帰れないふたり





浅い夢に縋る


 
 乱歩と居る時間が、週二日から週七日になった。一時的なものだとしても、こうして四六時中彼と共に過ごすのはひさしぶりのこと。朝起きて、ご飯を食べて、出社する。別のフロアで業務にあたって、歩いて帰る。夜ご飯を食べてたわいない話をし、眠る。また、朝起きる。一日の工程の全部が乱歩と共にある毎日。二回くらい、結婚するってこんな感じなのかも、と思った。けれど、こんな生活も明日で終わり。福沢さんは無事遠方の仕事から帰ってきたし、乱歩がわたしの家に帰る理由はなくなった。もう二十六になる彼は、決してひとりで過ごせない訳ではない。本来彼は何だってできる。緊急時には普段やらないようなことでもそつなくこなしてしまうということを、わたしは知っていた。つまらないから、暇だから、などと言ってわたしの家に泊まるのは、甘えているだけなのだ。

 今日も遅刻することなく探偵社に着いて、二階で乱歩とわかれる。事務員の同僚に「ついに付き合ったの?」と冷やかされること計一七回(数えだしたのは途中からなので実際にはもっと多くの冷やかしを浴びている)、そんな日々もようやく終わりを告げるのだと不思議な開放感に包まれた。ムキになって反論するほど嫌ではないし、けれど適当に認めて嘘を広めるわけにもいかない。皆のことは信頼していても、ひとの噂ほど怖いものは無いのだ。

「瑠梨亜ちゃん。この間の出張の報告書、もう出した?」
 隣のデスクで作業中の同僚が、声をかけてくる。福沢さんが戻ってから出す予定だったけれど、大きな業務のない今のうちに机に置きに行ってもいいかもしれない。
「明日出そうと思ってたんだけど、そうだね、今置いてこようかな」
 ありがとう、礼を述べて立ち上がると、
「ついでにこれも置いてきて」
 ファイリングされた書類が三冊ほど手に載せられる。「はいはい、それが目的ね」

 
「皆おはよ」
 事務フロアからひとつ上がったところに、社員用デスクや応接間、そして社長室がある。ついでに顔を出しておこうとドアを開ければ、ソファで寝転がる太宰が目に入る。
「何サボってるの」
「あぁ、瑠梨亜さん。なんだか今日はやる気が出ないのだよ」
「もう、それはいつもでしょ。ほらデスクに戻って。昨日の事件の報告書、まだでしょう」
 腕を引いて無理やり起こそうと試みる。が、思いのほかバランスが悪かったようで、わたしの腕の隙間から書類が滑りおちていく。

「ほら、太宰が起きないから」
「瑠梨亜さんが無理やり起こすから」
 どちらもテーブルへ散らばった紙を拾うことなく睨み合っていると、
「何を下らない言い合いしてるんだい」 
 向こうで乱歩と話していた晶ちゃんが、呆れたように見つめてくる。
「だって」言葉が重なる。まるで子どもの言い争いだ。
 晶ちゃんはかけていた椅子から腰を上げて、わたしたちのほうへ歩いてくる。どうやら拾うのを手伝ってくれるみたいだった。後ろから乱歩も向かってきていた。
「瑠梨亜はホント、太宰と居ると子どもみたいだねェ」

 わたしのことで困ったように笑う晶ちゃんの顔が、本当はすごく好きだ。絶対に怒られるから、言えないけれど。いくら親友だからといっても、朝からバラバラになるのは避けたい。晶ちゃんの治療はものすごく痛いのだ。「そ、そんなことない。今だって注意の一環で、……」

 応接間のソファと書類を囲んで話し込むわたしたちの図は、なんというか武装探偵社の朝とは思えないくらい、平和。わたしと太宰との飾らない会話も、多分くだらない賭けの話なんかをしていた晶ちゃんと乱歩も。

