この夜にふたりやわく溶かして
雲間にさすひかり
朝家を出てから何も食べていないことに、わたしは乱歩くんと別れてから気がついた。コンビニに入って、サンドイッチを選ぶ。乱歩くんによると、あと三十分もすれば彼が来るらしい。イートインスペースの椅子に座り、テーブルへ携帯と昼食を置く。
窓の外には太陽の光が降り注ぎ、抜けるような青空には雲ひとつない。暑さも落ち着いており、いい天気だった。空調の良く効いた室内には昼食を食べ損ねたサラリーマンや、学校帰りらしい中学生のグループがいくつか固まって座っている。視線を携帯に戻し、ネット記事を眺める。けれど、今日の色んな場面が次から次へと蘇ってきて、どれだけ読んでもまったく内容が入ってこなかった。
ポオ君のこと好きなの。
現場について行った帰り──今日は乱歩くんと一緒に事件現場へ出られる社員が誰も居らず、急遽午前のみの出勤だったわたしが行くことになった──に、乱歩くんが聞いてきた。自分の友人に関することを聞いているのだとは思えないくらいそっけない言い方で、またそれでいて、面白がっているのが明白な、不思議な質問のトーンだった。乱歩くんのことは本当によくわからない。わたしのどこをみて、そう言っているのだろう。わたしがポオさんのことを──というか、ポオさんと過ごす時間を気に入っているのは事実だけれど、それが好き、という感情に直結するものなのかは、判断できない。それくらい、昨今のわたしは恋愛と離れてしまっている。確かに、一緒に駄菓子を買いに行ったあとも彼が探偵社に来ることはあって、お互い時間にゆとりがあれば立ち話をしたり、訪問が終業時間間近だった時は、一緒に帰ることもあった。けれどそれは、帰り道の方向が同じなことを知りながら別々に帰るのも変な感じがしたからだ。多分。
そういう好きかはわからないけれど、好きだよ。
当たり障りのないぼんやりした、結果的に彼を不機嫌にさせるに至った回答。わたしはそのとき、乱歩くんが犯人に襲われたりそれによって怪我をしたり、事件が異能絡みのむずかしいものではなかったりしたことに安堵しきっていた。質問の鋭さをそのまま受け止めるような状態ではなかったのだ。おおげさかもしれないけれど、わたしは一事務員で、異能のある社員たちとは違うのだから、ある意味仕方の無いことだと思う。
ふうん、君もポオ君も変なの。
乱歩君はさも可笑しそうに笑って、なにやら考え、それから電話をかけた。
それで今に至る、というわけだ。帰りのタクシーの手配でもするのかと思って眺めていたら、なにやら親しげな雰囲気──乱歩くんは誰にでも馴れ馴れしい口調だけれど、それとは違う──で話しだし、相手はどうやらポオさんらしいということに気がついたときには、わたしたちが居た駅の前まで来るよう呼び付けてしまった。そして帰った。「僕社長の家で昼ごはん食べるからまたね」なんて言い放って。
すぐ近くのゴミ箱にサンドイッチの外装と小さなサイズのペットボトルを捨てて、もう一度椅子に座る。鏡を取り出して、前髪を整えた。うすく口紅を引く。色を馴染ませるくちびるに力が入っているのに気がついて、乱歩くんに質問されるのも仕方の無いことか、と、苦笑する。
▽▽▽
彼は言った通りの時間に来た。駅の入口のわきで立っているわたしをみつけると、とくに急ぐこともなく、けれどどことなく雰囲気が柔らかくして、こちらへ歩いてくる。
「ごめんなさい。乱歩くんがあんな、急に」
単語ごとに区切られた、ぎこちない言葉。彼が来る前は散々頭の中でシュミレーションしていたのに。いざポオさんを見ると、計画は驚くほどあっけなく霧散していく。さっき水を飲んだばかりだというのに、口の中が乾燥していた。彼は何も言わず、薄く微笑む。
「あの、今日、カールは」
「今日は、家で留守番をしてもらっているのである」
「そうなんですね。……わるいことしちゃった」
