この夜にふたりやわく溶かして





踏み越えて、一足分



 今年の夏は、例年よりもずっと暑い。しかし事務フロアでは今日もクーラーがよくきいていて、わたしはカーディガンを羽織りなおした。お昼までの仕事がひと段落ついたころ、隣のデスクの同僚に声を掛けられる。
「今、大丈夫? お茶を持っていってほしいの」
 乱歩さんから頼まれたんだけど、私これからでなきゃいけなくて。彼女はわたしの返答も聞く前に、上着を脱いで出て行ってしまった。幸い資料は作り終わったところだったし、彼女には助けられることも多いので、不満はない。よし、と立ち上がって、上の階へ向かう。

▽▽▽

 乱歩くん用のお菓子やラムネ、それからお客さん用のお茶をお盆にのせて、応接間へはいる。今日は業務が立て込んでいるらしく、そこかしこで社員たちの声が聞こえた。色んな音が混じって、乱歩くんのお客さんを想像することも出来ない。知り合いだろうとそうじゃなかろうと、軽く挨拶をして、すぐに立ち去ろうと思っていた……のだけれど。

 見たことのある後ろ姿と触り覚えのある毛並みが、ソファ越しでもわかった。考える前に声が出てしまう。
「ポオさん」乱歩くんのグリーンのひとみが、興味深そうにわたしの姿をとらえた。そのあと一瞬の間があって、ポオさんとカールが一緒になって振り返る。
「乱歩くんのお客さんって、ポオさんだったんですね」
 二人の前にそれぞれ飲み物を置きながら、言う。
「ああ、君か。この間は、助かったのである。今日はカールも一緒で、……」

 ポオさんが言い終わる前に、ソファのへりに器用に座っていたカールがわたしのもとへダイブする。一瞬戸惑ったけれど、すぐに対応出来た。あの夜の経験がいきていた。わたしの腕のなかにおさまったカールは満足げな表情──アライグマにも表情がある、というのをわたしはこの時初めて知った──でひと鳴きする。
 座りなよ、と乱歩くんが言ってくれたので、最初に出会った時と同じくらいの間を開けて、ポオさんのとなりへ腰掛ける。グラスの氷が溶けはじめ、カラリと音を立てた。

「ふうん」乱歩くんはわたしたちを交互に見つめ、それから窓のほうへ視線をうつした。「ちょうどいいから、買い出し行ってきてよ」
 ポオさんもわたしも、乱歩くんにつられて外を見ていた。そのせいで、駄菓子専用棚のストックが尽きかけていたことに思い至るまで、すこし時間がかかる。
「買い出し、……あ、駄菓子の?」

 なにがちょうどいいのか、聞こうかとも思ったけれど、そこへ触れても仕方がないような感じがしたので、黙っておく。
「うん。もう無いんだよね。暑いから僕行きたくないし」
 確かに今日は暑い。冷房の効いた探偵社から出るなんて考えたくもないほど。きっとこの場の誰もがそう思っているだろう。
「でもわたし、このあとも仕事あるし」
「僕の駄菓子より大事な仕事?」
「ううん、そんなこともないけれど」

 乱歩くんの頼みごとって本当に断れない。結局いつもこうなるのだ。特に強い言い方でもないし(慣れていないと、多少ぶっきらぼうに聞こえる節はあるかもしれないけれど)、断ろうと思えばいくらでもできそうなのに。乱歩くんの言葉は彼の口から発された瞬間、もうそういうものなのだと決まっている感じがする。ある種の正しさ、のようなもの。

「じゃあ、ここに書いてるの全部」
 そういって手渡された紙には、様々な駄菓子の名前が並んでいた。見慣れたものばかりだけれど、如何せん量が多い。
「……わたしこれ、ひとりで持てるかなあ」
「何言ってんの? ふたりで行ってきてよ」