「瑠梨亜さん、これ」
 いつのまにかソファから起きた太宰が、わたしの横から手を伸ばす。ホチキスどめされた五枚くらいの束を抜いて、そのまま渡してきた。「何よ。そんな大事な書類あった? ……あ」
 確かに、今の状況はまずいかもしれない。しばらく乱歩とすごしたせいで感覚がにぶっていて、出張のことが頭から抜けていた。無意識に考えないようにしていたせいでもある。というか、そっちの要因の方が大きい。
 この人を騙すには、そんな隙見せちゃいけなかったのに。
「それ、何。見せてよ」
「ただの出張報告書、この間のやつ。社長室に置いてこようと思ってたんだ」
「へえ。瑠梨亜が書いたの?」

 ──ハァ、今回の出張決めたの誰? 信じられないよ。
 数週間前の乱歩の声がフラッシュバックして、頭を抱えたくなる。こんなもの見られたら最後、全て解かれて終了だ。数分前のわたし、この状況の何が平和なんだ。まったくもって緊急事態。信じられない。

「うん。でも、大したこと書いてないよ」
「大したことを書いてないなら、なんで僕に渡さないの?」
「興味無いかと思って」
 抗いつつも、半ば諦めの気持ちだった。ここまで頑なに見せないなんて、何かあるに決まってる。そんなの乱歩じゃなくたってわかることだ。
「この間、誰が決めたのって言ってたけど」
「うん」相槌を打つ間も、乱歩はわたしから視線をそらさない。グリーンの双眸は、今日も底まで澄んでいる。
「わたしなの。自分で、決めた」

 ゆっくりはっきり、伝わるように。手は所在なく動かないように握りしめて、瞬きを増やさないよう目に力を入れる。本当はもっと後で、誤解を招かない形で伝えたかったのに。でも、これ以上嘘をついていたって事態は好転しない。わたしが必要なくなった乱歩とだらだら一緒に居ても、お互い幸せになんてなれないのだから。

「は、どういう」
「古い取引先の企業で、新しい事業を始めるからって。もしわたしさえよければ、そのまま」
 皆、良い人たちだった。都心からは離れているけれど過ごしやすそうな街だったし、長く住んでいればきっと好きな人だって出来る。けれどどうしても、踏ん切りがつかない。探偵社が好きで、乱歩が好き。すぐに決めなくてもいいと言われているけれど、このままだと一生決まらない気がする。
「……なにいってんの。それはつまり、探偵社を出ていくってことだろ。僕の前からも居なくなって」

 手に持っていた書類が乱暴に奪い取られる。乱歩は五枚の報告書をあっという間に読み終え、そのままぐしゃりと丸めてしまった。そのままゴミ箱にでも放りそうな勢いだ。
「うん、でもまだ決めたわけじゃ、……」不機嫌を顕にした乱歩に気圧されて、上手く言葉が出てこない。いつもだったら行かないから大丈夫、とか乱歩から離れるわけない、とかそういうことがすらすら出てくるはずなのに。
「好きにすればいい」
 数年ぶりに聞いた、突き放すような声色だった。悲しみも怒りも呆れもない、まったくの他人に投げかけるような温度。

「…………うん。ごめんね。太宰も晶ちゃんも、ごめん」
 同僚のファイルを集めて、それから乱歩のほうへ向き直す。手を伸ばそうとしたら、その前に報告書を突き出された。無言のまま受け取って、踵をかえす。弁解したい気持ちもあるけれど、今は何を伝えても無駄だろう。 

 
 誰もいない社長室へ入って、ファイルだけを机へ置いた。グシャグシャのまま提出する訳には行かないから、やっぱりまた明日、福沢さんが帰ってきてから直接渡すことにする。
 引き返そうとしたとき、不意に背後に気配を感じて息が止まる。ゆっくり振り返れば、砂色の外套と白い包帯が揺れていた。

「なんだ、ビックリしたじゃない」部屋に入ってきたことも後ろで見られていたことにも全く気が付かなかった。わざと気配を消していたのだろう。「ねえ太宰、わたしどうすればいいと思う?」
「瑠梨亜さんは、乱歩さんのことになると途端に弱気になるね」
「仕方ないじゃない。家族みたいなものなんだからさ」
「乱歩さんが同じように思ってるかはわからない。……まあこの話は今日、お酒を飲みながらでも」

