったから、お茶とお菓子をご馳走になったりもした。そうしたら外が曇っていって、ついに小雨が降り出した。
「傘お貸ししましょうか」
出ていくわたしに、受付の女の子が言った。社員用のビニール傘があるから、と。それを、鞄の中身を入れ替えたことを忘れていたわたしは、折り畳み傘があるからと断ったのだった。存在の確認もせずに。
まだ霧のような雨だったこともあり、わたしは傘をささずに街を進んだ。昨日ポオさんと電話で話したことを思い浮かべながら、また、この間の週末に行った動物園での様々な場面を思いだしながら。
連絡先の交換をしてからというもの、わたしとポオさんは週に一回くらいのペースで電話をしていた。それから週に二回くらいは、メールのやり取りもする。大体はカールの写真が、ごく稀に新作小説の一部が添付されていた。お互いに生活があるから、どちらも毎日とはいかない。共通の趣味や職場を通じて知り合ったわけでは無いから、四六時中びっちり話すような話題もなかった。そのかわり、なんてことない日常の報告をする電話の一回一回が、会った時より饒舌だけれど存分に彼を感じられるメールの文章ひとつひとつが、この上なく貴重で大切に思えた。彼の居ない空白の時間に、彼について考えることが増えていった。
最寄りの駅までたどり着いた頃には、コートも鞄も水を吸って重くなっていた。髪など最悪だ。前髪は額に張りつき、下ろして巻いた髪はまっすぐ伸びて雨粒を滴らせている。
「最悪、……」
ひとりごちて、それからはっとして辺りを見渡す。ぼうっとしている間に、誰か雨宿りに来ているかもしれない、と思った。最近のわたしは前にも増してぼんやりしていると、今朝もナオミちゃんに言われたばかりだった。けれど屋根の下にはわたし以外誰もおらず、ほっと胸を撫で下ろす。
しばらく経っても、一向に雨は止まない。靴は歩くたびに、ぬかるんだ田んぼ道を通ったときみたいな音を立てるし、携帯の充電はどんどん減っていった。お昼までは晴れていて、書類を濡らさずに済んだことだけが幸いだった。
待っていても意味はなさそうだし、と屋根の外へ出て家へ帰る決心をする。タクシーやバスの乗り場が混み始め、遠くで雷の音が聞こえ始めたときだった。顔を上げた途端、目の前に影ができて、反射的に後ずさりする。一気に鼓動が早くなって、手先が冷えた。
「こ、声はかけたのであるが」
ポオさんが申し訳なさそうに言って──思えばいまさっき、近くで声がした気がする。けれど雨と車の音に紛れていたから、まったく気にかけていなかった──わたしの隣へ並んだ。ものすごく控えめに傘の水を落として(この仕草をこんなにゆとりをもって優雅に出来るひとがいるのか、とわたしは謎の感心をした)、畳む。脇に薄い紙袋を挟んでいて、おそらく本が入っているのだろう、と推測する。
「わ、ポオさん。びっくりしました」
「我輩も……」
雨にまじって、彼の匂いがする。あまり意識すると会話がぎこちなくなるのを最近学んだわたしは、わざと顔を背けて空のほうを見上げた。
「偶然であるな」
「本当に。こんな雨で最悪、って思ってたけど」
ポオさんに会えて良かった。言いかけて、飲み込む。直前で気恥ずかしくなったからだ。
「ずっとここで待ってたけど止みそうにないし、もう帰ろうと思って。ポオさんはどうしてここに?」
「どうしても、資料で欲しい本が……」
「言ってくれたらわたし、代わりに行ったのに。あ、でも傘持ってないから、やっぱり駄目かも」
肩が少し濡れただけのポオさんと違って、わたしは頭からつま先、カバンに至るまで水を滴らせている。彼からはきっと惨めに見えているだろう。早く立ち去りたい、と思った。
「じゃあ、そろそろ。帰ってお風呂でも入ります」
「……あ、あの、君の家は」
