この夜にふたりやわく溶かして





降るのは沈黙ばかり


 星空。澄んだ空気。分け合った体温。ただ静かに、寄り添うみたいに揺蕩うことば。世界が、泣きそうなほど美しかった。わたしの今までの全部は、このひとに出会うためにあったのだ。ただそう思った。こころの底から気持ちが溢れる。伝わりますように、と願いながら、まぶたを閉じる。
 この夜にふたり、やわく溶かして。



 パーティが中盤に差し掛かってきたころ、わたしはお酒を片手に、行き場を失っていた。友達がいないわけでも探偵社が居心地の悪い職場というわけでもなかったけれど、ひとの多い場所はもともと苦手だった。それに、今日のパーティには社員だけではなく、今回の騒動でお世話になった企業や迷惑をかけてしまった関係者、探偵社員と親交のある知人たちなども顔を見せている。そう広くないこの会場では素通りもできず、気疲れしてしまっていた。何度挨拶したかわからない。

 序盤は何となく皆と話せていたものの、トイレに立ったが最後仲のいい事務員たちとは離れ離れになってしまい──戻ろうと思えば戻れる距離だったが、それにはまだ挨拶の済んでいない取引先の人たちの前を経由しなくてはならなかった──、諦めて応接間のソファへかけている。幸い飲み物がおいてあるコーナーはそう遠くはないし、皆が楽しんでいる姿がよく見えた。こんなに緊張するならそもそもパーティに出席しなければいい話なのだけれど、今日はただの懇親会などではなく、鏡花ちゃんの入社祝いなのだ。事務員と探偵社員じゃ立場は違うけれども可愛い後輩のお祝いはしたかったし、組合との抗争が無事終結したよろこびを分かち合いたい気持ちもあった。けれど、様子を見て抜け出してもいい頃かもしれない。

 少しずつ飲んでいたワインがついになくなって、ゆっくりと立ち上がる。視線の先に乱歩くんが居て、ばっちり目が合ってしまった。同い年の彼は『超推理』という異能を持つ探偵社員で、社の中心人物だ。というか、この組織自体乱歩くんの異能を活かすために作られたのだと言われている。

 事務員のなかでもかなり古株のわたしは、もちろん彼とも結構長い付き合いになるのだけれど、じつはふたりで話したことってそんなにない。だから、晶子ちゃんみたく特別親しくなることもなければ、もちろん、恋愛対象になるようなこともなかった。かたや社を支える名探偵、かたや異能も持たないただの事務員。接点などなくて当然だ。

「なにしてんの」

 自然に目線を逸らそうと思っていたのに、なぜか乱歩くんはラムネ片手に近付いてきた。彼のことは苦手なわけでも嫌いなわけでもないけれど、わたしが彼と話すのは、なんとなくおこがましい感じがする。とくに面白いことも言えないし、退屈させる予感しかしない。

「お酒飲みながら皆のこと見てた、かな」
 ふぅん。ただの退屈そうな相槌なのに、彼の声はよく響く。
「せっかくのパーティーなのに、楽しみ方が地味で申し訳ない」
「別に、いいんじゃない」
「……ありがとう」
 去り際、乱歩くんがこちらへラムネを差し出したので、一瞬だけグラスを合わせる。ワイングラスとガラスの瓶は涼し気な音を立てた。絵面も音も、なんだか不思議な感じがした。

 なみなみと注がれたワイン──半分くらいでやめようとしたら、ちょうど通りかかった晶子ちゃんが来て倍量注いでくれた──を零さないよう、元いた場所へ向かう。つい先程までわたし専用となっていたソファは酔っ払った来賓客の休憩場所に変わっており、とても戻れる状態ではない。やっぱりはやめに帰ればよかった──と、ドアの方を見れば、初めてみる男のひとがひとりで座っていた。長い前髪で顔半分が覆われていて、表情を知ることはできない。足をたたんで座る彼は、服装や雰囲気も相まってものすごく窮屈そうに見えた。ときおり乱歩くんのほうを伺っている。

「あの」戻る場所が無くなっていたから。グラスを早く置きたかったから。彼が、悪いひとに見えなかったから。なんで声をかけたのか、理由は自分でもわからなかった。気がついたら彼の近くへ移動していて、話し始めていた。「誰か、待ってますか」
 声をかけられると思っていなかったのか、彼の肩がはねた。膝を抱える腕にぎゅっと力が入って、上質そうなスラックスにシワがよっている。