 こういうとき、この人は本当にわたしの味方をする。ふざけている時だとか仕事をサボっている時だとか、普段は不真面目な青年にしか見えないのに、急に物分りの良い素晴らしい後輩になってしまう。
「……そうね」ひとりで夜ご飯を食べる乱歩が頭に浮かんで、それから冷蔵庫の中身が次から次へと、存在を主張してくる。「今日は帰りたくないから、奢るよ」

 わざわざ宣言しなくたって、ふたりで飲みに行く時はほとんどわたしがお金を出していた。だから言う必要なんてないのだけれど、今日の夜はいつもと違う。対等ではなく、付き合ってもらう立場。素敵な後輩は、わたしを見つめて微笑んだ。「楽しみだなあ」

 
 ▽▽▽
 
 退勤後わたしたちがやってきたのは、街のはずれのほうにある落ち着いた雰囲気のお店。瀟洒なビルの地下にあるここは、テーブル毎に半個室のようになっていて、話しやすかった。いつもは騒がしい居酒屋で──それもカウンターで──飲むことが多いから、こうして個室で太宰と向かい合うのは新鮮だった。
 
「わたしは結局、乱歩から離れられないのかなあ」
 すでに太宰は日本酒を一合弱、わたしはハイボールを三杯、いや四杯ほど飲んでいる。半分くらいになったグラスの中身を一気に飲み干して、メニューを手に取った。氷がカラリと音を立てるのが、静かなBGMとささやかな話し声にまざらずわたしの耳へ届く。
「その気になれば離れられるさ。わざわざ出張まで行ったのだし」
「そうなんだけど」

 昼に乱歩にバレてしまった秘密の出張を決めたのも、こうして太宰とふたりで飲みに来たときだった。
 打ち合わせへ赴いた時に今回の話を振られて、誰にも相談できなかったわたしはまず太宰に相談した。とはいえ最初から、後輩を頼ろうなんて思っていた訳ではなく、もとから打ち合わせの日の夜に約束していて、悩んでいるのを見抜かれた結果言ってしまった、が正しい。お酒を飲むと、自分と他人──普段から親交のある、とくに探偵社の同僚たち──との境界が揺らぐ感じがして、いつもは言えないようなことも、口にしてしまったりするところがある。もちろん、マイナスなことだとか守るべき秘密だとか、はもらさないよう気をつけているけれど。迷惑をかけるような酔い方をするひとは、少なくとも、後輩と飲みに行くべきではない。もっとも、仮にそうなったとして太宰は平然とわたしとの付き合いを辞めてしまいそうなところもあり、だからいちばん親交のある後輩という立ち位置になっているのかもしれなかった。真面目で、わたしを先輩として本気で慕っているような従順な後輩だったらきっと、ここまで仲良くなれはしなかっただろう。我ながら、面倒くさいと思う。というか多分、人付き合いに関して不器用なのだ。

「乱歩さんのことが好きなら、もともと遠慮する必要なんてないんじゃないかな。それに乱歩さんだって──」
「わたしのことが好きだって? ……みんなそう言うわ」でも、と言いかけて、テーブルへ注文を聞きに来た店員へ追加のハイボールを頼んだ。
「じゃあ、私と付き合ってみるとか」言葉の続きが発される前に、太宰が言う。
「毎日脅迫状が届きそう。あとは家に爆弾とか」
 物腰が柔らかくてとにかく優しい、そしてこの美貌。この男に泣かされた女は数知れない。太宰と付き合うなんて、口に出すのもおそろしい。

「いやあ瑠梨亜さん、流石にそんなことは、」お猪口へ日本酒を注ぐ手が止まる。「……あるかもしれないね」
「でしょう。モテる人と付き合うのはつらいから嫌」
 付き合ったことも無いのに偉そうなことを言うものだ、と我ながら思う。モテる人と付き合ったこともモテない人と付き合ったことも無いのだから。わたしの知っている男のひとは、乱歩だけだ。
「うーん、なら向こうで出会ったひとは?」
「わたしその話したっけ?」運ばれてきたハイボールを早速一口飲んで、静かにテーブルへと置く。