わたしが一歩踏み出したあとすぐ、ポオさんの靴音が響く。わたしたち以外にも雨宿りに駆け込んでくる人がちらほら増えてきていて、あたりは騒がしくなりはじめていた。風も強くなっている。
「ここから電車で二駅です」
ひとでぎゅうぎゅう詰めになった帰りの電車を想像して、憂鬱な気持ちになる。身体は冷えきっているから、人口密度が高くなって温度が上がるのはちょうど良いけれど、同じように濡れた人たちと肩を寄せ合いながら運ばれる場面は想像だけで閉口してしまう。
「今は確か、電車は止まっているはずである」わたしが家の場所を告げてからやや間を置いて、彼が言いづらそうに言う。
「ええ!……だからあんなにタクシーとか並んでたのかあ」
ポオさんに会えて嬉しかった気分も、またたく間に沈んでいく。会えたと言ってもコンディションは最悪だ。めずらしく着ているスーツは色が変わり、巻きの取れた髪は昆布みたいにべたっとしている。
タクシーの台数はとても間に合っているとはいえず、一台も車の停まっていない乗り場には何回も折り返すほどの人々が並んでいるのだった。最早色とりどりの傘が綺麗だとかコートがどうとか、言っている場合ではない。わたしもいまからあの列に参加するのだ。傘無しで。
「……もし良かったら」
え、と聞き返す。頭上に広がっていた空が黒色に遮られる。屋根から身を乗り出して駅を眺めるわたしが濡れないよう、ポオさんが傘を差してくれていた。知らないうちに近付いていた距離にどきりとして、しずかに息を飲む。ふたりしか居ない傘のなかで、彼のちいさな声と雨音だけが響く。「……我輩の家に」
「え、あの、……良いんですか」
声が上擦って、裏返る手前だった。どんな状況であれ、彼の家に誘われる日が来るなど、想像もしていなかった。瞬きが増え、それによって目の前がちかちかしはじめる。今すぐ鏡を取り出して、口紅が落ちていないかを確認したくて仕方なくなる。
「その……君が嫌でなければ、であるが」彼が傘の柄を持ち直すと、雫がバラバラと落ちた。世界にはポオさんとわたししか居なかった。「カールも喜ぶのである」
▽
彼の家に着くまではほとんど無言だった。さらに雨が激しくなってきて話す余裕もなかった、というのもあるけれど、緊張しているのがお互いに伝わりきっているのもあった。
乱歩くんがよく来るというポオさんの家は想像よりもずっと大きくて、なんというか、洋風のお屋敷みたいなところだった。本当なら目立つはずなのに、辺りに馴染んでいる。ずっと前からここにあったのか、彼がここに来ることになってから建てられたのかは分からない。
「ごめんなさい。押しかけるみたいになってしまって」
誘ってくれたのはポオさんからだけれど、今思えば、あの状況でわたしをひとり置いていくのは彼の性格上、難しいことだったのかもしれない。彼の負担になっていたら、と玄関の前で足を止める。
「いや我輩が、無理に……」
湿気を含んだ彼の前髪は、いつもよりも重たそうに見える。静まり返った長い廊下は、するどい冷たさを漂わせていた。
「そんなことないです。でも、服も髪も濡れてるから、このまま入ったら部屋が水浸しになっちゃうわ」
ポオさんがドアを開けて、わたしに入るよう促した。応接間のような部屋を抜け、奥の部屋へ通される。乱歩くんと晶子ちゃんが来たのはこの部屋なのだろうか、と疑問が浮かんだけれど、水滴を垂らさないよう進むのに精一杯で、聞くことはかなわなかった。
「ここにあるものは、自由に使って構わない」
他の部屋と違う形状のドア──おそらくバスルームに繋がっている──の前で、彼が言う。
「服も手配を、」わたしが断る前に、ポオさんが窓の外を見た。この天気では、何を調達するのも難しい。
「ドライヤーをお借りして、乾かします」
ドアを引っ掻くような音がして、ポオさんが右の部屋の方をむく。カールだ。わたしたちが帰ってきたことに気がついたらしかった。
