帰れないふたり





感傷を喰らうにはおあつらえむきの夜


「おかえり。遅かったね」

 ドアを開けるとすぐそこに乱歩が立っていて、覚悟はしていたはずなのに思い切り肩がはねた。起きているのはわかっていたけれど、まさか玄関先で待っているとは思わない。鞄の紐を握りしめて、あわてて靴を脱ぐ。

「た、ただいま。ごめんね、太宰と飲んでて」
「そんなのわかってる。いいから早く来てよ」

 腕を掴まれて、ほとんど引き摺られるようにリビングへ入る。勢いよくソファへ座る彼につられて、わたしも隣へ腰を下ろした。コートを脱ごうと襟元へ手をかければ、そっと腕が解放される。 

「あのね」丸めたコートを絨毯の上に置く。多少シワになるかもしれないけれど、今はそんなことどうでもよかった。「別に乱歩のことが嫌いになったとかじゃないの。探偵社で働くのだって好き」
 うん、と不機嫌な相槌を打つ間も乱歩は一度もこちらを見なかった。帰ってきてからずっと、視線が合わない。
「でもわたしたちこれじゃだめだと思うから」
「何で」
 切れ長の目が伏せられて、白い肌に睫毛の影が落ちていた。いつもの笑みはどこかへ消え、唇はきゅっと結ばれている。乱歩のこの顔を見たことがあるのはわたしと福沢さんしか居ないだろう。
「……もう二十六歳になったわ」
「だから何」
「こんなに一緒に居たらお互い恋人もできないでしょう。乱歩のこと縛っておきたくないの」

 今までの日々もあの夜のことも忘れて、生きていく自分を想像する。乱歩の隣にいない自分は、何を思って過ごすのだろう。わたしの人生から乱歩を抜いたら、何が残るのだろう。

「瑠梨亜は本当に、僕が誰かに縛られることなんてあると思う?」
 ハッとする。わたしが乱歩に与えられる影響なんて、微々たるものだ。好きな人が出来たらすんなり離れていくだろうし、わたしに遠慮する彼なんて解釈違いもいいところ。
「……ない、と思う」
「そうだろ? 急に莫迦なこというの辞めて欲しいんだけど」

 だからこの話は止め、とでも言うように、彼がソファから立ち上がる。ふっと緊張が緩んで、肩に入っていた力が抜けた。聞こえていなかった時計の音や窓を揺らす風の音が、再生ボタンを押したみたいに流れ出す。

「待って」何も言わなかったらこのまま終わるのに。また明日から、いつものわたしたちに戻れるのに。けれど、溢れてしまった疑問は、想いは止まらなかった。「わたし、どうしたらいい」 
 乱歩が振り向いて、視線がかち合う。鋭くて底の深い翠が、わたしを射抜いた。
「……僕と居た方が良い」
 いつかのわたしにくれたのと同じ、自分勝手で絶対的で、すてきな台詞。このひとの隣にいてもいい、という赦し。
「そっか。名探偵が言うなら間違いないよね」
 唇をぎゅっと結んで、じっと絨毯をみつめる。あかるく、冗談っぽくしたかったのに、想像の倍くらい沈んだ声だった。
「当たり前だろ」

 間にできた空白にそっと踏み込んで、乱歩の肩へ額をつける。数秒も立たないうちに背中へ腕が回されて、つよく抱き寄せられた。わたしもそれにならう。わたしたちの間には、数ミリのすきまも無くなる。こうやって触れ合うのは、ひどく久しぶりな気がした。
 
 ▽▽▽
 
「飲むの、珍しいね」付き合ってくれてありがとう。礼もそこそこに、お気に入りのグラスを取り出して、それから炭酸水とバーボンを注ぐ。マドラーで数回かき混ぜると、氷のぶつかる小気味よい音が響いた。ひとくち飲んでから、ペットボトルと背の高い壜の蓋をしめる。即席のバーボンハイボールは、お店で飲むのとは違う、もっと身近な味がする。身体によく馴染む。こんなことは彼に言っても、きっとわかって貰えないだろうけれど。

 化粧を落として、部屋着に着替えて、あとはもう寝るだけといった状態でお酒を飲むのがいちばん好きだ。とはいえ今日はわたしも随分飲んでしまっているし、乱歩が十一時半をすぎても起きているなんて異常事態といってもいいくらいだった。しかもお酒に付き合ってくれるときた。たまに飲みたくなるから、と買い置きしていた甘い缶チューハイは、わたしに飲まれるためではなく、今日のために存在していたのかもしれない。

「もう十二年。信じられない。あと数年すれば、乱歩に出会ってからの人生の方が長くなるのね」
「うん」数分前抱きしめてくれた相手とは思えないほど、乱歩の返事は素っ気ない。
「お互い、親よりも長くいる存在になるのかあ」