「……は、……君に呼ばれて……」
「乱歩くんの、知り合いの方なんですね」

 普通の声量で話していても聞こえないくらいの雑音のなか、控えめな彼のことばはほとんど聞こえなかった。それでも、人の多い会場で、彼は乱歩くんしか見ていないようだったし──当の本人はこちらに見向きもしない。おそらく、呼ぶだけ呼んで放置したのだろう──思い返せば、白鯨攻略の情報をくれたのはミステリを書く組合の探偵だと聞かされていた。テーブルには分厚い紙の束がある。小説のようだった。彼が多分そうなのだろう、と思った。

「な、なぜわかったのだ」
「……乱歩くんのことばかり見てるから」
 言いながら、彼のとなりに腰掛ける。二人分くらいの距離をあけて。原稿に零したら、と思うと、テーブルへグラスを置くことはかなわなかった。静かにひとくち飲んで、柄の部分を両手で持つ。
「なにか飲みますか」
「……いや、我輩は何も」

 どことなく、諦めの混じった声色だった。不思議に思いつつも、もう一度聞いてみる。乱歩くんはまだ戻ってくる様子は無いし、飲み物も出さず客人を待たせるのは、社員として落ち着かない。

「遠慮なさらないでください。せっかくのパーティなのに」
「では、君と同じものを……」
「わかりました。今持ってきます」
「我輩も一緒に、……」

「いえ、」なるべく柔らかく聞こえるよう意識して言う。両足に若干のしびれを感じつつ、ゆっくりと立ち上がった。「わたしさっきまであそこに居たんですけど、戻れなくなっちゃったので」
 応接間のソファへ振り向けば、彼もつられて同じ方向を見ていた。相変わらずスーツの男性たちが楽しそうに談笑している。「場所、取っといてください」


 テーブルへ戻ると、そこにはやはり先ほどと全く変わらない様子の彼が居た。いくら知人の少ない──少ないというか、彼の知り合いはおそらく乱歩くんだけだ──会場であるとはいえ、もう少しくつろげばいいのに。知人だらけの会場でこんな風にひとりで居るわたしには、言われたくないだろうけれど。

「すみません、お待たせしました」

 おずおずとグラスを手渡す。指先が一瞬だけ触れて、お互いにちいさく頭を下げる。気まずい。もういい大人なのに、おおげさに驚いてしまった。こうして男の人に触れたのは、いつ以来のことなのかもはやわからない。わたしには長らく恋びとも、それに近い男のひとも居ない。

「……ありがとう」
 嘩しい宴会のなかをくぐり抜けて、彼の優しい声が届く。
「どういたしまして。……せっかくだから乾杯、しましょうか」

 グラスを合わせると、ぎこちない動きとは裏腹に高くて澄んだ音が響いた。余韻が消えて、わたしたちの間にだけしずけさが広がる。まわりは依然として騒がしいはずなのに、いまはそれも気にならなかった。

 何か良い話題はあったかしら、と考えながらワインを飲んで、それから彼を窺う。同じようなことを考えていたのか、顔を上げたときには目が合っていた。長い前髪のすきまから数ミリだけひとみがのぞいている。出会ってから──といっても数十分しか経っていないけれど──はじめて視線が交わった瞬間だった。こんな、ほぼ同時に見つめ合ってしまうなんて。ふとおもしろくなって、ふふ、と声が洩れる。「……ごめんなさい。すごく見つめちゃった」
「い、いや、それは我輩も……」
 わたしがまた笑うと、彼の表情も緩んだ。雰囲気がぐっと柔らかくなる。
「乱歩くん、楽しそうですね」