「我輩はカールとあの部屋に……」
「わかりました。すぐ戻ります」
ドアノブをひねって中へはいると、やっぱりそこはお風呂場だった。広い脱衣所の向こうに、ガラスで出来た扉がある。広々としたお風呂や棚に積まれた柔らかくて上質なタオル。大きな鏡。つめたい床はよく磨かれていて、屈めば自分の姿が映りそうだった。
水を吸って重くなった服を脱いで、すばやくシャワーを済ませる。シャツもズボンも靴下も、ドライヤーをあてればあっという間に乾いた。外套も、冬用のものでなくて良かったと思った。
すっかり忘れていたけれど、化粧をしていない顔を誰かに見せるのは久しぶりのことだ。化粧ポーチは持っているけれど、仕事の日だったのもあって、中身はそんなに充実していない。時間をかけるわけにもいかず、少し迷って眉毛だけ描くことにした。部屋を出る前に、口紅も引くことにする。
「ポオさん、お風呂ありがとうございました」
全部乾きました、と報告するうち、カールが足を軽く引っ掻いてくる。しゃがみこんで首のあたりを撫でる。
「それ、もしかして資料の本ですか」
「……そうである」
ポオさんが持っている本を見て、また申し訳ない気持ちになる。わたしが居なければ本が濡れて波打つこともなかったし、彼の肩が濡れることもなかったのだ。机の上には色の変わってしまった紙袋が畳んでおいてある。
彼の傘は大きかったけれど、ふたりで入るには少しだけ狭かった。その上わたしのほうへ傾けてくれるものだから、彼も本も水が掛かってしまっていたのだった。そのまま湿ったページをめくろうとしている彼を見るうち、昔得た知識が頭を過る。
「あの、……ちょっと時間かかっちゃうかもしれないですけど、袋に入れて冷凍庫に入れると」
「冷凍庫?」
「テレビで見ました。半日くらいでいいのかな、とにかく元通りになるらしくて」
「や、やってみるのである」
はい、と短く返事をして、カールを抱き上げる。リビング──バスルームと同じく何もかもが上等そうで、また広々としていたものの、あまり使われていないのか生活感がない──へ移動して、そのままキッチンへ着いていく。慣れない手つきで本をしまった彼は、わたしの腕に収まったカールを優しく撫でて、執筆部屋(聞いた訳では無いけれど、多分そうだと思う)へ引き返す。慌てて後ろへついていく。
「申し訳ないです。本までべしゃべしゃにしちゃって」
ポオさんが原稿用紙と本が沢山置かれたデスクに戻ったので、わたしは部屋の真ん中に置かれたソファへ腰掛ける。体重をかけた分だけ沈んでいくような、座り心地の良いソファだった。
「……本は元に戻るから、問題はない。それに、……」
続きを待っていると、部屋全体がひかりに包まれた。雷だった。ふたりとも数秒固まって、窓に視線を向ける。地鳴りのような低い音がする。カールも合わせてそちらへ顔を向けた。その光景が可愛らしくて、ふふ、と声が出る。
「それに、なんですか」
「君に……」
ポオさんが言いかけた途端、また雷がなる。無意識に手に力が籠っていたらしく、カールが身動ぎする。ごそごそと腕を抜け出して、太ももへそっと顎を乗せた。そのまま目をつぶって寝始める。ささやかな重みに、頬が緩んだ。
「雷、すごいですね。ちょっと怖いくらい」
外は大分暗くなっていて、けれど雨も雷も収まりそうな気配はなかった。電車もまだ止まっているだろう。
ポオさんは椅子から立ち上がって、わたしの隣まで来てくれる。
「特別苦手な訳でもないけど、怖いものってありますよね」
「……例えば」ポオさんが興味深そうに続きを促す。
「例えば、ええと」応えようと考えるほど変なものしか浮かばなかった。諦めて、そのまま挙げていくことにする。「金色のコインみたいな満月とか、あと、伸びきって塔になったレタス」