「してないね。カマをかけてみただけ」
「もう。引っかかった」いやだわ、と頬杖をついて、もう片方で皿の枝豆を取る。酔いが回ってきて、手元がおぼつかない。いつもなら一粒ずつ皿に出すところだけれど、今日は直接口につけて食べた。こういう気を抜いたこと、をする度、出張先での夜を思い出す。誠実で、わがままなんて言いそうもないあの人と過ごした冬の夜たち。
「優しい人なんだ。よく気が利いて、誠実な感じ」

 スタイルの良い長身で、きっちり着こなされたスーツが良く似合う人だった。いつも笑顔で、部下からの信頼も厚い。向こうに着いて一番最初に話しかけてくれたのも彼だったし、良かったら二人でご飯行きませんか、と声をかけてきた時の照れた表情まではっきりと思い出せる。乱歩が居なかったらきっと、惹かれていた人。

「よくメールも来るの。あんまり返せてないけれど、それでも嫌味ひとつ言われないの」
 乱歩といる時はあんまり携帯を見ないようにしているから、自然と返信は遅くなる。朝と昼に来ていたメールに対して、寝る前にようやく一通返信する、と言った感じ。電話に誘われることもあったけれど、ここ最近はずっと乱歩が家にいたし、離れた場所で電話をしてしまうと途端に関係が恋人へ近づく気がして、断っていたのだった。

「へえ。乱歩さんとは正反対、なのだね」
「……正しく、そうね。香水の好みも違うし」
 街を離れるときに彼がくれた流行の香水は、乱歩に変だと言われてからなんとなく付けられずにいる。とはいってもそれはただのきっかけで、わたしが元の香水を気に入っているから戻しがたいだけなのだけれど。

「付き合う気は?」
「無い、かなあ。今度会う機会があったら言わなくちゃ、とは思ってるんだけど」
「付き合ってみればいいじゃないか。駄目だったら別れればいいのだし」
「太宰とは違うのよ。すごく真剣なの。結婚の話とか、されたし」

 毎日乱歩のことでいっぱいいっぱいなのに、昨日今日知り合った男の人──実際には昨日今日ではなく、もっと長い間一緒に働いた仲なのだけれど──と結婚を前提にしたお付き合い、をするなんて、わたしには到底無理な話だった。これならまだ、太宰と心中を前提にお付き合いした方が、気が楽、というものである。

「私を不誠実な男みたいに」
「誰でも彼でも口説いてる人が、誠実なわけないわ」
「ふふ。実はそうでもないのだよ。私はいつだって真剣に──」
「はいはい」

 自然と洩れた笑みは太宰にも伝染して、目を合わせたまましずかに声を立てた。お互いお酒を飲んでふっと一息ついたあとは、もうあの人の話題も、乱歩の話も出ることは無かった。
 
 ▽
 
 席へ戻ると、太宰が居なくなっていた。それに、伝票もなくなっている。トイレにたつ前はたしかに、テーブルの下に収まっていたはずなのに。あわてて店員に確認すれば、
「お代ですか? もう頂きましたよ」と笑顔を向けられてしまって、困惑するより他ない。若い茶髪の店員は、明らかに太宰に好感をもっている様子だった。椅子にかけていた上着を羽織れば、
「お連れ様なら、出口で待っていらっしゃいます」
 指先までピッチリ揃えられた手が、ドアの方向を差している。
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」肩にかけた鞄の紐を持ち直して、出口へ向かう。「……今日に限って。ずるいなあ」
 
「太宰」壁に寄りかかる彼は四つも年下とは思えないくらいに大人びて見えて、なにより絵になっていた。「ありがとう。後輩に奢ってもらうなんて、初めてかも」
 横に並んで空を見上げれば、紺色というよりは藍色に近いような、彩度の低い夜が広がっている。分厚いグレーの雲が月も星も隠して、何層にも連なっていた。

「いいえ。たまには出しますよ」
「……かっこいいなあ、って少し思った。なんか悔しい」
「ふふ。見直した?」
「まあね。恋人にはなれないし、一緒に川に入ってはあげられないけれど」
 残念だなあ、笑い混じりの声が辺りに小さく響いた。余韻が消えないうちに、どちらからともなく歩き出す。
「春にする夜の散歩って良いよね」
 地面のタイルを斜めに踏みながら、ゆっくり息を吸う。冬の残り香と夏のはじまりに花を散らしたような、やさしい匂いがした。幸せな春の夜にしかない匂い。
「……確かに。あまり意識していなかったけど、良いものだね」