黒く艶のある外套は、騒々しい街なかでもよく目立つ。今日は比較的涼しい日だけれど、ポオさんの服装は完全に秋を先取りしているのだ。せめて上着だけでも脱げばいいのに、と思うけれど、もしかするとこの手触りの良さそうなマントの中に、武器や異能に関するものが仕込まれているのかもしれない。わたしは一般人に過ぎないから、そういうことに疎いのだ。服装に口を出すのはやめることにして、わたしの前に立っている彼を見上げる。カールの居ない彼の肩はさびしくみえた。
「どうしましょう。ええと、お茶でもしましょうか」
このまま帰ってはせっかく来てくれた彼に申し訳ないし、なにより彼を呼び付けた乱歩くんが黙っていないだろう。今後このようなことが起こらないためにも、彼とは話し合っておく必要がある。
「そ、そうであるな。……店は、どこがいいだろうか」
「こういうとき、直ぐに思い浮かばなくて」頭の中で次々と候補を絞り出すものの、距離が遠すぎたり彼と行くには音が多すぎたりで、一個、また一個と消えていく。「うずまきばっかり行ってるからですね」
店名ですぐに探偵社の下にある喫茶店だとわかったらしく、彼は納得したように「ああ」と頷いた。「あの店はカールと一緒に居ても入れるから、我輩もたまに……」
「乱歩くんと?」
「そうである。乱歩くんの行きつけだから、乱歩くんの気に入らない具材は入らないし……」
「いつもは残り、ちゃんと食べてるんですね。わたしも経験あります。……うーん、おしるこの餅とか?」
「君もであるか」同士をみつけたときみたく、彼の声のトーンが少しだけうわずる。
「ええ」こちらへ歩いてきた人とぶつかりそうになって、ポオさんの方へ避ける。距離が近づいて、踏み込めば外套の中に取り込まれそうだった。「でも、カールが入れるお店、っていいですね。やっぱり犬とか猫と同じじゃないのかな。わたし今度、探しておきます」
「カールもきっと、喜ぶのである」
「そうですね、きっと……」言いかけて、ふと気がつく。「こういうことを話す場所を探してるのに」
辺りの建物をひとつひとつ目で追う。普段こんなに真剣に、看板や窓に書かれた文字をなぞることはない。
「歩きながら探しましょうか」
結局駅前ビルの一番下の階にある、昔ながらのという形容詞が相応しいちいさなカフェに入ることになった。水を運んできた店員は、おそらくわたしよりも若い女の人だったけれど浮ついた感じはなく、他の客も本を読んだり店主と見られるおじいさんと談笑していたりして、とにかくしずかなところだった。ここだけ華やかな街から切り離されたような、懐かしい感じのする場所。彼と来るのにぴったりだと思った。
それぞれ飲み物を注文して、わたしは上着を脱いだり、彼は店内を興味深そうに眺めたりした。ずっと日本に住んでいるわたしでも、昔ながらの喫茶店に来ることはなかなかない。星座占いの機械を指さして「これはなんであるか」と聞いてきた彼に上手く構造を説明することが出来ず(わたしも何十年ぶりに見たものだったから)、結局ふたりしてお金を入れて回した。小さな紙を折りたたんで財布へしまいながら、なにげなく聞き出した彼の誕生日を心の中で復唱した。
「……今日は、乱歩くんと一緒に現場へ?」
運ばれてきたコーヒーをひとくち飲んで、ポオさんが言う。
「そうです。初めてだったから、緊張したなあ」
アイスティーをストローでかき混ぜる。けれどなぜか飲む気になれず、ほんのり水滴をまとったグラスを両手で包む。店内に流れるピアノ曲が一瞬盛り上がり、また音数の少ない主題のメロディーに戻る。
ここはさっきまでいたところとは違うのだ。無意識に、ひとつ深呼吸をしていた。わたしの日常。ポオさんの居るところ。
「怖かったのかも、いま思うと」一度口に出すのを躊躇って、けれど彼のいる環境だとか過去だとかそういうのを踏まえれば、話すのも変ではないかと思い直す。「死体とか、お葬式以外で見ること無いし」
外に目をやると、さらに人通りが増えていた。スーツを着たビジネスマン、腕を組んで歩くカップル、買い物帰りの主婦。