 え、という声が重なる。ポオさんはしばらくわたしたちのやりとりをしずかに見つめていただけだったから、彼の声が聞こえるのは久しぶりな気がした。

「お客さんにそんなことさせるわけにはいかないわ」
 いくら乱歩くんとポオさんが友達であるとはいえ、買い出しまで付き合ってもらうわけには行かない。彼は社の客人で、もてなされるべきひとなのだ。
「い、いや、……我輩は別に、行っても……」

 ちいさな声で言ったあと、ポオさんは居心地悪そうにお茶を飲んだ。用事があって乱歩くんに会いに来ているとはいえ、探偵社に来るのは彼にとってあまり楽しいことじゃないようにみえた。少なくとも、いまの瞬間は。今日はフロアに社員が多い日だ。つねに、誰かが電話をする声やパソコンを打つ音がする。ポオさんとわたしが座っているソファの後ろを通っていくひとも、結構な頻度で、居る。一緒に行ってくれようとするのは気を使われているからだとすっかり決め込んでいたけれど、もしかしたら、と思う。

「じゃあ、手伝って貰ってもいいですか」
「わ、わかったのである」
 こうして、わたしとポオさんとカールのおつかいが始まった。

▽▽▽

「普段、肩に乗せてるの重くないんですか」
 カールの背中を撫で、両手でしっかり抱えなおす。探偵社を出てからはずっと、わたしが抱いて歩いていた。夏に毛玉を抱えて歩いているようなものなので、正直暑い。それに、彼に聞きたくなるくらいには、重い。このかわいさを一番間近で見られるという利点を鑑みれば、なんの問題はないのだけれど、普段から鍛えているわけでも肉体労働に勤しんでいるわけでもないわたしの腕は、すでに悲鳴をあげている。

「重いのである。しかし、肩じゃないと落ち着かなくて、……」
「やっぱり。でも可愛いから仕方ないですね」
 ポオさんが柔らかく微笑む。わたしはそれを同意の代わりと捉えて、笑みを返した。口もとしかみえなくても、不思議と不安になったりはしない。

「……あの。嫌じゃなかったですか」
 主語のない、人によっては素っ気なく聞こえるかもしれない質問が、気づけば口をついて出ていた。沈黙が苦痛だったわけではない。彼と共有した時間のほとんどを占めるしんとした静寂は、むしろわたしに充足感をもたらしていた。返事が来るまでのあいだどれだけ考えても、それがどうしてなのかはわからなかった。

「乱歩君のお菓子なら、この間も買いに行ったのである」
「ええ!探偵社に来たときですか?」
 もしそうならばお菓子の管理を怠った自分に責任があるような──担当、というわけではないが、事務員の一部は皆乱歩くんのお菓子やラムネのことを気にしている──思いに駆られて、つい声が大きくなる。
「いや、我輩の家をたずねて来た時である」
「そ、そうなんですか」

 もう家に行くような間柄になっているとは驚きだった。乱歩くんはあんな感じ──飄々としていて誰になびくこともなく、気まぐれで時に子どもっぽい──だけれど、関わりのある人とは案外結構上手くいっているように感じられる。それでもまさか、つい最近までライバルだったポオさんとまでこんなに仲良くなっているとは。

「最近は新作を書く度に持っていくか、乱歩君が非番の日に訪ねてくるかのどちらかで、……」
「じゃあもしかしてポオさん、結構探偵社来てました?」
「そうであるな、最近はよく……」
「ぜんぜん気が付かなかった」

 お茶を出したり、目当ての社員を呼び出すのに要件を聞いたりするひとは、そのときによってまちまちだ。受付とかは決まっていなくて、手の空いている人が対応する。パーティーでのことも夜の公園で会ったことも、同僚たちに話さなくてよかったと思う。わたしだけが知っていると思っていたポオさんは、実はそうではなかったのだ。きっと皆にもあのやさしくてちいさな声で話して、それからすこし微笑んで、────。

「なにか、あったのであるか」
 自分でも気が付かないうちに、ため息が出ていたらしい。はあ、とかそういう声が伴うものではなく、鼻から抜ける感じの。多分、そんなに大げさでは無かったはずだ。
 それでも、彼は多分わたしと同じ気にしいだから。それに、わたしたちの間を抜ける澄んだ空気の中では、どんなささいな事柄も目立って感じられた。ポオさんは身体をすこしだけこちらへ傾けて、わたしを覗き込んでいる。彼のせいじゃない、ということを、いち早く伝えなくてはいけない。