 本日二度目のアルコールが回ってきたのか話す速度が落ちて、顔が熱くなる。弱いほうではないけれど、最近は飲む機会も減っていたから、酔いが声にも顔にも出てしまう。

「もし乱歩のお父さんお母さんに会えるのなら、言いたい。……というか、見せたい、か。こんなに可愛く、格好良く、素敵なひとに育ったんですよって」きっと大喜びするわ。普段思っていても伝えられないようなことが、流れるように出ていく。不思議な感覚だった。
「瑠梨亜がそうやって僕のこと褒めるの、久しぶりな気がする」ラムネ味の酒が入った缶が、小さな音を立てて机に置かれる。
「そう? 言わないだけでいつも思ってるよ。きっと」

 彼のほうへ向き直して、そっと頬を包んだ。なぜだか急に、乱歩に触れたくなったから。つめたく白くなった指先に、夏のまんなかみたいな熱がうつる。不意に、視線がかち合った。わたしが合わせにいったような気もするし、乱歩がずっとわたしを見つめていたような気もした。

「ずっと……」言葉は続かない。
 まばたきする度、ひかりの粒がまとわりついてくる。何度目を瞑っても、世界ははっきりしなかった。泣きたいわけでは無いのに次から次へと涙が落ちて、けれど両手は乱歩の頬へ添えられているから、拭うことも出来ない。
「ずっと、いちばんだから」
 扇状にひろがる睫毛がゆるりと持ち上がって、少年の彼が持っていたそれと同じうつくしいグリーンがきらめく。どこかの誰かの白い手袋によってゆっくりと丁寧に開けられる、堅牢で荘厳な宝石箱みたい。世界でいちばん綺麗で、わたしの好きな光景。

 乱歩が何か言いかける。わたしの名前の欠片のような、呼び掛けの切れはしのような、そんなもの。それを聞かずに、わたしは短いキスをした。ほとんど衝動的な行動だった。
 グラスを取って、ソファへ背中を沈める。氷が鼻に当たるくらいの勢いをつけて、約三分の一を一気に流し込んだ。慣れ親しんだ味のお酒は、水みたいにわたしのなかへ溶けて、カイロのように発熱しはじめる。世界がふわふわと揺れていた。

 黄色くひかるハイボールを再びテーブルへ置くと、乱歩がそのままグラスを持っていって、ゆっくりひと口飲む。見ている限りそれは飲むというか、舐める程度だったのだけれど、
「美味しくない。よくこんなもの飲めるね」
 と顔を顰めて、すぐに缶チューハイを煽った。
「酷い言われ様だなあ。わたしにとっては美味しいの」
 乱歩から押し付けられたグラスを意味もなくからから揺らして、残りのすべてを飲み干す。明らかに頭がぼうっとしてきて、これ以上はいけないと深呼吸をする。水でも取りに行こうかと身体を起こせばなぜか乱歩に制されてしまって、もう一度座り直した。
「水、飲みたかったんだけど」

 さっきわたしがしたみたいに、乱歩がわたしの頬へ触れる。すっかり熱くなった顔と彼の手の温度はほとんど変わらなかった。抓まれたりなぞられたりする間、ふたりの境界がぼけて無くなっていくところを想像してみる。頭のなかのわたしたちは、指先から溶けていって、ひとつになる。恋と酒に浮かされた、莫迦みたいな空想。

「……後にして」
 わかった、と答える他なかった。どうしてわたしは乱歩の言うことに逆らえないのだろう。そのまま身を任せていればまぶたが降りてきて、人肌のあたたかさにだんだん眠くなってくる。

「瑠梨亜」名前を呼ばれて、薄目をあける。曖昧な視界のふちで、自分のまつ毛がゆっくり持ち上がっていくのがみえた。
 乱歩の手がわたしの顎へ移動して、そのまま添えられる。なに、と短く返せば、顔が近付いて、唇が重なった。わたしがしたのよりうんと長い、ラムネとバーボンの味のする口付け。
 角度を変えて何度もおりてくるそれはあの時よりずっとあつくて、甘くて、くるしい。一度として貰ったことのない好き≠ェ身体中へ注がれて、満たされる。何も言われなくたって、わかる。それくらい一緒にいるのだから。

 ふたりでソファへ沈んで、しばらく長いキスをした。太ももとかお腹とかの距離がゼロになって、触れたところから体温がとける。夢みたくしあわせな時間だと思った。キスが止んで瞼を開ければ、自然と視線がかち合った。ひとみに映る自分は、見たことの無い顔でこちらを覗いている。