「我輩も、書くことはあっても、最近はそこまで……」
「……そうなの?」
組合の偉い人、というのは案外、戦ったりしないものなのだろうか。わたしはポオさんについて、組合について、何も知らない。それから彼の異能についても。
「戦うのは得意ではない」
わたしの反応から考えていることを察したのか、ポオさんがふ、と声を洩らす。理由はどうあれ、わたしと居るときに彼が笑っているのは嬉しかった。
「なんか、変な感じ。急に乱歩くんと行動することになって、したことのない経験を沢山して」喉が渇いているのを思い出して、アイスティーを飲む。「と思ったら、今度はポオさんとお茶してるの」
彼はゆるく口角を上げたまま、コーヒーのカップに手を伸ばす。
それとほぼ同時に、空気が震える。それがカウンターに座るおじさんの、信じられない音量のくしゃみだったのに気がつくまで、しばらく時間がかかった。わたしは飛び上がるくらいびっくりして、音のした方を向く。それから彼の方へ視線を戻すと、カップを持ったまま、同じく肩をあげていた。
「……び、びっくりした。ポオさん、零れてないですか」
「だ、大丈夫である」
お互いに飲み物を飲んで、ふう、と一息つく。そこまでの動作が見事なまでにシンクロしてしまって、また笑った。
「ところで」ポオさんが、ちいさく咳払いをする。さっきおおげさに驚いたのをごまかすような、そんなぎこちない仕草だった。
「君がこの間言っていた、タヌキ、のことであるが……」
「もしかして、調べたりしましたか」
「文献やネットで、すこし」
「海外の人はタヌキを知らないって、わたしも調べて知りました」
公園でカールとポオさんと会った夜、彼の反応──タヌキ自体を知らないような、単語自体言いなれない──が気になって、寝る前に調べたのだった。
「……日本では馴染みの深い動物、と記載があった。アライグマももちろん好きであるが、タヌキもなかなか可愛い」
「でしょう」わたしはタヌキの親戚でも飼い主でもないのに、なぜだか得意げな気持ちになる。「昔話によく出てくるから、みんな知ってるの」
実物を見たことはないけれど、物語の登場人物(登場動物、が正しいかもしれない)としては慣れ親しんだ動物だ。絵本や紙芝居の記憶が過って、なつかしい気持ちになる。
「タヌキは、どこへ行けば見られるのだろうか、……動物園?」
和やかな雰囲気で話す彼は、とても組合の幹部だったひととは思えない。
「今度、行きましょう。カールは、またお留守番になっちゃうけれど」
自分から男のひとをどこかへ誘うなんて、多分初めてのことだった。これは決して社交辞令ではないのだ。彼はそう捉えている可能性もあるけれど、わたしたちの間でそうならないのはなんとなくわかっている。わたしは既に心のどこかで、彼と出かけるのを楽しみにしている。
「……先を」
彼の声は、ほとんどささやくようだった。けれど、聞き返す必要は無い。わたしも同じことを考えていたから。
「どうぞ」
電話番号とメールアドレスの書かれた画面を差し出す。ポオさんはわたしから携帯を受け取って、なんどか確認しながら丁寧に書き写した。
「電話でもメールでも、いつでも」
待ってます、だとか、してください、だとかを続けることができなくて、戻ってきた携帯を握りしめる。ポオさんはわたしの連絡先の書かれた紙を一度眺めて、外套の中にしまった。
「……では、今日の夜に」
事前に言ってくれるところが彼らしい、と思った。誠実な感じがする。お互い不必要に緊張することも、彼の連絡がないことで、わたしが不安になることも無い。
「はい。待ってます」
▽
家に着いてから、わたしはひさしぶりにお風呂をためて、ゆったりと浸かった。数ヶ月前に奮発して買ったパックをつけて、髪にヘアオイルを塗る。それから爪に色を乗せて、綺麗に乾かすべく指を開く。すべて、なくしていた自分のための時間だった。
夜。月のはっきり見える、澄んだ夜だ。
ポオさんからの電話が鳴る。