「すみません。なんでもないんです。ちょっと考えごと」
「……本当に」
 彼に嘘はつけない、と思った。乱歩くんとはまた違った、正しさ。正直さ。彼の言葉たちは、彼のそういう性質を本当によく表している。
「あのとき、……公園で会ったとき、言ったじゃないですか。また会えるって」
「確かに、言ったのである」
「あのあとは全然会えなくて、……でも同僚のみんなには、ポオさんのこと伝えてなかったから」
 彼はどこもかしこも特徴的だから、すぐにわかっただろう。
「言えばよかった、と思って」

 そうしたらもっと早く会えたのに。続きを口に出す勇気はなかった。歩く速度をあげる。身長が全然違うから、わたしが多少足を早めたとしても、ポオさんには何の影響もない。実際彼はいとも簡単に──数歩もかからず、ひょいとなにかを乗り越えるような手軽さで──わたしに追いついて、横断歩道の手押し信号を押した。

「我輩は……その、今日また君に会えて、……」
 いままでで一番緊張のこもった、また一番ちいさな声だった。わたしにしか届かない、わたしのためだけの言葉。
「はい」
 わたしもまたしずかに返事をして、一向に見えない彼の目元を見る。視線が合ったような感覚がする。またすぐにそらされた感じがして、また戻る。何故だかはわからないが、と前置きしてから、彼は言った。
「良かった、と思うのである……」

 横断歩道の緑がかった青が鈍く発光して、すぐにけたたましい音がする。鳥の声を模した合図。これは何種類かあって、それによって進む方向を示しているらしいということが脳裏に浮かんで、けれどいま彼に伝えるべきことはそんなことではないのだった。音に負けないよう、お腹に力を入れる。「……わたしもそう思います」

 意を決した割には自信なさげな声が出て、そのあとは黙って歩くしかなかった。ポオさんも何も言わなかったけれど、彼の顔を見ることはできない。ただ同意しただけなのに、このそわそわする感じは何なのだろう。お互い、思ったことを言っただけなのに。

「……いまごろ乱歩くん、ポオさんの小説読んでるんですかね」
 街の中心部からすこし外れた、まだ都会だけれどいくらか空気の穏やかな道にでる。大きなマンションやビルが減って、代わりに一軒家やこぢんまりとしたカフェや食堂が増える。
「もう犯人を見破られている気がするのである」ポオさんはちいさな声で言ったあと、自信が無かったという訳では無いのだが、とこれまた小声で補足した。「出来た当初は、絶対に解かれることは無いと、……しかしあそこのトリックは、……」

 おそらく昨日まで、もしかすると乱歩くんに見せるギリギリまで書いていた小説のことを、ポオさんはほとんど独り言のように話し始める。
 ハッとした表情のポオさんが、わたしの方を向く。目が合う。おそらく道がすこし傾いていたのだ。彼の静かな、それでいて鋭いひとみがわたしを射抜いた。太陽のひかりがあたって、煌めく。グレーの双眸は、嵐のなかの雲にも、清澄な夜の空にも見えた。「我輩、つい……」

 彼がその場に留まったので、あわせてわたしも足を止める。心地よい風が抜けて、彼の癖のある髪の毛を揺らした。
「ポオさんの話、もっと聞きたいです。作品のことも、ポオさんのことも」
 彼は驚いたように数回まばたきをして、わたしから視線を逸らした。身体の緊張がゆるんで、わたしもまばたきをする。完全に、ふたたび歩き出すタイミングを失ってしまった。次の言葉を待つことにする。
「そんなことを言われたのは、」