「飲みすぎちゃった。もう寝よう」
「……今日は、ベッドで寝なよ」

 ベッドで、ということは一緒に寝るということなのだろうか。泊まりに来たときは、乱歩がベッドで、わたしが来客用の布団で寝ることになっている。最初のほうはじゃんけんで決めていたのだけれど、当たり前ながら十割十分乱歩が勝つ。次第に何も言わなくてもわたしは布団を敷くようになったし、乱歩は我が物顔でベッドを占領するようになっていた。それが、ベッドで寝なよ、なんて。

「それは、一緒に寝るってこと」
 返事は来ない。何も言わないままわたしの上から退いた乱歩は残っていたお酒を飲み干して、勢いよく缶を置いた。空気が重くて、隣のグラスへ手を伸ばす。氷だけになったそれを傾けると、湿った夜の残骸みたいな味がした。 

 
 カーテンを閉めて、灯りを常夜灯だけにしてしまうと、いよいよわたしたちの前にはベッドしかなく(布団は畳んでベッドの下へ入れてある)、沈黙だけがこの場を揺蕩っていた。けれど、わたしか乱歩どちらかが触れてしまえば、さっきまでの男女じみた空気がすっかり帰ってきてしまうような気がして、動けない。このまま流されてしまえば今度こそ、元には戻れないのだ。大人は二回も間違えたりしない。
 意を決して、ベッドの縁へと腰かける。こういうとき、わたしが先に行動するのは珍しい。

「さっきはごめん」
 乱歩が隣に腰を下ろして、「何で謝るの」と訊いてくる。何で、なんて、わたしにもわからない。
「なんでもよ。……もう寝よ、明日も仕事だもの」
「……瑠梨亜、」

 腕を引かれて、自然と唇が重なる。彼の名前を呼んでみたけれどそれも飲み込まれてしまって、抵抗するのをあきらめる。……いや、きっとわたしは最初から抵抗する気なんてなかったのだと思う。今日だってあの夜と同じだ。乱歩が好きなようにすればいい。彼に救われたあの日から、わたしの全部は彼のものなのだから。

「乱歩」胸がぐっと詰まって、泣きそうにすらなる。投げ出されたつま先の冷えが痛みへと変わって、感覚が死んでいく。「好き。この世界でいちばん。ずっと、何も変わらないの」
「そんなこと、言われなくたってわかる」

 眉の下がった、困ったような微笑み。乱歩はもう、こんな顔だってできるのだ。狡い大人の笑み。
 静かに光るみどりの双眸から逃げられないまま、後ろへそっと押し倒される。唇に、首筋に、鎖骨にあたたかい口付けが下りてくる。指が絡んで、やわく握られる。そのとき小さく「僕もだよ」と聞こえたのはきっと、幻聴でも聞き間違いでもないはずだ。
 
 ▽▽▽
 
 乱歩と過ごしたのはたったの一週間だというのに、ひとりで歩くのはひどく久しぶりな気がした。あんなに一緒にいたのに特に恋しくなることも無く──職場が同じなのだから当たり前といえば当たり前だけれど──むしろひとりきりの帰路は贅沢な散歩の時間だったのだとすら思える。今日は定時より一時間ほど過ぎてしまって、だからすれ違う人たちの面々も異なっていた。ディナーへ向かうカップルや、わたしと同じく退勤し帰宅するところなのであろうスーツの男性。いつもなら見かける部活終わりの学生や、塾帰りの子どもたちはいない。立ち並ぶ建物も大きな影みたいに見えて、電線はほとんど空の黒に溶けていた。

 この街の夕方は、いつだってなつかしくて淋しい匂いがする。そこに、住宅街を抜ける時は浴室の窓からもれる湯気、家に着く頃には近所のラーメン屋の匂いも混じってきて、他人の存在がわたしをすこしだけ安心させる。

 ひとりのときは、焦って横断歩道を渡ったり、曲がってくる車を待たせたりもしない。数メートル先の信号や道路の様子をみて、「ああ、渡りたかったなあ。でもまあいいか」なんて心の中でひとりごちて、いろいろ諦めながらゆったり向かうのだ。仕事のときは無意識に状況を予測しながら行動するからだいたい間に合うし、時には走ったり、慌てて回り道したりもする。人前でのわたしはちゃんとしていて、きっちりしていて、頑張っている、と思う。けれどそれでいて、急いだとしても長い人生のうちではきっと数秒も変わらないということもわかっている。だから、散歩の時間くらいはゆったり気ままに、自分に正直に過ごすことにしているのだった。
 
 乱歩と居た時よりだいぶ時間をかけて、ようやく家に着いた。上質な散歩はわたしを満ち足りた気持ちにさせてくれる。今日は誰に気兼ねすることなくベッドで眠れるのだ。ソファで思い切り寝転がることだって、展開を知らされることなくドラマに熱中することだってできる。上機嫌でヒールを鳴らして、ドアへ鍵を差し込む。直後、え、と声が出た。朝出た時はきちんと閉めたはずなのに、空いていたからだ。合鍵を持っているのは世界で一人しかいない。
 