 先ほどまで馴染みの警察関係者と話していた乱歩くんは今、賢治くんや鏡花ちゃんなど年下の社員とお菓子を食べている。「忘れてるのかも。わたし、言ってきましょうか」
「さすがに忘れては、……」彼は乱歩くんの居る方向を眺めて、グラスに視線を落とした。「君は、戻らなくて大丈夫なのであるか」
「ええ。ここのほうが、落ち着くから」
 彼に会う直前まで帰ろうと思っていたのに、わたしは何を言っているのだろう。酔ったとき特有のきらめいた視界をなんとか元に戻そうと、数回目をしばたたく。残りのワインをぐっと飲み干すと、勢いをつけて立ち上がった。
「初対面なのに、変なこと言ってすみません」軽く頭を下げただけで、辺りの景色がぐらりと傾く。ごまかすように口角を上げて、彼を見た。「……いま、呼んできます」

 空のグラスを持ったまま、一直線に乱歩くんのもとへ向かう。さっきまでは少しの移動も億劫だったのに、ひとの為だと思うと全然苦にならない。不思議なものだ。彼の周りに居た社員たちとも乾杯をして──気が利く子達ばかりだから、皆揃ってお酒やジュースを注いでくれようとした──手短に伝える。「乱歩くん、知り合いの方があそこに」
「ああ、そういえばポオ君来てたんだった。行ってくる」

 君も来る?と言われたけれど、丁重にお断りした。たったいま、迷惑かもしれないと思って離れてきたばかりなのだ。それに、そろそろ帰らなければ、明日の業務に支障が出てしまう。わたしは体力のある皆とは、なにもかも違う。
 そのまま事務員の友人たちへ帰ることを告げる。あわよくば、誰か一緒に帰ってくれないかしら、と淡い期待も抱いていたのだけれど、それはかなわなかった。どうやら二次会と称して更に飲み直す予定らしい。誘われたけれど、それももちろんお断りした。

 人気のない廊下へ出ると、緊張が一気にほどけた。背中を壁につけたままずるずるとしゃがみこむ。自然と深いため息がでる。ひと休みしてから外へ向かおう、と目を瞑ったとき、会場となっていた部屋のドアが開く音がした。誰かがこちらへ歩いてくる音もする。
 焦って立ち上がろうとしたせいで、床へ手をついてしまった。鞄が腕から滑り落ちる。手繰り寄せようとした視線の先に、長い外套とブーツが見えた。

「だ、大丈夫、であるか……」
「さっきの、……」乱歩くんの知人の方、と言いかけて、名前を聞いてなかったことに気がつく。「いま立つので大丈夫です」
 目の前に居る彼は、座っていた時よりずっと大きく見えた。立っているのだからそれは当たり前なのだけれど、想像よりも身長が高くて驚いてしまう。相変わらず前髪が邪魔で、目元がほとんど見えない。

「もう帰るんですか」
 胸の前で鞄を抱きしめたまま、言う。用事は済んだのだろうか。
「乱歩くんには無事原稿を渡せたし、帰るのである」
「そうですか。良かったです」

 彼の楽しげな表情──といっても鼻から下しか見えないから、雰囲気だとかゆるりと上がった口角だとかそういう要素から判断した──につられて、わたしの声色も明るくなる。乱歩くんを呼びに言った時点で責任は果たしたと思っていた上、もう話す機会は無いのだろうと考えていた。だからこそ、結果を聞けたのは嬉しかった。
「わたしは、駅に向かうんですけど」

 彼はどうするのだろう、となんとなく視線で窺ってみる。何も言われなかったらばらばらに出ればいいだけの話だ。ほどなくしてぽつりぽつりと彼が説明を始めたので、道順を想像しながら、聞く。会場とは打って変わって静寂に包まれた廊下で、彼の声はまっすぐわたしへ届いた。
「……方向、一緒ですね」
「そうであるな」

▽▽▽

 夜風が心地よい。横浜の街は色とりどりに輝いて、濃紺の空にはいくつかの星と薄く伸びた雲が浮かんでいた。海沿いの道からすこし外れたここは人が少なくて、ときおり通る車の音と風、それからふたりぶんの足音だけで満ちていた。

「日本へは最近、来たんですか」
 ときおりふらつきそうになる足に力をこめて、おりてくる瞼を押し上げる。自分からみても、きっと彼から見ても、酔っているのはあきらかだった。
「そうである」何も無いところで躓いたわたしに驚いて、彼の靴がジャリ、と音を立てた。「……乱歩くんとの対決のため、組合の船に同乗した」
「そうなんですか」