 ポオさんは途中まで言いかけて、やめてしまう。不思議に思って顔を上げれば、なぜだか焦っているようだった。数秒、いやもっと短い時間だったのかもしれないけれど、彼のひとみに逡巡の色が見えて、次の瞬間にはもう、彼に腕を掴まれていた。突然のことに驚いたカールが、わたしの腕のなかで身動ぎする。ポオさんのマントの黒が、視界いっぱいに映っている。

「あ、あの」
 声にならない声をかけて、けれどそれはベルの音にかき消されてしまったように思う。実際彼には届いていなくて、手はしばらくたっても離されなかった。何が起こったのかわからず、カールをぎゅっと抱きしめる。明らかに自然のものでは無い、限定的でつよい風がわたしの背中を掠めて、おさまる。自転車がわたしの居るところに向かってきていた、というのは、猛スピードで走り去る後ろ姿を確認してから気がついたことだった。

「……ありがとうございます。わたし、全然気が付かなくて」
 カールを預かっている身だったのに。あとから恐怖心が湧いてきて、ちいさく謝る。
「いや、我輩も、急に腕を掴んだりして、……」
「でもそれは、カールとわたしを思ってしてくれたことで」
「声を掛けるとか、他にも方法が」
「こっちのほうが確実じゃないですか」
 ポオさんの腕に目線を落とす。いまだ、まっすぐわたしに伸ばされたままだ。
「それは、そうなのであるが、……あ」
 ようやく腕が離される。近所の住人には、さぞかし変な二人(しかも、間にはアライグマ!)に見えたことだろう。
「ありがとう、ございました」

 謝られる気配を察して、彼が口を開く前に頭を下げる。鼻と口がよく温まったカールの毛に埋まって、くすぐったさに笑い声がもれる。お礼を言っている最中なのに、とポオさんをうかがえば、彼も彼で口元が緩んでいた。真面目に謝るわたしとカールの絵面がおかしかったのだろう。今度こそ我慢ならなかったのか、カールはポオさんのもとへ戻ってしまって、急に腕まわりが寂しくなる。やがてどちらからともなく歩き出して、特に新しい話題になることもなく目的地に着いた。その間の、ふたりぶんの足音だとか近くの家からしたカレーの匂いだとか木々のみずみずしい緑なんかを、わたしは帰ってからも覚えているだろう、と思った。

▽▽▽

 駄菓子屋を出てもまだ日は高く、少しだけれど暑さも増しているような気がした。ふたりとも両手にお菓子──普段からストックしているものばかりだったので、すぐに選んで買い物を終わらせることが出来た──を抱え、閑静な住宅街を進む。カールはポオさんの肩で落ち着いており、けれど時折、ポオさんが持つ紙袋の中身を手でつついたりしている。

「ふだんはこんなこと思ったことないし、乱歩くんには絶対秘密ですけど」
 ポオさんのほうへ向き直せば、両手いっぱいの紙袋がガサガサと音を立てた。「まだ全然解けないで、難航してたらいいな、なんて」

 原稿を渡しに来たポオさんを見てからずっと思っていたこと。それでも、言わないでしまっておこうと決めていたこと。
 思いがけず彼と出かけることになって、知り合ったばかりなのに沈黙は苦痛じゃなくて、だから伝えたくなったのだ。乱歩くんには心底申し訳ないけれど、わたしはすっかりポオさん贔屓になってしまっている。

「そんな姿、想像もつかないのである」
 それでも一回想像はしてみたのか、彼の表情が少しだけ明るくなる。肩に乗るカールも、なんだか機嫌が良さそうだった。
「……でも、探偵社員の君がそんなことを言うのは、少し、……嬉しい、のである」
 こころがぎゅっと掴まれるような、そんな心地だった。はるか昔に忘れてしまったものが色付いて、ぼんやり煌めく。
「ポオさん」
「何であるか」
「帰ったら、わたしも読んでいいですか。ポオさんの小説」
「……勿論、構わない」
 柔らかな声だった。ささやかでまっすぐで、優しい。あのうつくしいひとみが見えなくても、言葉が多くなくても、彼の不器用な誠実さは、わたしに届いている。
 昼下がりの横浜に、ふたりぶんの影が伸びていく。


   



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