 車通りの少ない路地は足音がコンクリートのずっと底まで鳴っているんじゃないかというくらいのしずけさで、もちろんのこと人は一人もいなかった。
 自転車がわたしのま横を通り過ぎた時、そうするのが決まっていたみたいに太宰の腕の中へ閉じ込められる。酔ったなかでの人肌は離れがたくて、自転車のタイヤの音が遠ざかったあともしばらく、頭を預けていた。安心する温かさに瞼が落ちかけて、あわてて目を開く。一歩分後ずされば、いつかの朝と同じように片手をがっちり握られてしまった。太宰のひとみの黒が闇を帯びて光る。目が離せず、真っ直ぐに結ばれた唇が開かれてうつくしく弧を描くのを、ぼうっと見守ることしか出来ない。色香とおそろしさは紙一重だ。

「見られたらまた、乱歩さんに言われちゃうなあ」太宰の中指が、わたしの手の甲をなぞる。「ふふ、でも危ないから」
 二人の間で、繋がった手が揺れる。つよく風が吹いて、どこからか潮の香りがした。
「……そんなに酔ってない」
「いいでしょう? たまには。浮気じゃないんだから」
「それはそうだけど」

 高いビルの間から色とりどりの灯りが浮かび上がって、流れていく。真上の空は青いのに、遠くはどこまでも真っ暗だから不思議。

「そもそも瑠梨亜さんは何故、乱歩さんと付き合わないのかなあ」
「乱歩もわたしが好きならとっくに付き合ってるはず」自分の言葉が身体の奥に刺さって、そこからじりじりと痛みが広がる。「それに、きっとわたしなんかが捕らえてちゃ駄目な人だからよ。近くで見てたらわかる。純粋で素敵で、格好良くて可愛いの。乱歩の恋人はわたしよりずっと優しくて、一緒にいて楽しくて、それから理解のあるひとじゃなきゃ」
 指を折って数えていくうち、果たしてそんなひとは居るのだろうか、と思う。
「……そんなひと居るかなあ」見透かしたように微笑まれて、言い返すことばが出てこない。

 太宰と話していると時々、乱歩みたいだ、と感じることがある。全然違うのに、どこか似ている。
 しばらく歩くうち、見慣れた建物や看板が並ぶようになってきて、なんとなく足取りが重くなる。腕時計を確認すれば、時刻は十一時を指していた。乱歩はさきに寝ているだろう。それでも、明日の朝の気まずさやその後のことを考えれば、どうしても気持ちが沈んでしまう。
 
「もう帰ります?」

 マンション前の公園に足を踏み入れたとき、太宰が聞いてきた。街灯の少ないここでは木も芝生も夜に沈んでいて、遊具のくすんだ赤や黄色だけが鈍くひかっている。
 解けかけた手を追いかけることはしなかった。そのまま離れて、コートの上にぱたりと落ちる。どうしよう、と言いかけた矢先、見上げた先で部屋のあかりがまだついているのが目に入る。「帰る。帰らなきゃ。まだ起きてるみたい」
「やっぱり、乱歩さんには勝てないなあ」
「何言ってるのよ。もとから勝つ気なんてないくせに」
 ありがとうね、と手を振れば、
「いえいえ。ちゃんと話さなきゃだめですよ」と後輩じみた口振りで返してくる。
「うん、頑張る。じゃあまた」
「また明日」

 入口までは何度か振り返りながら歩いて、ドアがしまったあとはほとんど駆け足でエレベータに飛び乗った。ボタンを押して、夜風で冷えた手のひらで頬を包む。意識がほんのり覚醒して、周りの温度が下がった気がした。

 部屋へ着いたら、乱歩に会ったら。どうすればいいのか、考えてもわからなかったけれど、わたしはあのひとのもとへ帰らなきゃいけない。


   



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