彼が、とう、と平仮名の発音をする。建物の塔みたいな、と付け足せば、ああ、と納得したように頷く。「……塔になったレタス」
「わたし、昔家の前の庭で育ててたんですけど、夏が終わってふと見たら、すごく細く伸びてて。なんか怖かったんです」
ポオさんが声を出さずに笑う。つられて微笑むと、視線が交わった。髪の隙間から片目だけが見える。
ソファへ置いた彼の手が、わずかにわたしの指先へ触れる。遠くから雨の音が、すぐ近くでカールの寝息が聞こえる。すぐに謝って、手を離そうと思った。偶然ぶつかっただけだ。ポオさんにもわたしにも、特別な意図はないはずだった。グレーのひとみが鈍くひかる。部屋のなかが明るくなって、轟音が響いて、けれどわたしたちのどちらも、そのまま動かなかった。指が絡んで、熱がうつる。
机の上の灯りだけが光る薄暗い空間のなかで、わたしはポオさんと手を繋いで、ただ彼を見ていた。彼もまたわたしを見ていた。数十秒、数分、もしかしたらほんの、瞬き一回分くらいの短い時間。
「……ポオさん」
絞り出すようにして、彼を呼ぶ。空気が震える。指さきの熱にとじこめられているうちに、雨の音が止んでいた。
このまま居たら、戻れなくなる。なにか決定的なことを言ってしまうと思った。そんな風に、彼に踏み込みたいわけじゃない。それはきっと、彼も同じのはずだ。
夜の底みたいなひとみから、わたしが消える。夢から覚めたみたいだ、と思う。けれどこれは、どこまでも現実なのだった。繋がった手が、熱い。
「雨、やんだみたい。……帰ります」
「……そ、そうであるな。タクシーを、……」
一本ずつ順番に、指が離れていく。ポオさんが立ち上がってわたしの隣から居なくなった途端、やはり全部幻なのではないかという気がした。信じられなかった。
「電話します。……でも」彼を引き止めたくても、自分勝手にカールを起こすことはかなわなかった。それで反射的に、彼の腕を掴んでいた。「ここに着くまで、隣に」
これではまるで、雷を恐れる子どもみたいだ。もう雨も雷も雲にさらわれて、遠くへ行ってしまったというのに。
ポオさんがすぐ横へ戻ってくる。ソファがポオさんの重み分沈む。外で会ったときよりも濃く、彼の香りがする。カールは結局起きてしまって、わたしを経由したあとポオさんの膝で丸まった。
「やっぱり飼い主にはかなわないなあ」
「……しかし、カールはかなり、君のことを気に入っている」
「それは、うすうす分かってきてるかも」
わたしは会う度に、このふさふさの毛並みに触れている。探偵社に連れてきたときも、他の人がわたしみたく抱っこしたり撫でたりしているのを見たことがなかった。
「君さえ良ければ、また家に」
雨のなかわたしを誘ったときより軽やかな、優しい声色だった。そこに弱々しさはなく、けれど過剰な自信もない。本来の彼、という感じがする。
「……本当に?」
「勿論」なにか面白いことを思い出したときみたく楽しげに、ポオさんは付け足す。「出来れば、乱歩君が来ていないときに」
ここに三人揃うようなことがあれば、どうなるかはわからない。わたしたちは乱歩くんに振り回され、揶揄われ、とても会話どころではなくなるだろう。彼と一緒ならそれはそれで、と思いかけた自分に首を振って、それからわたしも笑みを浮かべて、言う。「……来る前に確認します」
▽
流れる景色をぼんやり眺めながら、ポオさんはあのとき、何を言いかけたのだろう、と考える。あのとき。
「君に……」頭の中で、彼の声が再生される。
わたしに、会いたかった、とか。まさか、と打ち消す。そんな風に自惚れるほどの自信はなかった。けれど、そうであったらいいのにと思うだけで、なんとなく胸があたたかく、やわらかなもので満たされていく。家に着いたらきっと、ポオさんに電話をかけようと思う。