 すごいですね、と喉まで出かかったけれど、結果を知っているのにそれを言うのは違うかもしれないと考え直して、やめる。
 乱歩くんを恨んでいる感じは全然しないし、むしろ原稿を渡したあとの嬉しそうな表情からするに、きっとふたりは良いライバルのような友人のような、そんな素敵な関係に落ち着いたのだろうけれど、それでもわたしが軽はずみな発言をして不快にさせるようなことがあっては、いけない。あまり宴会の得意でなさそうな彼がそれでも顔を出してくれたのだから、せっかくなら帰るまで楽しくあってほしいと思った。

 ぽつりぽつりと話をしながら──一緒に飲んだワインの味だとか、乱歩くんとわたしの関係とか──閑静な住宅街を進んでいく。ときおり沈黙が落ちて、けれどそれは慣れない人と一緒にいる時特有の気まずいものではないのだった。心地よい風と夜の匂い、となりに人が居る安心感。ビルのあかりが、遠くに滲んでいる。

「ちょっと座ってもいいですか」
 建物の間のちいさな公園を指して、言う。歩き疲れていたのもあったし、もうすこし話していたい気持ちもあった。
 どちらからともなく入口へ向かって、それから間隔をあけてブランコの柵へ腰掛ける。遊具が数個と砂場しかない公園には、わたしたちしかいなかった。

「本当に、今さらなんですけど」すっかり冷えた指さきを擦り合わせて、膝の上におろす。「名前、聞いてもいいですか」
 最初に話しかけた時点で聞いておけば良かったのだけれど、なんとなくタイミングを逃していた。言ったあとですぐ、こういうのは自分から名乗るべきだったのではと後悔の念が湧く。でももう遅かった。わたしたちの間ではとくべつ重たくも軽くもない静寂だけが揺れている。

「我輩は、エドガー・アラン・ポオ、……アメリカの探偵である」
 顔立ちだとか骨格だとかの要素から、日本の人では無いのだろうな、とは思っていた。乱歩くんのライバルなのだから、探偵なのだろうな、とも。
「ポオさん」
 口に出して呼んでみると、少し照れたような微笑みが返ってくる。
「君の名前も、聞いてもいいだろうか」
「ええ」名前を先に言うべきか迷って、結局いつも通り苗字から名乗ることにする。
「覚えておくのである」

 ポオさんが緩やかに微笑んだ。数秒経ったあとで、呟くように下の名前を呼ばれる。砂場にある作りかけの城をみながら、はい、と短く返事をする。意識しないうちに口角が上がっていて、隠すように手をあてた。
 背の高い木がさわさわと揺れている。ピタリと止まったブランコ、鈍くひかる滑り台、錆びれたベンチ。公園なんてしばらく来ていなかったのに、どこか懐かしい気持ちになる。深呼吸をしたら、つめたい空気に鼻の奥がつんとした。酔いは完全に覚めていた。

「目的とは違ったかもしれないけれど、……わたし、今日ポオさんに出会えて良かったです」
 彼のことを見上げるけれど、やっぱり視線はあわない。
「……そ、そうであるか」
「はい」
 そろそろ行きますか、と声をかけて、柵から腰をあげる。
「ああ。カールが、待っているし……」
「カール、さん?」
「カールは、我輩の」
 すぐ前の道路を大きなトラックが勢いよく横切った。何を言ったのかまったく聞こえない。
「あの、いまなんて」
「だ、だから……」今度はバイクだった。けたたましい音に驚いて、ふたりとも喋るのをやめる。
「また今度会えたら、聞くことにします」

 公園から出てすこし歩いたとき、ポオさんが立ち止まる。どうやらここでお別れのようだ。寂しいような、切ないような気持ちが身体を占拠して、けれどそれをうまく伝える術も言語化できる経験も、わたしにはないのだった。

「では我輩は、これで」

 車通りのはげしい大きな道では、定期的につよい風が起きる。信号が青に変わった瞬間の、一秒にも満たない一コマ。わたしはそのとき初めて、ポオさんのひとみの色を知った。

「はい。また」

 彼に背を向けて、そうして彼もわたしに背を向けて、それぞれ歩き出す。雑踏のなか、ポオさんの足音だけが、わたしに届いている気がした。また会えるかしら。心のなかで、夜空にまたたく星々に問いかける。



   



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