「……なんで居るの」

 コートも脱がないまま、ソファへどさりとよしかかる。自分のペースで歩いたあとの心地よい疲労がからだを侵食して、背もたれへ頭を置けばもう二度と立ち上がれないような気がした。わたしがリビングに入るなり「遅い!」と文句で出迎えてくれた彼は、買い置きのチョコレートと彼用のラムネをテーブルへ広げている。

「社長が帰ってきたらもう来ない、なんて言ってない」
 確かに言われてないな、と思う。
「それに、今日僕のこと避けてた」
 確かに避けてたな、と天井を仰いだ。体勢も相まって、このまま目を瞑れば眠れそうだ。今日は外に出ることもなく事務をしていたのに、いつになく疲れている。何も無かったように振る舞い、それとなく乱歩のことを避け続けるのに緊張していたみたいだった。
「だって気まずいもの」

 乱歩に気まずいなる感情があるのかはわからないけれど、実際に思っている以上、こう答えるしかない。彼は横目でちらりとわたしを窺ったあとで(わたしはこの表情が好きだ。今よりずっと騒がしかった少年時代の彼の静かな一面を思い出すから)、つまらなそうにチョコレートの包装紙をテーブルへと放った。

 両手を頭の上で結んでそのまま伸びをする。深く長いものになった呼吸が全身をやわらげて、欠伸すらこみ上げてくる。ひとりならこのまま眠ってしまっていただろうけれど、今日も乱歩がいるのだ。自分はともかく、彼にはちゃんと夜ごはんをとってもらいたい。三食きっちり食べて規則正しい生活をするのは、乱歩のルーティンみたいなものなのだから。とはいえ今からしっかりした物を作る気力もなければ材料も無いから、外にでるしかない。

「どっか食べに行く?」
「うん。食べたらそのまま帰るけど」
「……ああ、そうなの。じゃあ出ようか」

 てっきり泊まっていくものかと思っていたから、一瞬間ができてしまった。ソファの横へ下ろした鞄から財布だけ抜いて、ポケットへ入れ直す。テーブルに置いてあったリップをさっと唇へすべらせて、ゆっくり立ち上がった。リキッドタイプのそれは落ちにくいことを売りにしており、実際ご飯を食べたあとでも色が残るため、重宝している。いまさら乱歩の前で可愛くいたいなどとは思わないけれど、横浜で名の知れた探偵の横に美意識の欠片もない女が居るのは、あまり良いものでは無いだろう。本人が気にしなくたって、わたしはそういうことも気にする質だ。自分が何を言われても気にしないことにしているけれど、乱歩が悪く言われるのは耐えられない。
 
 ▽▽▽
 
 近くのファミレス──乱歩はここのカレーが好きで、わたしはいつもパスタを注文する──で食事を終えて、車のライトと街灯、それから信号機のひかりがせめぎ合う大きな道路へと出る。帰り道とは違う、もっと深く純度の高い夜の香りがした。車の行き交う音やたまにすれ違う自転車の風を切る音は鋭くて、それらが近づいてくる度わたしは小さく身体を強ばらせる。

 福沢さんの家へはファミレスを右に行く必要があり、わたしのアパートへ帰るには左へ行かなくてはならない。つまりここがわたしたちの別れの場所であり、一週間の同棲の終わりの場所なのだった。

「じゃあ、また明日」

 こういう分かりやすい別れは苦手だった。帰ってしまえばやっぱり一人が楽だと思うのに、この瞬間だけはどうしようもなく寂しくなる。繋ぎとめて、一緒に帰ってほしいと縋りたくなる。

 街の雑多な灯りの中、乱歩がわたしのほうへと近づいてくる。目は柔く細められて、口は綺麗に弧を描いていた。エメラルドのひとみが怪しく光る。何も言われなくって、これからされることは察しがついた。わたしは大人らしく目を瞑る。

 三秒間。無意識に数えていた。冷たい風の吹くなか、びっくりするくらいあたたかなキスだった。

「また明日」さっきと同じセリフを繰り返す。また明日。親友でも兄妹でも恋人でもないわたしたちはまた、明日も探偵社で顔を合わせるのだ。
「うん」

 茶色の外套が、景色に飲まれて遠ざかっていく。反対方向へと足をむけて、ゆっくりと歩きだした。夕方もいいけれど、この街は夜の深まる時間が一番魅力的だ。信号の点滅する横断歩道で立ち止まって、すっかり熱くなった頬に手を添える。ポケットのなかで震える携帯に気が付かないふりをしながら。



   



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